日光の鉄道史

この記事は、「今市史談会会報 第351号~353号」に掲載されたものに加筆・訂正を加えたものです。

はじめに

 東京日本橋から日光東照宮まで続く日光街道は、江戸時代に整備された五街道の一つである。総延長約140kmで21の宿場を備え、その道程を江戸時代の人は3泊4日で歩いたという。アスファルト道路もスマートフォンの地図もゴアテックス衣料もキャッシュレス決済もない時代を想像すると、昔の人々の脚力や頑丈さに感心させられる。

 私は3年ほど前、その日光街道を歩いた。カメラを携え名勝地に寄り道し、途中の寺社で御朱印を頂いたり蕎麦屋でビールを飲んだりしながら、10日を掛けて日光東照宮までたどり着いた。

 地図を開いてみると、大きな街道沿いに鉄道が通っているのがわかる。これは考えてみれば当然のことで、江戸時代に街道と宿場町が整備され、街道に沿って街並みが発展したため、後年鉄道が計画された時にもその宿場町に近い所に駅が造られたからである。誰も住んでいない原野に駅を造る意味など無い。そういった訳で、日本橋―宇都宮までは電車を使うことにより、中断した旅を後日容易に再開することが可能なのだ。

 不思議なのは宇都宮から今市の区間である。戸祭、徳次郎、篠井、大沢(下野大沢駅は日光街道に近いとは言い難い)と、当時宿場や集落があったはずであるのに、鉄道が通っていない。なぜ、JR日光線は現在のルートを通ることになったのか。

 今回調べたものは、JR日光線の歴史についてである。

鉄道上陸

 嘉永6年(1853)の黒船来航によって開国することになった日本は近代化へと舵を切り、その後たくさんの外国人が観光で日光を訪れることになった。明治10年(1877)にはアメリカのエドワード・S・モースが東京から宇都宮まで馬車で、そして日光まで人力車に乗って訪れ、その旅について『日本その日その日』(原題:Japan Day by Day)を著した。彼はその中で、男体山に登ったことや日光山の寺社について記し、湯元では大量の湯が地面から湧き出ることを不思議がっている。

 翌明治11年(1878)にはイギリスの女流旅行家イザベラ・バードがその著書『日本奥地紀行』(原題:Unbeaten Tracks in Japan)で日光を好意的に紹介し、その後もまたアーネスト・サトウやピエール・ロチなどが日光を訪れた。

 当時は鉄道が無い時代なので、たとえ小さな島国と言えども日本国内を旅行するのは相当な苦労があったことと思われる。

 では、日本にはいつから鉄道がもたらされたのだろう。

 それは黒船来航と同時期の嘉永6年(1853)、帝政ロシアのプチャーチン率いる軍艦4隻が長崎に入港したときのことである。彼らは幕府の使節団を艦内に招き、アルコールを燃料として走る30cmにも満たない蒸気車の模型を走らせてみせた。また翌年、開港通商に対する回答を求めて二度目の来航を果たしたペリーが将軍への献上品のひとつとして持ってきたものが、蒸気機関車の1/4模型であった。これは模型とはいえかなり大型で、地上に小ぶりな線路を敷き、アメリカ人が運転する本格的なものであった。イギリスの産業革命がもたらした技術を、生まれて初めて目にした当時の日本人の驚きは相当なものであっただろう。それらは当時の日本人側の書いた記録では、その仕組と速度、航続距離に目を見張ったことが記され、一方、アメリカ側の記録では文化的に未熟で奇妙な髪型と服装をした極東の人間を、軽蔑や嘲笑の眼差しで見たことが記されている。曰く、

「1/4模型の蒸気機関車であるため、客車部分は精巧に作られてはいるが、小さな子どもがようやく乗れるかどうかの大きさである。しかし日本人はどうしても乗ってみないと納得せず、役人は客車に乗れないとわかるとその屋根の上に真面目くさった顔で跨った。円を描いた軌道の上をゆっくりと走る汽車の屋根に、衣服をはためかせながらしがみつく役人の姿は、まことに滑稽なものであった。」

 ともかく、このようにして蒸気機関は日本に初上陸したのである。

日光鉄道

 時は流れ、明治18年(1885)に日本鉄道株式会社(*1)が上野―宇都宮まで鉄道を伸ばすと、日光までの鉄道敷設が地域住民の悲願となった。それまで日光を訪れるためには、まず東京から宇都宮まで4時間かけて汽車に乗り、そこからは人力車で5時間の時間を要した。

(*1) 日本鉄道株式会社とは、かつて存在した民営の鉄道会社である。もともと明治政府内では鉄道局長の井上勝を始めとして、「鉄道は国が敷設し国が運営すべき」との意見が強かったが、西南戦争で多額の戦費を支払い困窮した政府に鉄道建設資金は捻出できず、民間資本を採り入れることになった顛末がある。日本鉄道は現在のJR東日本の鉄道の多くを手掛けた。

 明治19年(1886)6月10日には、柳田治平ら鹿沼宿を中心とした人々が栃木県の樺山資雄(かばやますけお)県令(けんれい。明治4年から明治19年にかけて置かれた県の長官のこと)に「宇都宮より今市宿まで汽車小鉄道敷設願」を提出した。発起人には鹿沼宿の面々のほか今市宿、日光町、楡木宿の各戸長や富豪家の名が見られ、その多くは保晃会の関係者であった。

 路線は「1.宇都宮から塙田・戸祭・荒針・栃窪・古賀志・文挾を経て今市」に至る路線、そして「2.栃窪(あるいは古賀志)で分岐して鹿沼」に至る路線であった。現在の道で言うと宇都宮―今市線(文挾駅、大谷、駒生を通る道)と、途中から鹿沼東高校方面に折れる道あたりに線路を計画したのであろうと思われる。当初、駅は宇都宮、栃窪、文挾または小代、今市、そして支線として鹿沼の5つの停車場を計画した。

発案当初の線路敷設予定の図

 ちなみに「小鉄道」とは、既存の鉄道より軌道幅が狭く、距離的にも短い上に、馬力も少なかったためこのような名称となったものであり、簡易鉄道とも呼ばれていた。

 この小鉄道敷設願いの内容を、現代語に拙訳する。

「下野の日光山は風景が美しく、ただ避暑に便利というだけではなく、万国無双の景観、美術を尽くした神社仏閣が多くあります。このため、国内外から来訪する人が跡を絶ちません。日光東照宮社務所の調査によれば、明治15~17年の平均観光者数は4万9千人余。昨年に東京から宇都宮までの鉄道が開通して以来、本年は4月までの4ヶ月間でその人数をすでに1万人ほど超えました。
 しかしながら、宇都宮から日光に至る道程は馬車や人力車に頼らざるを得ず、道は険しい山道で夏季は雨が間断なく降り続け、道路はたちまち泥濘となり、馬車の往復は渋滞し、日光の大きな欠点となっています。
 また、下野北西の地形は高い山脈に囲まれるため巨木良材に富み、鉱山もあり、毎年東京方面に輸出される木材・薪炭・銀・銅・大麻等の貨物を統計すると、25万駄を下ることはありません。これらを現在は人馬によって運搬しているため、その不便は少ないものではありません。
 一つは日光山へ来遊する人々の利便のため、一つは貨物の運搬を速めその費用を減じるため、なるべく早く簡易小鉄道を敷設すべきであると思います。」

 費用は1里に付き1万5千円と計算。7里30町余の資本金として12万5千円と定め、発起人並びに同志者から募り、まとまり次第敷設を開始したいと綴られている。この費用は保晃会を中心として株金募集という形で集められ、極めてスムーズに進捗した。

 この小鉄道敷設願にある『道路はたちまち泥濘となり』について、当時の下野新聞から道路の様子を見てみよう。

  • 鹿沼宿より今市宿に至る道路は実に悪道にして旅客も道を迂回するほど(明治18年8月4日 下野新聞)
  • 日光山より鹿沼に出る間は非常なる悪路にして少しく雨天続きの後などに通りては車輪も没するまで行路難の嘆あらしむ(同明治18年8月4日 下野新聞)
  • 車馬往復の渋滞を致し、来遊者の困難少なからず

 この他、森友や今市宿の道路の状況や、徳次郎宿などの「一般の道路は馬車の通行をほとんど断つ」ほどの「泥濘さ」についての丁寧な非難的感想は枚挙にいとまがない。

 明治17年(1884)に福島県令と兼任で栃木県令になった三島通庸は、栃木県下の道路の修繕を命じ、日光街道や例幣使街道も道路が凸型に改修され、今市宿では道路中央にあった堀が路の両端に付け替えられた。このようにして、「日光に至る道」は頑強になり、通行人にとって便利な「上等道路」に変化していった。ちなみに倉ケ崎の会津西街道が昔に付け替えられたことは史談会員にとってはよくご存知のことではあるが、これも明治17年の三島の手によるものである。

 この小鉄道敷設願では「日光への観光客の利便」が説かれているが、今市―日光間は急坂で起伏が多いため、現段階での敷設は技術的に難しいと思われた。そのためまずは今市までを完成させ、後々日光まで線路を伸ばしていくという段取りを考えていた。

 そして同時に、小鉄道発起人に名を連ねた小林徳松(今市町)、柳田治作(鹿沼町)、小久保六郎(油田村)、石原策二郎(草久村)、加藤昇一郎(小代村)ら5名は総代として「汽車小鉄道敷設に付上願箇条書」を樺山県令に提出している。

内容は「今般、小鉄道建設が許可になった上は、以下の条件も考慮していただきたい」とし、

  1. 官有土地の無償での貸与
  2. 官有家屋の有料での払い下げ
  3. 民有土地・家屋の公用土地買い上げ規則による買い上げと払い下げ
  4. 土地に対する国税の免除

などを求めたものであった。
これらの願書は栃木県令から内務大臣の手を経て閣議に提出された。

 明治19年(1886)7月23日、内務大臣から栃木県令に返答があり、さらに県令から発起人たちに「この小鉄道について線路予定地の実測、建築方法などを取調べ、さらに鉄道局へ文書で通告するように」との司令が下ると、小林や柳田らは早速県庁に請願、ただちに許可された。しかし工事全般を負担できる技師がいないため、鉄道専門の土木技師であるイギリス人のジョン・ダイアックを招聘し、測量事務を進め、製図並びに工事予算の調査に取り掛かった。測量は同年12月に完了した。

なぜ日光街道沿いのルートではないのか?

 ここで、「なぜ日光鉄道は日光街道沿いに通さなかったのか」について考えてみたい。これは単純明快に、「鹿沼宿の有力者たちが発起人の中心となったから」と考えている。発起人の一人である小代の加藤昇一郎は、今市市名誉市民の加藤武男の父であり(現在その居宅は小代行川庵となっている)小代の庄屋を務めた実力者である。日光と絡め、自らの居住地周辺の利便性を高めるためにこの路線を計画したことは当然である。もともと日光に至る鉄道は、トンネルを掘ったり大規模河川に架橋するといった予算を多く使う場所がなかったため、比較的安価に鉄道が敷設できると考えていたが、日光街道方面に鉄道を通すと、鹿沼方面に向かうには古賀志山や鞍掛山の山塊が邪魔になり、容易に鉄道を通すことができないのだ。

 大沢宿、徳次郎宿、富屋村等は、このあたりの迅速な動きで後手を踏んだということなのだろうか。

 さて、今回の発起人から栃木県令を経て内務大臣に手渡された願書だが、発起人たちに測量実施の司令が下る間のひと月半程度の間に、内閣と鉄道局との間で意見のやり取りが行われているので、これも拙訳として紹介する。これは内閣総理大臣伊藤博文が、今回の小鉄道敷設について鉄道局長の井上勝に意見を問うたものの返答である。

『宇都宮より今市まで鉄道布設(原文ママ)の義に付き復申』(明治19年7月23日)
「鉄道局としてはこの鉄道敷設については特に異論はないので、線路実測、建築方法の取り調べを許可して良いと考える。ただしこれは、建築、経営共に日本鉄道株式会社で行ったほうが工事も速やかで、利益も大きくなると思われる。」

 またこの頃、日本各地に離宮ご造営の計画が持ち上がり、日光山にもご造営の計画があるのではないかと噂されていた(後に日光田母沢御用邸は明治32年完成)。その際、既成の鉄道と規格が違う小鉄道では何かと都合が悪かろうという判断もあったとされる。

ここまでの流れを表にする。 

文書名日付差出人宛先人内容
宇都宮より今市まで汽車小鉄道敷設願明治19年 6月10日鹿沼宿 柳田治作他36名栃木県令宇都宮より今市まで簡易鉄道を敷設する許可を申請する
汽車小鉄道布設に付き上願箇条書6月?日小林徳松 柳田治作 加藤昇一郎 他栃木県令許可を得た際には当該土地取得のための便宜を図ってもらいたい
小鉄道布設の件照会7月10日総理大臣 伊藤博文鉄道局長官 井上勝栃木県下の小鉄道布設の件に付き意見を伺いたい
宇都宮より今市まで鉄道布設の義に付き復申7月23日鉄道局長官 井上勝総理大臣 伊藤博文賛成ではあるが、既成の鉄道規格に依って、建設・運営も日本鉄道に付託したほうが良いだろう
内務大臣から栃木県令に返答7月27日内務大臣栃木県令 発起人線路予定地の実測、建築方法等の測量を開始せよ

 実測図、工費、予算、収支目論見書を作成した発起人らは、このような情勢を考慮した上で、簡易な小鉄道ではとうてい許可が得られないと感じていた。

 明治20年(1887)4月29日、発起人らは改めて「日光鉄道会社」を設立した。設立には安生順四郎(あんじょうじゅんしろう。上粕尾に栃木県最初の本格的農場を作る。栃木県議会初代議長、保晃会メンバー)、矢板武(やいたたけし。栃木県議。下野銀行、日光銀行を設立する。保晃会監事)らも名を連ね、創立委員長には渋沢栄一が就いた。当時第一国立銀行頭取であった財界の大物渋沢は、保晃会の東京府の委員として名を連ねており、その縁もあって設立に参加した。

 創立委員の小林、柳田、小久保、石原、加藤らは樺山県知事に宛てて「日光鉄道布設の義につき願書」を提出した。この願書は、

「昨年(明治19年)出願した今市―宇都宮間の鉄道布設の件ですが、同7月に線路実測・建築方法を取り調べるようにとの司令を頂き、早速行った調査内容を別紙に報告致します。  しかし、この工事は我々で検討したところ、小軌道では不完全と意見が一致したため、既存の幹線に準拠し、日本鉄道会社の支線と見なし、工事、経営などの一切を同社に委託したいと考えています」

との内容であった。

 また日本鉄道会社に宛てては、

「将来の利害損失等を考慮しましたが、このような大きな事業は我々が到底独立で行えるものかと苦慮した結果、我々の意見としましては、工事上、運輸上のこと一切を貴社においてお引き受け下さるようお願い申し上げます。」

との文書を送った。

 この段階で新たに追加で鹿沼から延長して栃木町を繋ぐ線路を決議したが、上都賀郡長と下都賀郡長が難色を示したため、この計画は頓挫した。

 当時、鉄道局は東海道線の開通に力を注いでおり、また日本鉄道会社は宇都宮以北の東北線や両毛線、水戸線、甲武線の工事や開業に追われていたため、日光鉄道の処遇の正式決定はそれから2年の歳月を要した。

 これらの路線の開通の目処がついた明治22年(1889)6月、鉄道局の井上長官は日本鉄道会社の理事会の席で、「日本鉄道会社が宇都宮―日光間の鉄道の建設・経営を引き受けてはどうか」と打診し、同席した渋沢は、改めて日光鉄道の現況を報告した。

 ビッグネーム二人が勧めるこの路線についてはこの日、日本鉄道会社が自らの支線として日光線を経営することが決まり、同年8月に行われた臨時株主総会での正式決定と相成った。

 日本鉄道会社は、これまでに日光鉄道会社が測量等に要した経費として2万円を贈り、日光鉄道会社は日本鉄道会社にジョン・ダイアックの設計した線路工事図面や目論見書を贈り、日光鉄道会社は解散した。

工事の開始

 明治22年(1889)10月31日、内閣総理大臣の三条実美(*2)の名で建設を許可された日光線は工事開始の直前まで幾多の変更が考慮されている。明治22年(1889)12月に政府に提出された「線路変更願」の理由書には、以下のようなことが記されている(宇都宮より北に向かう旧線路予定をA、南に向かう変更予定の現在の線路をBとする)。

  1. 宇都宮停車場よりAとBの路線を比べてみると、BはAより1/4里の短縮ができること。
  2. Aは曲線の箇所が17箇所あるがBは8箇所であること。
  3. Aでは鹿沼停車場に至る支線を作らなければならないが、Bならばその必要はなく、開業後も費用と時間を減少し、乗客の利便にもつながること。
  4. Bは東北線を南に1里と少し行ったところで分岐するため、その分築造する哩(マイル)数が減ること。

これにより、現在の日光線の線路がほぼ確定した。

(*2)明治22年10月、第2代総理大臣であった黒田清隆は欧米との条約改正交渉の不調や外務大臣大隈重信の暗殺未遂等を受けて全閣僚の辞表を提出したが、明治天皇は黒田の辞表のみを受理し、内大臣の三条実美に総理大臣を兼任させて内閣を存続させた。同年12月に山縣有朋が総理大臣に任命されるまで2ヶ月間の総理大臣であったが、「黒田内閣の延長」であって「三条は歴代の内閣総理大臣には含めない」こととされている。よって、首相官邸ホームページ(https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/index.html)にも三条の名は見られない。

 鉄道用地の買収は殊の外順調に進み、工費は43万円と決まった。翌明治23年(1890)1月から土木工事が始まり、3月1日にはレール敷設が開始された。また、宇都宮―今市間の鉄道敷設許可を受け、それに刺激された日光町民は明治22年(1889)12月5日、30余名の連名で日光町までの延長を陳情した。
 ただ、すでに日光までの延長を技術的に可能と判断していた鉄道局はこの時点で日光町までの延伸を検討しており、同区間の路線延長と工費10万円の増額を決定し、宇都宮―今市間の工事が開始された1月には日光までの敷設許可願いを提出した。

 3月には許可が得られ、今市―日光間も工事が始まったが、地盤の高低差のために難易度は高く、また苗の植え付け期・田植え期には一日100人の人足確保にも支障をきたしたという。さらに、米価の暴騰も支障の原因に挙げられているが、明治23年になっても「米価の高騰が工事の支障の原因」に挙げられていることも驚きである。また、今市―日光間の線路用地の土地買収は思いの外順調に進捗したが、日光停車場の位置の選定は非常に紛糾し、総じて工事は難航した。

鉄道開通

 明治23年(1890)4月27日、宇都宮―今市間の線路敷設工事が完了間近となったため、日本鉄道の奈良原繁社長と栃木県知事の折田平内(おりたへいない)らが乗り込んだ工事用土運搬車両が午前10時30分、試運転として宇都宮駅を出発した。公式な開通式は日光までの全区間が完成してから執り行われる事になっていたが、さながら、紆余曲折を経て開通された日光線のささやかな開通式のようであった。

 翌月には同区間が竣工し、6月1日には砥上、鹿沼、文挾、今市の各停車場が開設された。開設初日の終点今市には停車場前には約千数百人が群がり、蔦屋等の茶屋が出店され賑わう駅前の様子が伝えられている。 

 日光駅までの線路はその後順調に完成を迎え、日光線の正式開通は明治23年(1890)8月1日であった。開通式当日、一番列車が午前5:30に宇都宮を出発し、各駅でたくさんの乗客が乗り込んだ。それまで砥上駅では通常平日は7,8名の乗車であったのに対し当日は20,30名の乗車があり、鹿沼駅では仮小屋が建てられお囃子が出てにぎやかで、40,50名ほどが汽車に乗り込んだ。文挾駅では20名ほどが乗車し、「小倉村」「文挟組」などの高張提灯が掲げられ汽車が通過するたびに煙火が打ち上げられた。今市でも数十名の乗客があった。ここより先の急勾配で汽車は揺れ速度は遅く、予定の6:45より遅れて6:58に日光駅に到着した。

 日光駅は4棟でできており、宇都宮駅より素晴らしいしつらえだった。駅前は大アーチで飾られ、街の両側は出店で並び、国旗が掲げられ、賑やかな雰囲気で開通式が執り行われた。小松宮殿下を始めとする皇族の方々、松方大蔵大臣、井上鉄道局長、奈良原日本鉄道会社社長、栃木県知事や他14府県の知事、旧日光鉄道発起人等の200余名が臨席した。

列車は一日に上下線とも4本ずつ、片道1時間35分の道のりであった。

以下に時刻表と値段表を掲載する。

上り下り
駅名1357駅名2468
宇都宮5:2510:0512:2515:05日光7:2011:5514:2516:55
砥上5:3710:1712:3715:17今市7:3812:1314:4317:13
鹿沼5:5410:3412:5915:35文挾8:0612:4115:1117:41
文挾6:1310:5313:1815:54鹿沼8:2513:0115:3418:00
今市6:4311:2313:4816:23砥上8:4213:1815:5118:17
日光7:0011:4014:0516:40宇都宮8:5313:3016:0218:23
駅名上等中等下等マイル*3
宇都宮―砥上12銭8銭4銭3.48
砥上―鹿沼15銭10銭5銭5.21
鹿沼―文挾15銭10銭5銭4.97
文挾―今市21銭14銭7銭7.13
今市―日光12銭8銭4銭6.5km
*3 マイルはkmを1.6倍したもの

砥上駅と鶴田駅

 現在日光線の駅といえば、宇都宮―鶴田―鹿沼―文挾―下野大沢―今市―日光であるが、開通当時には鶴田駅は無く、現鶴田駅から西に400mほど西(鹿沼寄り)に「砥上駅」が存在していた。このあたりは当時、河内郡姿川村で、宇都宮駅と鹿沼駅のほぼ中間にあり、ぽつりぽつりと集落があるだけであったため乗降客数は微々たるものだった。

砥上駅の場所

 砥上駅跡に実際に訪れてみたが、昔駅があったという場所は草木が密に生えた茂みとなっていて、また線路沿いをよく見てもホームがあったとは思えないほど何ら痕跡を残していない。

砥上駅のホームがあったと思われる場所

 近所の年配の方に訪ねてみると、駅跡から北に伸びる農道を、このあたりの方々は「停車場道(ていしゃばみち)」と呼んでいるのだそうだ。この呼び名こそが唯一砥上駅が過去に存在したことを感じさせるものになった。

まっすぐあぜ道を進むと砥上駅があった

 日光線が開通した3年後の明治26年(1893)に、栃木県尋常中学校(現・宇都宮高校)が現在地の滝の原に移転してきた。また、東北線の開通により、東の栃木街道に人の流れが増えた。ここで下砥上の有志20数名が発起人となり、地元の利害に固執せず大局的に見て、砥上駅を鶴田に移転する請願を提出した。運動は奏功し、明治35年(1902)、鶴田駅が現在地に開業した。砥上駅は13年間の短い役割をここに終えた。

 現在も鶴田駅のホームをまたぐ跨線橋は、明治44年(1911)製で、浦賀船渠(うらがせんきょ)株式会社によって架けられた。浦賀船渠は通称浦賀ドッグと呼ばれ、日本海軍の駆逐艦を製造する会社だった。跨線橋は2009年2月に経済産業省より平成20年度近代化産業遺産に認定された。

JR鶴田駅
跨線橋

下野大沢駅

 下野大沢駅の開業は日光線内ではもっとも遅く、昭和4年(1929)11月である。文挾―今市駅間は約11kmと距離が長く、早くからこの区間に駅を設けようという話があり、土澤駅として出願は出されていたが、細かな場所の選定は進んでいなかった。

大正6年(1917)、上野運輸事務所(国鉄)は土澤駅が新設された場合の木和田島、猪倉、石那田、富屋村に至る影響を調査している。その後場所の選定が進み、大沢宿に最短の距離で、文挾と今市のほぼ中間(どちらにも約5.7km)である現在地に決定したが、駅名をどのようにするかが問題で、当時の下野新聞には以下のように記されている。

「一番問題なのは駅名で、大沢の村名を取るべきか、あるいは大字名の木和田島を取るべきか。目下秘密裏に本省に於いて考慮中」これは、駅開業の20日前の新聞なので、ギリギリまで名称に苦慮した様子がうかがえる。

下野大沢駅が無い「大正元年」測量の地図

結果、「下野大沢」に名称が決定したが、この読み方は平成2年(1990)に、「しもつけおおさわ」に変更されている。「ん?」と思った方も多いことだろう。下野に住む我々はそれまでも「しもつけおおさわ」駅と読んでいたからだ。しかし、駅が開業してから平成2年までの駅名の登録上は、「しもづけおおさわ」駅が正式であったのだ。

幻の日光街道の鉄道

 日光線が宇都宮と日光を繋いでから、その周囲では加速度的に様々な変化が起こった。明治26年に現在地に開業した金谷ホテルを始め、内外の観光客を受け入れる素地が整い一大観光地として繁栄した。一方、宇都宮駅に数多くいた長距離の人力車(一説によると最盛期で800台ほど)が廃業の憂き目にあった。

 明治23年(1890)に開通した日光線に対し、日光街道に沿った新しい鉄道の計画は約20年後の大正8年(1919)頃に浮かび上がった。国本、富屋を経て大沢、今市に至る計画の新日光鉄道について、沿線予定の町村は至る所大歓迎でこの計画を進めた。特に富屋村や大沢村は、日光線の開通以前は宿場として栄えたが、日光線開通後は宿や食事処、商店は軒並み廃業し、街から活気が失われた。そんな中に新日光鉄道の動きが起きると、富屋村も大沢村も村長を始めとした有力者がその促成を願い、土地の寄付を求めて奔走した。

 しかし当時の日本は、「鉄道」がもたらしたイノベーション(技術革新)に激しく沸き返っている時期であり、新日光鉄道は「東京と他都市を最短距離で結ぼう」という様々な計画のうちの一つだった。

 東京―日光間は他には、大正10年(1921)の「東京・日光間高速鉄道計画」があった。東京巣鴨を起点とし、王子、岩渕、栗橋、古河、栃木、壬生、安塚を経て宇都宮に至り、日光街道を進むルートが計画された。新日光鉄道はこの計画に飲み込まれて消失した。高速鉄道計画は将来には日光から馬返し、中宮祠、湯元、そして今市と塩原を繋ぐ遠大な計画であったが、関東大震災の影響が甚大で測量等を期日までに完了させることができず、許可取り消しの裁定を巡って裁判まで行われた。しかし、最終的には東武鉄道がこの周辺の工事に着手し、そしてまもなく世界中を襲う世界恐慌によりすべてが消失した。

その後

 昭和4年(1929)には、北関東の私鉄の覇者である「東武鉄道」が複線電化で鉄道を通し、浅草(現・とうきょうスカイツリー駅、旧・業平橋駅)から東武日光駅間を特急で2時間24分で繋いだ。当時の国鉄では上野―日光間は4時間弱程度の時間を要したため、劇的な所要時間の短縮となった。

 翌昭和5年(1930)に、巻き返しを狙う国鉄は雀宮駅から鹿沼駅に直結する短絡線路の計画を始めたが、宇都宮商工会議所を始めとする宇都宮市民の猛烈な反対運動により実現されなかった。これは宇都宮市民の日光に寄せる期待や、商業都市としての発展に重大な意味を持つものであると考えていたことを示すものであろう。

 また同年、国鉄は季節準急として、上野―日光間を1往復のみではあるが、全区間蒸気機関車の牽引で、途中赤羽、宇都宮の停車のみで2時間30分で走破した。これは非常に好評で、その後も定期化され、食堂車の牽引や今市駅での停車などサービスも拡大しつつも、2時間27分へ短縮を進めていった。ちなみにこの列車は準急なので、急行料金がかからない。特に速度においては上野―宇都宮間の平均時時速は69.1km/hで、東京―神戸を繋ぐ特急「つばめ」の68.4km/hより速かった(もちろんこちらは急行料金がかかる)。

 これにはもちろん東武鉄道も黙っていない。東武鉄道の根津嘉一郎社長は、「官である国鉄が、準急と称して急行料金を取らない急行を走らせ、民間鉄道と競争するのは不当である」と抗議的な主張を繰り返したが、国鉄は全く取り合わなかった。

 昭和10年(1935)に東武鉄道は関東初の本格的なロマンスカーを新設。内装は豪華で、「電車には煙なく、各室には便所あり」と快適性を訴えながら、2時間17分で走破した。

 しかし、太平洋戦争中の昭和18年(1943)からは鉄不足による線路供出が行われ、東武日光線は合戦場駅から東武日光駅までの間が単線になってしまい、時間短縮競争は一時休戦となった。

 戦後には、昭和34年(1959)9月の国鉄日光線の電化完成によって再び両者に対決の火蓋が切って落とされる。国鉄はまたしても、後に東海道線で特急として活躍する新型電車を、特急料金なしで乗れる準急「日光」として運用を開始し、東京―日光間を1時間57分で走破した。危機を抱いた東武鉄道は翌昭和35年(1960)、新型ロマンスカーを投入した。ジュークボックスもある豪華サロンカー、自動ドア、リクライニングシートなど快適性も充実し、浅草―東武日光間を1時間46分までスピードアップした。

 しかしその後、急速にモータリゼーションの波が訪れ、旅行はマイカーという機運が高まり、加熱した日光に至る国鉄vs東武の戦いは休戦状態となった。そして平成18年(2006)、記憶に新しいJR新宿駅から東武日光へ、両社間の特急直通運転によって歴史的和解となった。

 今から想像しても、馬車・人力車から鉄道へのスピードと輸送量、快適性への変革が起こした日本国民への影響は計り知れないものがある。たくさんのお金が工事に費やされ、鉄道は正真正銘の国家事業として日本中に張り巡らされた。まさにイノベーションである。昔、電話が初めて引かれたときも、テレビが家庭に普及したときもそんなイノベーションがあったのかもしれない。それは現代に生きる我々も「インターネット」というシステムで経験している。百科事典を開くまでもなく、新聞より早く情報はスピーディに共有され、地球の裏側で現実的に起こっている事象を動画で見て、次の瞬間には我が家で必要な調味料なり某かを注文することができる。今までの商売のやり方が通用しなくなったり、思いもしなかった新しいビジネスが確立され、巨万の富を生み出したりしている。レコードがCDになった時、我々は針の飛びやレコード盤の傷に怯えなくて済むようになった。今、音楽はデータ配信である。知識の源である本もデジタル配信が増えた。これらはかさ張らなく、劣化せず紛失もしないが、子ども達が年代に応じて家の書棚から好きな本を選んで持っていくという行為が無くなる。なぜならデジタル書籍は貸したり売ったりすることが出来ないからだ(図書館は将来どうなるのだろう?)。

 電車の中では、乗客のほぼすべての人たちは下を向いてスマートフォンを操作している。私は窓の外を眺めて、激動のイノベーションの時代を生きた先人たちの努力に思いを馳せる。現在、宇都宮―日光間は42分、当時の半分以下の時間でたどり着ける。

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