黒部ダムの竣工
さて、東京に向けての送電が開始された後の大正2年(1913)9月16日、黒部ダムがようやく竣工した。完成したダムは当初の予定より小規模のものとなっていた。以下は黒部ダムの当初の予定であった「起業目論見書」と、「完成したもの」のサイズ比較表である。
「起業目論見書」 明治43年8月3日 | 「竣工」 大正2年9月16日 | |
全長 | 380尺 | 520尺 |
115m | 157m | |
堰堤高 | 126尺 | 85.5尺 |
38m | 26m | |
貯水量 | 16,200万立方尺 | 4,500万立法尺 |
451万㎥ | 125万㎥ |
これを見るとわかるように、当初の計画より幅こそ広くなっているが、堰堤高は低くなり、そのため貯水量は3分の1以下になっている。
なぜ黒部ダムは当初より規模を縮小したのだろうか。それは第2代東京市長・尾崎行雄が掲げた「東京市百万灯計画」が関わっている。
尾崎行雄「東京市百万灯計画」と菅沼からの引水
前述したように、鬼怒川水電発足の際に利光鶴松が契約した大口顧客「東京鉄道株式会社」は明治44年(1911)3月、東京市によって買収され、「東京市電気局」となった。東京市の第二代市長である尾崎行雄は「東京市百万灯計画」を掲げ、東京市全域に広く電灯を普及させようとしており、鬼怒川水電もそれに応じ、当初126尺(38m)の予定であった堰堤高を完成後には200尺(60m)まで上げようとしていた。しかし百万灯計画に対して逓信省はなかなかこれを認可せず、計画は挫折した。
そのため鬼怒川水電は当初の計画ほどの多くの電力を送電する必要がなくなった。
もう一つ、わざわざ黒部に巨大な貯水ダムを建築しなくても、群馬県菅沼の清水湖を天然の貯水池として利用することも可能との計算が成り立ったことも理由として挙げられる。鬼怒川の本流は鬼怒沼からの流れだけではなく、根名草山の裾を流れる「根名草沢」など大小様々な沢の流れを合わせるが、菅沼と根名草沢は1.3kmほどの隧道を掘削すれば容易に引水できる計算があった。
これらに加え資金難も追い打ちをかけ、大正元年(1912)7月、鬼怒川水電は堰堤高を126尺(38m)から85尺(26m)に変更したのである。
そんな折の9月に黒部ダムは出水、土砂の流入がおこり底が上がってしまったため、ただでさえ少なくなった黒部ダムの貯水量は当初の予定より著しく減衰した。
さらに菅沼清水湖からの引水計画も地元住民の強力な反対にあって実現しなかったばかりか、群馬地方裁判所検事局より清水湖の水利権許可について嫌疑を受けることにもなった。
こうして鬼怒川水電は当初の計画通りの発電量(5万馬力)を賄うことが不可能であることが分かった。
数年後、不足分の電力を補うことと、さらに東京市が必要とする電力が増大を続けたことも相まって、鬼怒川水電は東京に「隅田火力発電所」を建設することになる。
隅田火力発電所
以下の地図が隅田火力発電所の場所である。
技師長、太田圀馨
太田圀馨は、名古屋電灯の長良川発電所、熱田火力発電所や、安曇電気の宮城第一発電所、多治見電灯所の土岐川発電所の建設を担当した技師である。
太田は明治9年(1876)3月、旧尾張藩士松井武圀の5男として愛知郡愛知町字牧野に生まれた。大日本帝国陸軍の陸軍大将となった松井石根は、圀馨の実弟(6男)である。
太田は鹿児島高等中学造士館に学び、熊本の第五高等学校を経て東京帝国大学に入り、明治36年(1903)7月電気工学科を卒業した。在学中の明治35年(1902)に服部ひさと結婚し、妻ひさの祖父の生家の太田家を再興し、その姓となった。
大正6年(1917)8月、太田は名古屋電灯を退職し、鬼怒川水力電気㈱の技師長として招かれ、東京府田端駅の東北、隅田川の畔に「隅田火力発電所(8,000kW)」の建設を担当した。
隅田火力発電所は大正8年(1919)12月に完成、その後は増設を繰り返して昭和2年(1927)に発電量は2万1000kWまで増大した。
太田は昭和9年(1934)11月、58歳で逝去した。
つづく。
コメント