鬼怒川水力電気 03 (黒部堰堤・黒部ダム1)

黒部ダム(黒部堰堤)

注:和暦について説明する。鬼怒川水電の工事は明治44年(1911)から大正2年(1913)までが主な時期となる。明治45年(1912)は7月30日より年号が大正に切り替わる。
 よって、明治時代の人の発言で「来年の大正元年には完成させる」と言う事はありえず、「明治45年12月」「明治46年夏」などとなるのが普通である。だが少し分かりにくくなるので、今回出てくる年号はすべて7月30日を境として「大正」とさせていただいた。
鬼怒川水電工事
簡易年表と地図 (地理院地図を利用して作成)
黒部堰堤
大正元年測図の黒部堰堤周辺(「今昔マップ on the web」より作成)

 鬼怒川のその源は「鬼怒沼」にある。黒部ダムは大正元年(1912)、栃木県日光市黒部(旧・栗山村)の鬼怒川上流、青柳平に竣工した日本初の発電用のコンクリートダムで、東京帝大土木工学科教授の廣井勇が設計施工を指導した。
 このダムの目的は鬼怒川を堰き止めて「貯水池」を作り、冬の渇水期にも下滝の発電所に水を安定して供給することである。つまりこの施設に付随して発電するシステムを備えているわけではない。
 黒部ダムといえば観光名所ともなっている富山県のそれを想起する方も多いはずだ。栗山の黒部ダムのほうが元祖であるが、こちらは訪れる人も少ないひっそりとしたダムである。
 このダムは昭和38年(1963)に最初の大改造、さらには昭和62年3月(1987)に老朽化による大きな改修が行われ、22門あった洪水吐を8門にするなどした。今では建設当時の面影を残すのは堰堤部分だけであるが、改修時には遺産である黒部堰堤をリスペクトしたのだろう、なるべく当時の様子を残すような改築工事とされている。

黒部堰堤(黒部ダム)

用地買収と工事の着手

 一連の鬼怒川水力電気の工事でまず初めに着手されたのは、この「黒部ダム」(明治44年2月25日着工)である。追って間を置かず、「逆川ダム」、「下滝発電所」、そしてそれらを繋ぐ地下水路「隧道」の建設が着手された。
 以下は栗山村の字名を地図上に記載したものである。まず、黒部周辺の用地の買収について調べてみよう。

栗山村の字
栗山村の字(地理院地図を利用して作成)

黒部地区の買収

 工事着工に先立つこと明治43年(1910)11月から、ダムや発電所、隧道の建設予定地となった栗山村から藤原村にかけての土地の買収交渉が開始された。
 黒部周辺の土地買収は翌年の明治44年(1911)1月に始まった。鬼怒川水電はなるべく低廉に用地買収を行い、買収価格の先例を作ろうとしたが、黒部住民はなかなかこれに応じなかった。買収員は低額での買収に応じなかった住民には様々な手段を講じ、「最近官報に、住民の半分が土地を売却すれば他がいくら不服であろうと強制的に買収できる法が発表されたから、ぐずぐずしていると返って不利益になる」などと住民を脅かして買収を進めたため、黒部の住民は会社に対して不信感をつのらせたが、渋々買収に応じた。鬼怒川水電は同年3月には売却額の金銭の授受を済ませた。

日陰地区の買収

 5月には日陰地区の買収が始まったが、日陰の住民は一致団結して売却委員2名を選出して買収員との交渉に当たり、「土地所収者が十分に納得できる価格でなければ一畝一歩たりとも買収には断じて応じない」と強硬に出た。団結は甚だ強く、会社側のあらゆる誘惑も脅しも無駄に終わり、ついには日陰の提言通りの価格での買収に至った。この価格は黒部の実に「4倍」もの高値であった。
 また、この土地の買収については、日陰住民は金額が異なる複数の偽の売却証書を作り置き、例えば黒部の住民に売却額を問われれば100円の証書を示し、軍吏員には200円のもの、新聞記者には300円のものを提示するなどし、日陰の住民は隣接する黒部の住民その他にも本当の売却価格を語らなかった。
 なお、日陰と黒部のどちらにも土地を有する黒部の「A氏」は日陰の売却委員に対し、所有する黒部の土地も日陰と同等額で売却できないかと依頼したが、日陰住民の土地は300円で売買されたのにも関わらず、黒部住民「A氏」が持つ日陰の土地は120円の値しかつかなかったため折り合いが付かないなどの混乱があった。
 実は会社と日陰住民との間には約束が成されていた。土地を高価に買い取るかわりにその売却価格を絶対に他所に漏らさないという交換条件の誓約である。その為、黒部の住民は会社および日陰の住民に強烈な反感を抱いて敵視しており、その後の村の政治情勢にも少なからず累を及ぼした。

上栗山地区の買収

 黒部堰堤の上流側に位置する上栗山は買収に着手してもなかなか決着せず、しかも会社が雇った買収員は許可なく私有地林を測量して、その土地に勝手な値段を付けて買収を強いた。住民が拒否すると、買収員は不穏な意味を含める言葉を残して立ち去るなど、現代で言う「真っ黒な地上げ」のような行為も行われた。

 紆余曲折しながらも鬼怒川水電は用地の買収や賃貸借契約を完了した。これらの土地の売買で栗山村の住民に支払われた金銭は鹿沼銀行今市支店に預金された。

黒部堰堤工事の様子
黒部堰堤工事の様子(鬼怒川水力電気株式会社工事中写真帖)

黒部堰堤、着手

 そしていよいよ明治44年(1911)2月25日に黒部ダム工事が着手された。当初の目標は翌年の(翌年!?)大正元年(1912)9月までに竣工し、5万馬力(37,300kw)を東京に向けて送電する計画であった。このダムは鬼怒川水力電気の直営工事であり、人夫は早川組(早川昇策)が供出し、昼夜兼行で行われた。人夫の数は400~500名と言われている。
 まずは黒部青柳平の岩石が取り除かれ、芝刈りや樹木の伐採が開始された。鬼怒川のこの地点は左右ともに強固な岩盤を持つ山に挟まれており、その岩盤に堰堤を取り付ける工事となる。鬼怒川の流れを締め切る防水工事が行われ、左右両岸から石垣が人の手によって積まれていった。
 工事責任者には浅見忠治堰堤課長が就いた。前述の設計と技術指導を担当した廣瀬博士と浅見課長は、黒部以前にも神戸で二ヶ所、朝鮮で一ヶ所のダムの設計施工経験があった。だが当時この黒部ダムはそれらを凌ぐ「東洋一」の規模とされ、神戸や朝鮮のダムとは立地条件も近似しているとは言い難かった。
 鬼怒川水電側は設計と施工に自信を持っていたが、鬼怒川沿岸の住民を始めとする県民はその成否、取り分け「もしもダムの決壊が起こったら」ということを危惧していた。享保8年(1723)の五十里湖決壊が下流域に及ぼした凄まじい被害の様子は、200年後の当時でさえ口伝として住民に恐怖を抱かせていた。
 県知事を始めとする県議会や地元新聞社は盛んに鬼怒川水電の工事の様子を視察し、その様子を議会や新聞紙上で発表した。ただしダムの建設そのものに何ら知見を持たない視察団に鬼怒川水電の説明を深く理解することは難しく、質問を試みるも、決して専門的とは言えないその問いに対し、鬼怒川水電の専門技師が彼らを言いくるめるのはそれほど難しいことではなかったのかもしれない。
 安全面から言えば、栃木県の土木技師は掘削工事の際に発生した土砂岩石が流れ出ないようにと複数の砂防ダムの建設を細かに指示したが、鬼怒川水電はそれをおざなりにしていた箇所も多かった。
 視察の度に県土木技師達は問題箇所の施工、改善命令を下すが、気が荒い人夫たちは「県の技師はやかましいことを言うからぶん殴れ」などと聞こえるように言う始末だった。
 また、浅見堰堤課長と現場を束ねる吉村技師長の間には意見の相違が見られ、例えば石の積み方やコンクリートの配合において「どうやればいいのか(または、どこからは手を抜いても大丈夫なのか)」で食い違いが見られた。人夫を提供した早川組と浅見課長の間は折り合いが悪く、人夫の3割程度は不満を口にして仕事をサボった。そのため浅見課長の命令は反故にされることも少なくなく、設計と施工の間に齟齬があった。

黒部堰堤、出水被害

 また、鬼怒川の流れは急峻で、せっかく施した防水工事が破壊されてしまうことが多々あった。特に降雨量が多くなる初夏からは幾度となく出水があり、明治44年(1911)6月の複数回の出水ではせっかく掘った貯水池の床がほとんど土砂で埋没した。工事現場に山積みにされていた石材や砂などのセメントの原料や数百枚の杉板、ポンプやモーターも全て流出し、浅見堰堤課長が辞意を漏らすほどの損害を被った。
 出水の度に埋没を繰り返して遅々として進まない工事に、会社内部からも「いかに高価で堅固な防水工事を施しても、鬼怒川の洪水は到底防止することはできない。よって、渇水時を利用してさらに急いで工事を行う他無い」との声が上がった。渇水期とはすなわち冬期である。10月に入って河川の水量が少なくなった頃を見計らって工事を急ピッチで進めたが、秋は一瞬で終わり冬が到来した。ここ栗山村の冬は非常に雪深く、極寒である。12月から翌2月は寒さの為にわずかしか工事が進まないことは容易に想像されたが、会社としては翌年の大正元年(1912)9月までには断固として完成させると息巻いた。しかし冬が終わり春になって工事を急ごうにも、また増水が見込まれる梅雨時期になれば出水の被害があるかもしれず、そうすると5月までには竣工の見込みが立っていることが必須となる。
 このままでは期日までの竣工は不可能であると焦った鬼怒川水電は、黒部ダムの上流に間に合わせのダムを建設し、大正元年(1912)10月1日にはそこから取水することで3万馬力の送電を開始させることを目標とした。しかしこの仮ダムはそもそも建設の過程が急ごしらえのものであり、一度出水となれば木っ端微塵となることが容易に想像できるほど強度に不安を抱えるものであった。そしてその予想通り、本稼働を間近に控えた大正元年(1912)9月24日の大暴風雨により出水し、この仮ダムは決壊、跡形もなく消え去った。
 大暴風雨の被害は仮ダムだけにとどまらなかった。上流より押し寄せた大量の土砂は12m程の高さにまで達して仮ダムや黒部堰堤を埋め、貯水可能な水量は著しく減衰した。
 土砂の最も高い部分は堰堤上部より上まで堆積した。すでに14mほどの高さにまで積み上がっていた堰堤の前面および上部60cmあまりは多量の土砂や岩石を含んだ急流によってノコギリ状に破壊された。主要水路は黒部ダムより1kmほど下流域の中丸美沢まで土砂によって全て埋没閉塞し、逆川調整池より下滝水槽に至る間の水路にも2箇所の大きな破壊があった。その他、黒部ダム付近に設置されていた工事用のレール、砂利、組石、木材や橋梁はすべて流出し、この被害だけで軽く10万円を超過すると言われた。
 仮ダムの損失どころか、鬼怒川水電の全ての計画の破綻を招いてもおかしくなかったこの事故の被害を、鬼怒川水電は可能な限り隠蔽しようとしたが(工夫や住民がスマートフォンで撮影してSNSに公開することは出来なかった時代だ)、あっけなく新聞上で報道され、存続を危ぶまれた鬼怒川水電の株価は大幅に暴落した。
 鬼怒川水電はこの甚大な被害にも諦めることなく、約3か月後の12月25日に試送電を行う予定と決めて大々的に人夫を募集し、昼夜兼行の突貫工事を行った。工事には懲役者まで駆り出されたとも伝わる。
 そして何とか2か月後の大正元年(1912)11月23日には通水式が執り行われ、12月9日には下滝などを含む主要設備が完成し、12月26日に東京に向けて試送電が行われた。
 結果は良好であり、翌週の大正2年(1913)元旦に1万馬力の送電を開始し、1月15日には倍の2万馬力を送電した。

建設中の黒部堰堤(鬼怒川水力電気株式会社工事中写真帖)
黒部堰堤工事の様子(鬼怒川水力電気株式会社工事中写真帖)

 とはいってもこの時、肝心の黒部ダムはまだ先述の出水による土砂に埋没したままで建設工事は中断されていた。通水式の際には黒部ダムより580m余り上流のヘヅリ沢に全力を傾注して築造された粗末な仮ダムから取水・送水が行われた。この仮ダムも完成当時から幾つかの水漏れが見られるほどで、「藤原町史 通史編」から引用すると、「四段にわたる高さ十八尺(5.4m)の木枠に割石を積み、貯水面は板を張って土砂を置き、取入口はコンクリートで水門を造り、水門の窓には金網を張って土砂流入の装置を施したもの」であった。
 そういった訳で、散見される「黒部ダムは大正元年に竣工された」と書かれたインターネットや書籍上の記事はいささか無理があると思われる。

 つづく。

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