日光街道を歩く06 第3日目

 

越ヶ谷宿ー粕壁宿ー杉戸宿

2019.01.29
東武越谷駅ー東武動物公園駅
距離28.0km 時間7:06:36 高度上昇37m

3日目は越谷から再開する。このあたりからは「将軍の鷹が逃げたから祈ってみたら捕まった」「偉い人が腰掛けた岩」など、なんとなく牧歌的な史跡が多い。

越ヶ谷宿

 宿の名前は「越ヶ谷」であるが、行政区や駅名、などでは「越谷」と書かれる。

 越ヶ谷宿は日光街道の敷設後に早々に宿場が設けられ、なかなかの規模を誇ったものであるが、明治の2度に渡る大火で古い町並みの殆どを消失してしまった。

小泉家

 越ヶ谷宿で現存する建物としては唯一、蔵と店舗が横に並ぶ。昔は間口で税金が決められていたため、店舗の裏に蔵や住居を置き、細長い区割りにして家を建てたが、この旧家は代々越ヶ谷の指導的地位を務め、非常に裕福な豪商だった。

 塗師屋(ぬしや)と書かれた大きな柱時計は今も時を刻み、当主は代々「市右衛門」を名乗る。現在も電話帳には「小泉市右衛門」と掲載されているそうだ。

久伊豆神社

 ひさいず神社。2代将軍秀忠、3代将軍家光も訪れた越ヶ谷郷の総鎮守。昼でも薄暗い緑の中の参道は300mあまりも続く。

 家出をしたり悪所通いが止まらないときは、家の者が狛犬の脚を縛ると治るという言い伝えがあり、その通り狛犬の両足はぐるぐる巻に縛られて、少し気の毒である。

古奥州道標

 青面金剛庚申塔は道標を兼ね、「左志”おんじ 乃じま道」と刻まれている。正面に大きく「青面金剛」と陰刻、その下に三猿の陽刻がある。越谷市の野島を越え、岩槻市の坂東三十三箇所第12番札所、慈恩寺へと向かう道を示している。

林西寺

 林西寺(りんさいじ)は嘉暦年間(1326-1329)の開山と伝わる浄土宗の寺。近くの一ノ割村に生まれた呑龍上人(どんりゅうしょうにん)はこの寺で14歳の頃に出家し、その後江戸の増上寺で修行した。

 江戸時代は寺領25石を拝領し、徳川家15代のうち12人の将軍からその証明である朱印状を頂いており、一通を除く11原本を保存している。

東陽寺

 芭蕉たちは粕壁で一泊したが、その場所がこの寺であったと考えられる。

 寺碑「廿七日夜カスカベニ泊ル江戸ヨリ九里余」とは河合曾良の随行日記より。

碇神社

 江戸時代の盟主・多田家の屋敷の稲荷が始まり。祠の脇に生えているのはイヌグスで樹齢600年を超える。これは室町~江戸時代、傍を流れる古利根川を渡る船頭の目印となっていた。

粕壁宿

 春日部と粕壁。街を歩くと、字名などで今も粕壁の文字を見ることができるが、実は歴史は春日部の漢字のほうが古い。

 粕壁は江戸時代には古利根川で江戸を結ぶ船の交易路として賑わった。日光道中の4番目の宿として元和2年(1616)に成立した。

最勝院

 南北朝時代に春日部を治めた武将、春日部重行の墓がある。3代将軍家光以降、9通の朱印状が発行され、家光の遺骸が大猷院に運ばれる際にも立ち寄られた。

成就院

 真言宗智山派の寺院で、粕壁宿の宿役人を務めた見川喜蔵の墓がある。見川は窮民救済に尽力を尽くし、飢饉が起これば粥を施し、古利根川決壊の際には自費で堤防を強化した。

追分道標

 関宿往還の追分に立つ青面金剛の石碑。宝永6年(1709)建立。

 「左方あふしう道、右方せきやと道(左奥州道 右関宿道)」。

観音院

 正嘉2年(1258)に創建された本山修験宗・聖護院門跡の末寺。本尊は聖観音像だが、その他に7体の円空仏がある。仁王門は市指定有形文化財。

馬頭院

 真言宗智山派。慶安2年(1649)の中興で、本尊は馬頭観世音菩薩像。境内には文永7年(1270)建立の板石塔婆や、元文5年(1740)建立の青面金剛庚申塔がある。

 明治時代になると、新知学校が作られた。

東福寺

 元和9年(1623)の創建で、本尊は不動明王。

 明治初期に起こった自由民権運動の拠点となり、明治22年(1889)に市政及び町村制が施行されると、一時、杉戸町役場になった。

 

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