今回は、「今市地方震災横死者供養塔」について調べた。
②今市地方震災横死者供養塔
この石碑は、平ケ崎からいわゆる行川ダムに向かう坂の途中に建てられており、震災で命を落とした10名の氏名が刻まれた供養塔である。
今市地震の激烈な揺れによりこの場所の切り通しの山が崩れ、登校途中であった今市中学校1年生の高橋洋子さん(14)が生き埋めになった。
戦後の昭和22年、いわゆる6-3-3制の新学制発布により、今市中学校は現在の今市小学校の校舎を間借りする形で開校されたが、その2年後の昭和24年4月、現在の地に今市中学校の校舎が新築竣工した。高橋さんは春からそのピカピカの新校舎に通っていた1年生だった。
友人と3人での登校中に地震がおこり、波打つ地面を急いで走ったが高橋さんは下駄の鼻緒が切れてしまい、逃げ遅れてしまったのだという。友人たちはズック靴だったので逃げきれたということだ。母校の先生や町の団体、今市町の土木業柿沼組(崩れた道路の修繕も兼ねていた)ら数十名が連日必死の救助作業を続けたが、79日後の3月15日、土砂の中より右手に鼻緒、左手には草履袋を握りしめ、北向きに倒れた遺体となって発見された。
母親は発見まで毎日ここに通い、捜索の邪魔にならないように通行人を装って影から作業を見守っていたということだ。当時の新聞に掲載された、棺に取りすがる母親の写真は余りにも悲しいものである。
この碑は震災より8年後の昭和32年12月26日、徳性院第18世の「大阿闍梨豎者無障金剛隆田」が願主となり、今市市小倉町の須藤石材店によって建てられた。現在森友にある須藤石材店は、当時は小倉町のNTT東日本今市ビルの場所にあった。
この碑は「供養塔」であるため、現代でも筆者がランニング等でこの坂を訪れると、花や飲み物等の供物が備えてあることが多い。
下写真は「白崖」と呼ばれた切通。
千本木行川には洋子さんが眠る墓碑がある。この周辺を調べるに当たり、筆者も手を合わせて無念の死を遂げた洋子さんのご冥福を祈った。
「今市地方震災横死者供養塔」
昭和24年12月26日地震
横死者
今市市室瀬
福田文三郎 45歳長男 幸一 21歳
次男 源吉 18歳
母 サク 68歳
今市市行川 弥三郎 二女
高橋陽子(*1) 14歳旧落合村長畑
横田久一 54歳旧大沢村木和田島
斎藤光次 32歳日光市山窪
手塚長治 42歳船生村 トシ二女
蒲田弘子 5歳西大芦村草久
神家満アヤ子 43歳願主 今市市平ケ崎
天台宗虚空山徳性院十八世 大阿闍梨堅者無障金剛隆田建立協力者
今市市小倉町 須藤石材店主 須藤徳一郎昭和32年12月26日建之
(*1) 供養塔の「高橋陽子」、「三女 洋子(下野新聞昭和25年3月8日、16日)」、「高橋洋子(復刻版今市地方震災誌巻頭写真)」、「二女 高橋陽子(復刻版今市地方震災誌P72)等、ヨウコさんの名が資料により一致しないが、正確には「洋子」さんである。
続く。
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