今市地震の爪痕(11) 明神 中原用水震災復旧記念碑

e)明神 中原用水震災復旧記念碑

 十石坂から例幣使街道の西側を並行に走る細い道がある。これを南に600mほど南に進んだY字路にひっそりと佇む中原用水震災復旧記念碑。周囲に民家は皆無な上に、もともとにおいて石碑というものに関心を持つ人物自体がそれほど多くないため(「少々いる」と「皆無」の間くらい)、この記念碑は場所を特定するのに時間がかかった。
 旧字体が多く非常に読みにくいため、現代風に書き直した。なお、石碑e、f、gに記載のある「福田民一郎」氏は当時の落合村村長である。

 石碑がある道路沿いにはなみなみと水を湛えた水田が広がる。これは中原用水のおかげなのだろう。

「中原用水震災復旧記念碑」

(表面)

懐古すれば明治12年、30余町歩の中原広野を山口貞一郎・矢野清蔵の両翁の協力により払下字室瀬と交渉、用水堀を開鑿(かいさく)し、水田を計画す。その後、幾多の曲折をたどり大正3年、矢野元次郎・山口瀬三郎の両翁の偉大なる後援を得て今日に至り、昭和24年12月26日、未曾有の大地震の災禍にて隧道(ずいどう)・堰堤(えんてい)・溝渠(こうきょ)全面的に埋没、よって我ら水利組合員、昼夜兼行復旧に努力すること5ヶ月間を費やす竣工、方や補助関係等に就き村長福田民一郎氏の尽力に預かり、これに完成を成し永久に記念する。

昭和27年立春 明神中原水利組合 栃木県知事 小平重吉書

(裏面)

中原用水取入口 水量調整

  • 明神水口2尺
  • 室瀬水口3尺 水平2,3尺 流テ幅3尺5寸にて落水
  • 中原用水入 途中より青木弥作氏に水田2反歩の水量を許可す
  • 水路改修および水田開発の場合、組合の協議を得ること

総工費 80万円(国庫負担52万円・村負担8万円・地元負担20万円)

工事代表者 福田民一郎

工事責任者 大門久一

委員 村上松野・村上太一郎・小田春一郎

会計 村上次郎・村上太平

旧水利組合員 村上寛太郎(筆者注:實太郎か?)・大門宇一・山口倉吉・村上多四郎

今市町石工 上吉原信一

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