日光街道を歩く05 第2日目

千住宿ー草加宿ー越ヶ谷宿

2019.01.22
北千住駅ー越谷駅
距離28.0km 時間7:06:00 高度上昇52m

 2日目。北千住駅から再開する。1日目は途中雨に降られ距離が伸ばせなかったのが残念だが本日は快晴。ぶらぶらと街歩きをするには最高の天候であった。

金蔵寺

 建武2年(1335)開基。閻魔大王を本尊とする。

 「無縁塔」とあるのは天保8年(1837)に起きた天保の大飢饉の餓死者の供養塔。

 「南無阿弥陀仏」とあるものは千住宿の飯盛女(宿場に存在した私娼)の供養塔で、台座には店名と遊女の戒名が記されている。

千住宿

 日光街道で一番初めの宿場町。江戸時代には品川・新宿・板橋とともに江戸四宿と呼ばれ、非常に賑わった。

千住宿本陣跡

 見番横丁と言われる細い路地にある。明治天皇のご行幸の際の休憩所にもなった旅籠中田屋があった場所である。

横山家、吉田屋

 紙問屋として栄えた旧家横山家(屋号は松屋)は、江戸時代末期の典型的な商家造りのまま残っている。室内には彰義隊が敗走する際につけた刀傷や、山岡鉄舟の筆による看板などが残っている。

 吉田屋は東京でただ一軒残る、泥絵具で牛馬や地蔵などを板に描く千住絵馬屋である。

かどやの槍かけだんご

 この先で道は日光道中と水戸海道とに分かれるが、水戸藩の水戸光圀が家来に槍を立てかけさせて休憩した清亮寺の槍かけ松(1945年に枯死)が店名の由来。

名倉医院

 明和年間(1764-1772)に開業した武備心流の整骨法施術を行う整形外科医院。関東一円で「骨接ぎ名倉」と名高く、籠や大八車で運ばれてくる骨折患者が跡を絶たなかったと言われる。戦前には少ないときで一日300人(!)、多いときで700人(!!)の患者が列をなした。そのため周辺には入院施設も兼ねた5軒もの重傷者専用の宿屋があった。

 諸国に「名倉」を名乗る接骨院は多いが、ここがその総本山である。

安養院

 鎌倉時代、北条時宗によって創建されたと伝わる。境内には小石で叩くと願いが叶うと言われるかんかん地蔵がある。

石不動堂

  「子育八彦尊道これより二丁」という石標があり、これは明王院への道標である。

 傍らの地蔵は荒川の土手にあったものを移した。地蔵は元あった荒川の方を向いている。

明王院

 地元では「赤不動」の名で呼ばれる真言宗の寺。治承2年(1178)の開基。寺宝の木造如意輪観音菩薩坐像は応安2年(1369)法眼院秀の作で、造立年代・作者が明らかな室町時代の彫刻としてとの文化財に指定されている。

国土安穏寺

 応永17年(1410)に武将・千葉光胤の発願で建立された日蓮宗の寺。安穏寺8世日芸上人が「宇都宮城釣天井事件」を予言したことから徳川家の祈願寺となり、葵の紋の仕様が許された。

 将軍専門の御成門が建てられ、日光街道からの御成道が作られた。境内には「家光公御手植松」がある。

鷲神社

 文保2年(1318)の創建。社殿脇には八代将軍吉宗が巡遊の際に腰掛けたという「将軍石」がある。

富士浅間神社

 祭神は富士山の神である木花咲耶姫命。草加市瀬崎は富士山信仰の「富士講」が今も継続し、富士の神霊を称える唱言に節を付けて唱える「おつたえ」が年8回行われている。

火炙り地蔵

 奉公中の娘に母危篤の知らせが届き、主に暇を願い出るが聞き入れられなかった。そこで娘は家が火事になれば仕事が休みになる思い込み、放火してしまった。火事は幸いボヤで済んだが、火あぶりの刑となった娘を哀れんだ村人たちが地蔵尊を安置したという。像には「安栄五申天五月二十四日」と刻まれている。

草加宿

 徳川家康が伝馬を義務付けた宿駅制度を設けた頃、千住ー越谷間は草深く沼地が多く、東に大きく迂回した道しか無かった。そこで大川図書と付近の村民たちが幕府に許可を願い出て、二つの宿を直線でつなぐ新道を開拓し、宿場を設けた。

 地名の由来は定かではないが、天正元年(1573)の文献には草加の名が見られる。

 草加は幾度となく大火に襲われ、現在の町並みは最古のものでも明治以降のものである。

草加せんべい

 草加の名が全国に知られるようになったのは「草加せんべい」の力が大きい。草加松原で茶店を出していた「おせん婆さん」が団子が腐りやすいと嘆いたところ、それを聞いた武士が「団子を薄く伸ばし天日で乾かし、火で炙ってみなさい」と教えた。これがいつの間にか宿場の名物となったという俗説がある。

東福寺

 真言宗智山派の寺院。慶長11年(1606)大川図書が創建し、僧の賢宥が開山した。山門、本堂などは市指定文化財となっている。

 境内には大川図書の墓がある。

草加松原

 約1.5km続く松並木、札場河岸公園と芭蕉のブロンズ像がある。芭蕉翁は遠くを見つめているが、実はその時代に松並木は無かったので、句を詠んでいない。横を流れる綾瀬川は江戸に通じる重要な水路であった。跨道橋である「百代橋」は、歩いている人はほぼ間違いなく観光客だと思われる。橋の下にはもっと歩きやすい平らな道があるからだ。

蒲生の一里塚

 足立郡と埼玉郡の境であった蒲生大橋のたもとに小高い塚があり、小さな愛宕社の祠が祀られている。埼玉県内に現存する唯一の一里塚で、江戸より5里目となる。かつては街道の両側にあったが、現在は東側だけが残る。塚の前には旧道の痕跡が残っている。

不動明王道標

 三叉路に不動尊と青面金剛像庚申塔が祀られている。亨保13年(1728)建立の不動尊は
是よ里大さ賀ミ(これより大相模)」
と読むことができる。越谷の大聖寺(大相模不動)への道標である。

 笠付青面金剛像は正徳3年(1713)の建立である。

清蔵院

 天文3年(1534)創建で真言宗智山派の寺。山門は寛永15年(1638)の建立。欄間に彫られた龍の彫刻は眠り猫を彫った左甚五郎の作と伝わる。これはおそらく、日光東照宮に関わった工匠の一人で、東照宮竣工(1636)後に蒲生に来たものと考えられる。

 龍は精巧にできていたため命を持ち、夜な夜な山門を抜け出して畑を荒らしたことから、現在も金網で囲ってある。

 越谷駅に到着。次回は越谷から春日部を過ぎ、杉戸まで歩く。

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