日光街道を歩く10 第7日目

小金井宿ー石橋宿

2019.02.26
自家用車で小金井駅ーJR石橋駅から小金井駅に戻る
距離14.70 km 時間3:53:43 高度上昇54m

小金井宿から少し寄り道して下野薬師寺(安国寺)まで歩く。2022年、栃木県立博物館で「鑑真和上下野薬師寺~天下三戒壇でつながる信仰の場~」が企画展示されたことは記憶に新しい。

小金井宿

 慶長9年(1604)、宿の西方にあった金井村を移住させて宿駅とした。大きな国道4号線が走っているが、実際の旧街道はそれより50mほど西側を農道としてまっすぐ平行に走っている。今でもそれらの跡を断続的にではあるが辿ることができる。

小金井の一里塚

 江戸より22里目。両側に塚が現存しているのは珍しく、大正13年(1924)に国の史跡に指定されている。直径約10m、高さ2.5m。もとは正方形の塚であったが、年月を経るに従い今は円形の塚となっている。この2つの塚の幅こそが、旧来の日光道中の幅そのものである。

 明治の道路建設は旧街道を利用して行われたため、その後交通量の増大に従って拡幅されるたびに、道を挟んで作られた一里塚は無用の長物ということで全国的に壊されてしまった。ここの道路建設は日光道中を利用せず、それに並行する国道4号線を開通させたため、破壊を免れた。

陣屋跡

 橘屋、網屋、陣屋跡が残るが、東北地方太平洋沖地震で倒壊寸前になってしまった。幕末の建築物で、陣屋跡は下総佐倉藩の出張陣屋跡である。

慈眼寺

 建久7年(1196)新田一族の祈願寺として建立された。本尊は勢至菩薩。日光道中分間延絵図では「御社参之節御昼休所」と記され、将軍社参の際の昼休み所であった。

 明治16年(1883)に観音堂と鐘楼堂を残し殆どの建物を消失したが、その後再建された。

金井神社

 本殿の建築様式は「一間社三方入母屋造り」といい、壁面には江戸末期(1800年頃)作の透かし彫りや丸彫などの立派な彫刻が施されている。小金井宿の鎮守。

下野薬師寺

 日光街道から少し寄り道して、下野薬師寺跡に足を伸ばしてみる。大きな自治医大病院を左手に見ながら東方に向かって歩く。途中に「薬師寺城」跡があるが、これはこんもりと盛り上がった山城で、草木が茫々で街っ子の自分はとても足を踏み入れる気にはならない。

 本題の「下野薬師寺」跡の主要な部分は「下野薬師寺(2018年までの安国寺より改称)」の境内となっている。和上様には長時間に渡っていろいろな貴重なものを案内していただいた。しかし僕が「戒壇」について不勉強だったため、いろいろ頓珍漢な質問をして今思うと申し訳なくまた貴重な機会を逸したと痛恨の極みである。

 下野薬師寺は、大和(奈良県)の東大寺、筑紫(福岡県)の観世音寺と合わせて日本三戒壇とされ、足柄(神奈川県)より東の得度(出家して受戒すること)するものは必ず訪れる場所であり、東国の仏教文化の一大拠点となった。勝道上人もこの寺で修行したと言われ、近くには勝道上人の父の墓である藤磨(ふじまろ)墳、6世紀末の古墳と言われる御鷲山古墳などもある。

 個人的に一番気になったのは安国寺の本堂天井にある大きな龍の絵である。それは日光山薬師堂の「鳴龍」と非常に似ている(と素人の僕は感じる)。

寺院と龍の不思議な関係

 寺には龍の絵や像、または龍の名がつく寺が多い。
これはお釈迦様が仏教を広める際、お釈迦様の説法を聞いた蛇が心を打たれ、仏教の守護神となり、その後仏教が中国に伝来する過程で龍となったためと言われている。もちろんこういったものには諸説あるわけだが。
 その後中国や日本では、蛇は水辺にいることが多いことから「水の神様」と考えられ、そのため、防火と仏教の守護という意味を込めて、龍を配置するようになったそうだ。

和尚様

 上記の下野薬師寺の「和尚」様であるが、下野薬師寺は真言宗の寺院であるため「わじょう」様と読む。
我が家の菩提寺である「如来寺」は浄土宗であるので、「おしょう」様。
日光市は輪王寺を始め天台宗が多いが、天台宗は「かしょう」様。
一休さんは臨済宗のお坊さんなので、テレビでは「おしょうさま!おしょうさま!」と言っている。

禅宗(臨済宗)和尚おしょう
禅宗(曹洞宗)和尚おしょう
禅宗(黄檗宗)和尚おしょう
浄土宗和尚おしょう
天台宗和尚かしょう
華厳宗和尚かしょう
律宗和上わじょう
浄土真宗院主・院家 (和尚とは戒律を受けるものという意味があり、戒律という考え方がない浄土真宗には和尚は存在しない。戒律がないため戒名も位牌もない)いんじゅ・いんげ
真言宗(智山派・豊山派)和尚わじょう
法相宗和尚わじょう
日蓮宗(法華宗)上人、聖人しょうにん
「和尚」の読み方

薬師寺八幡宮

 貞観17年(875)清和天皇の勅定により、東北守護の神として石清水八幡宮の御分霊を勧請、創建される。現在の社殿は寛文2年(1662)佐竹右京太夫によって再建された。

下石橋の一里塚

 このあたりを旧日光街道が通っていたらしいと言われていたが、近年にこの一里塚が発見されたことで、消滅したと思われていた一里塚が整備され始めた。案内板などはないので判りにくいところにあるが、江戸から23里目の一里塚である。

夕顔の橋の石仏

 国道4号と国道352号線の交差点の手前にあり、享保3年(1718)の地蔵菩薩立像や延享4年(1747)の十九夜塔など10体の石仏が祀られている。これらは全て本来の日光街道であった旧道の方を向いている。

愛宕神社

 創建は天平宝宇3年(759)という古社で、境内には天照大神・素戔嗚尊・熊野大神の4社が祀られている。もとは下石橋愛宕塚古墳の墳丘上にあったが、東北本線の複線化により参拝に支障が出たため、大正2年(1913)に稲荷神社境内に合祀・遷座した。昭和47年(1972)の東北新幹線建設のための発掘調査で古墳から出土した石室の切石の一部が社殿前に移されている。

 現在の鳥居付近が 石橋宿の入口にあたる。

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