龍王峡と五龍王神社

景勝地、龍王峡

 川治温泉と鬼怒川温泉の間にある「龍王峡」は、新緑や紅葉の季節になると多くの観光客で賑わう景勝地である。龍王峡入り口には野岩鉄道会津鬼怒川線の龍王峡駅があり、広々とした駐車場や幾つかの飲食店、物産店があるのでアクセスも容易である。
 龍王峡は大きく3つの区画に分けられ、上流から紫龍峡(紫龍ヶ渕)、青龍峡(青龍ヶ渕)、白龍峡(白龍ヶ渕)となっている。
 紫龍峡は2,200万年前の海底火山の爆発で安山岩が流れ出して形成された。その紫龍峡の上に火山灰が体積して出来た青龍峡。さらに、その上に白っぽい流紋岩が流出した白龍峡となっている。

龍王峡
龍王峡

 龍王峡を楽しむハイキングコースとしては概ね3つある。
 日頃運動不足で体力に不安がある人であれば「虹見の滝」や五龍王神社まで、石段を上り下りして行くことができる。もう少し足を伸ばしたいのであれば虹見橋を渡って次のむささび橋まで行って戻ってくる全行程約3km、約2時間弱の周遊コースもあり、これは途中の山中の売店「むささび茶屋」で缶ビールを飲みながらところてんをすすることだって可能だ(むささび茶屋は冬季休業)。
 もっと頑張る気がある人は、自然探究路が整備されている。川治湯元駅まで歩いて約7kmで3時間弱。ゴール地点で日帰り温泉に浸かり、帰りは電車に乗って龍王峡駅まで戻るのが良いだろう。
 各コースタイムは僕が歩いたGPSリンクを貼っておくので参考にしていただきたい。

運動不足コース (最悪、ヒールがある靴、スカートで…どうかな…)

周回 ところてん缶ビール付きコース(しっかり歩ける靴と服装で。)

縦走 温泉付きコース(周囲に人はあまりいない。長距離を歩ける装備で。)


 ご覧のとおり「登山」のようなアップダウンは無いと言っていい。だが、なだらかではあるが人はそれほど歩かない山道であり、行程の殆どは未舗装で粘土質や岩肌、木道を歩くこと多いため、「しっかり歩くことができる靴」は必須である。悪いことは言わないから、間違っても半ズボンやスカート、短いソックスにスニーカー等はやめるべきである。山蛭ヤマビルもいるのだ。
 付け加えればいずれのコースもスタートが石の下り階段であり、残念ながらスロープやエレベーター等は無いため、脚が悪い方は下りていけない。

龍王峡 ところてん
むささび茶屋のところてん(むささび茶屋は冬期休業)

龍王峡と命名

 ところで、「龍王峡」という名称は実はそれほど昔からあるわけではない。昔の地図や景勝地案内を見てみると、「虹見の滝」や「兎跳ね」等の名称は見られるが、「龍王峡」という名を見つけることはできない。
 以前は全くの無名だった奇岩だらけのこの渓谷は、昭和24年(1949)3月、大字藤原の斎藤茂吉氏の提案により、字名「イの原」から「浜子」に至る約5kmの鬼怒川河川敷にハイキングコースが造成された。財源は藤原町および旅館組合の補助金である。
 さらに翌年の昭和25年(1950)の春、毎日新聞社主催の日本観光地百選の渓谷の部に「鬼怒川川治龍王峡」と名付けて立候補したところ5位に入選し、初めて脚光を浴びることになった。
 名付け親はこの渓谷の開発の功労者、旧・日光市在住で日光博物館館長であった矢島市郎(俳号「三嵩史さんすうし」)氏である。龍王峡の駐車場の一角には矢島氏の川柳碑が置かれている。高さ約1.7m余りの立派な石碑で、
「旅の字ハ 風にふかるる 寿かたなり 三嵩史
と刻まれている。これは昭和44年(1969)7月、龍王祭を記念して鬼怒川川治観光協会が建立したものである。
 その後も栃木県や旧藤原町は継続的に駐車場の拡幅、道路や橋の新設、解説板の設置を行い、国庫補助などを得ながら昭和42年(1967)から昭和53年(1978)まで龍王峡の園地事業を行った。

龍王峡の名を世に広めた矢島市郎の川柳
龍王峡の名を世に広めた矢島市郎の川柳

縦走コース

龍王峡

 先述の通り「縦走コース」は龍王峡駅から川治湯本駅まで約10kmを歩くハイキングコースが整備されている。ただし、時期によってはあまり人が歩いておらず、軽装の観光客が途絶えてくる川治方面に近づくにつれて、ちょっと「怖いな」と思う場所も出てくる。

龍王峡
有名な事故車
龍王峡 逆川トンネル
真っ暗な逆川トンネル
浜子橋 龍王峡
吊り橋「浜子橋」

 道は迷いようが無いほど整備され、道標も大きなものが豊富にある。疲れた人のためには、国道に出るエスケープルートもいくつかある。
 繰り返すが、しかしそれでも山道なので、くれぐれも軽装で歩こうとしないように。

五龍王神社

 最後に、龍王峡駅から石段を下ったところにある「五龍王神社」を紹介しよう。
 ここは龍王峡散策の一番初めの目的地であるが、ここで写真を撮影してもと来た道を戻る方がおそらく9割を占め、そして「龍王峡は行ったことがある」と言うのだろう。

龍王峡 五龍王神社

 拝殿の横にはかんたんに五龍王神社の縁起が書かれているが、これをちょっと掘り下げてみる。なかなかの物語を持つ神社である。

 「五龍王」は、仏教の八大龍王から海に関係する難陀、跋難陀、摩那斯の3つの龍を除いて5にしたと考えられる。五龍王神社の御神体は宇都宮市明神前の高田運秀・喜代助*の合作とされ、大きさは文献によって1m余りとも10cmとも言われている。実際は木像の龍神像で、龍の姿がどんぐり形の鞘に収まっており、台座を含めた高さは29cm、正像は10cmほどであるという。この大きさの違いは一体何なのだろうか。それは、近年この像を見たものがおらず、写真にも残っていないからである。

* 高田運秀・喜代助とは
 高田運秀・喜代助の親子は江戸時代に宇都宮を中心に活躍した高田一門の仏師である。喜代助は後に運刻となり、父運秀の跡を取り8代目となった。
 書類によっては喜代助の名を「喜代松」とするものもあるが、高田家に伝わる過去帳に「喜代松」と書かれたものがあったからである。これは恐らくは記載ミスで、同氏が彫った仏像の銘文は全て「喜代助」となっている。
 高田一門は宇都宮市馬場町にあった高田仏具店の先祖である。残念ながら現在は廃業している。

 この木像は文政8年(1825)に鶏頂山の弁天池に祀られた。当時の弁天沼は現在の数十倍の広さがある大沼であったが、その沼には大蛇が住み、美男子に変装して婦女子を誘い湖中に引き入れると言われていた。ここよりほど近い場所にあった高原新田宿の湯泉寺(とうせんじ)の住職はその冥福を祈るため、彫刻された龍神像を祀ったと言われている。

鶏頂山、釈迦ヶ岳に向かう途中の弁天沼
鶏頂山、釈迦ヶ岳に向かう途中の弁天沼

 文久3年(1863)9月、高原新田宿の廃宿に伴い住民が川治温泉の地に下り、そこを新たに高原と名付けた。御神体はその時、高原新田宿の問屋・大塚傅十郎氏が山から持参し神棚に祀られた。その後、大正の初期の頃に大塚氏の子孫が不慮の死を遂げたことから大塚家は断絶して無住の廃屋となってしまった。これは現在の川治一柳閣の場所である。
 その後、龍神像は長い間無住の家の神棚に置かれたが、大正8年(1919)頃に高徳の土建業者・高橋喜代治氏が大塚家の解体を行い、そのときに龍神像を手に入れたという。
 龍神像は高橋氏の親戚によって祀られたが、その所有者の身辺に災いが起こるということで恐れられ、所有者を転々とした。
 次に龍神像の行方がわかるのは日光の骨董店で、上三依の阿久津作吾氏がこれを購入したとされる。阿久津氏は自宅に木像を安置し丁寧に祀ったが、大正14年(1925)、氏は心臓麻痺によってこの世を去った。同氏の子である作太郎氏は昭和4年(1929)、龍神像を藤原の御嶽山神社に奉納することで遷座し、昭和32年(1957)、現在地に改めて社殿と鳥居が造営されたといわれる。

以上、ちょっぴり深い龍王峡の話でした。
 

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