旧・栗山村の野門に「栗山東照宮」がある。昭和45年(1970)に建立された神社で、神社の歴史としてはかなり最近のものであるだろう。
これは「戊辰戦争の際、日光に戦禍が及ぶことを恐れた日光東照宮が御神体を会津藩に動座する途中、野門に立ち寄ったときに一時安置された場所である」と言われている。
さらにはある種のホームページでは、
「日光から御神体を運ぶ途中で御神体の安全を危惧した一行は、栗山村野門の小栗久右衛門にその守護を命じたため、地元の住民が代々その御神体をお守りしてきた。日光には家康公の御神体は無く、本当の御神体はここ野門のものである」という話も見聞きする。
実際、野門では昔から「この奥に隠されているものを見ると目が潰れ、触ると手が腐る」などと人を立ち寄らせず、厳重に守られてきた様子も伝わっている。
実際のところはどうなのだろうか。今回はこの栗山東照宮の御神体について調べてみた。

ただし、僕自身がそうだったのだが「御神体の移動」と聞くと徳川家康公の遺体が納められた棺を運搬したと勘違いする人もいるかも知れない。
しかし運ばれたのは「徳川家康公を模した像」である。
よって今回はその混乱を避けるため、これ以降は「御神像」と統一して呼ぶことにする。
日光東照宮、御神像の動座
話は戊辰戦争まで遡る。
慶応4年(1868)4月から5月にかけて、日光山のお膝元である今市で、旧幕府軍と新政府軍が激突した。今市は日光街道と会津西街道の分岐点となっており、この要衝を掌握する戦いは激しいものとなった。
日光山では戦禍が日光東照宮にまで及ぶことが危惧されたため、東照宮の別当・大楽院貞侃はこの緊急事態に御神像を安全な場所まで動座することを決めた。別当職は非常に強い権限を持っており、周囲の反対を押し切っての決行だったと言われる。
4月26日の早朝、天候は大雨であったが、御神像の退避が決行された。貞侃を始めとする一行は御神像と遺品である神宝を持って日光山を脱出、興雲律院から六方沢に向かう山中に入り、栗山郷日向村の龍蔵寺に宿泊した。28日にはさらに山中に入り、西川村に到着した。29日には今市宿、野口(瀬川)十文字で大きな戦闘があったことを知り、一行は日光へ戻ることを諦め五十里村に出て会津西街道を北上、山王峠を超えて一路会津若松へと向かった。
御神像は紆余曲折を経て会津、仙台などの東北地方を転々としたが、騒動が収まった日光には7ヶ月後の10月29日(この年は閏4月があったため7ヶ月後になる)に戻ってきており、そのルートや日付はしっかりと記録されている。
そして、そのルートの中に「野門」は無い。
野門の御神像とは

ある程度のお年の方ならば、この「栗山村野門の御神像騒動」を覚えておられる方も多いだろう。
現代でも語り継がれるこの騒動の元々を辿ってみよう。
昭和28年(1953)の暮、塩谷郡栗山村(現・日光市)野門の「小栗五郎次」氏が自宅の煤払いをしていた際、神棚の奥から何やら古い文書を発見した。それは小栗氏の祖父・久右衛門氏が、会津藩主の松平容保の家臣、「永川小泉」から受け取ったという添え状だった。その内容は、「戊辰元年8月、小栗久右衛門に御神像の守護を命ずる」という内容のものだった。
驚いた小栗氏が家中を探すと、奥座敷の釘で打ち付けられた戸棚から、家康像と太郎山、男体山、女峰山の三像、計4体の像が現れた。
これが「日光東照宮の御神像は日光に戻らずに、栗山村野門に隠されていた」という話になり、昭和33年(1958)6月15日、読売新聞の社会面トップ記事に掲載された。
慌てたのは日光東照宮である。東照宮の解釈としては、「確かに戊辰の混乱の際、御神像は一時東北へ移動したことはあるものの、その後は間違いなく戻ってきていて日光東照宮本殿に安置してある。これは記録からも明らかである」と反論した。
そして記事から1週間後の6月23日、日光東照宮と神社本庁が共同で像の調査を行った。公平を期すため東京国立博物館からは金子良運技官が参加し、新聞社もその調査に加わった。
日光東照宮にある御神像は、明治末期に15円というかなり高額な拝観料で一般に公開されたことがある。その像は木造で着色された高さ78.8cmのものであり、衣冠束帯の姿であるという。
一方、野門の御神体は調査の結果、姿こそ同様の衣冠束帯であったが高さが36cmと小ぶりで、日光のそれの約1/4くらいの大きさだった。
頭部の内側には「享保14年(1729)6月祥日作」、台座には「喜奉再興」と墨書されていた。金子技官の鑑定の結果、「江戸中期の神像の彫刻だが東照宮の御神体とは程遠い」との結論だった。
それによると、
- 元和3年(1617)に造営された日光東照宮の御神像が、120年を経た後の享保年間に制作されることは有り得ない。
- 造営から享保年間まで一度も風水害の被害にあっていない東照宮に「再興」の文字が当てられるはずがない。
- 「お墨付き」の年号は「戊辰元年」となっていたが、この年は改元の年であり9月8日に改元となっている。それなのに、改元前の8月に元年とされているのはおかしい。
(例えれば、平成31年(2019)4月30日の翌日にあたる令和元年5月1日に改元になった。それより前の平成31年3月の日付の書状に”令和元年3月”と書くことはありえないということだ) - 会津藩には「永川」という家臣はいなかった。
このように数え上げれば野門の神像を日光東照宮の真の御神像だとするには随分と無理があることがわかった。
そこで同年6月24日、読売新聞は事の顛末を紙面で伝えて、この騒動は一件落着した。
結論としては、御神像は明治の廃仏毀釈の混乱の際に数多くあった宿坊が廃されたが、その時に持ち出されたものではないかということだった。
ここで、現在の野門に伝わる話を栗山東照宮の境内の案内文から引用する。
平家落人伝説が語り継がれる栗山村で「家康の里」を名乗るこの野門集落は、徳川三代将軍「家光公」の時代に野門村として日光御神領に編入された。
慶応4年(1868)に起こったいわゆる「戊辰戦争」の折には会津方の兵士として集落の働き手が徴収され日光と野門村を隔てる富士見峠近くの若狭河原の戦いに、2名の負傷者を出している。
混乱していたこの時期、会津方は日光東照宮境内に数ある宿坊の中でも、由緒ある宿坊に祀ってあったと思われる「男体山三社神体」と「徳川家康公の御神体(筆者注:御神像)」を密かに奉持し富士見峠を超えて僻遠の地、野門村に住む「小栗久右衛門」に「肥後守」(会津城城主・松平容保)の命による左記のお墨付きとともに象牙の白笏を授けて「守護職」を命じた。
この事実を広く世に伝えんと昭和45年10月地元奉賛会が中心となり「栗山東照宮」を建立、一般崇敬者の拝礼の大正としたものであります。ー 記 ー
戊辰元年八月□日
日光御神領野門村
以小栗久右衛門守護職命
明日卯之刻逆賊等之行為毎欲
祖先之大廟襲之有
念慮授白笏此御神体之守護職命
男軆山三社神体
征夷大将軍徳川家康公神体
於戦中
依肥後守命
大隊長 永川小泉引用:栗山東照宮境内の案内板

この説明では日光東照宮を出立した一行は裏見の滝あたりから、小真名子山と女峰山の間の鞍部である富士見峠を通って野門にでたということか。なるほど、江戸時代からこの道は日光と栗山を結ぶ交易路があった。
これらの話は神仏に関わるいわゆる「深秘事項」であり、神職や僧侶の方々が軽々しく口を開くことは不敬にあたる。
よって今後はこれらの騒動については詳しいことが語られることは少ないだろう。
そして何より大切なことは、享保年間という今から約300年ほど昔に作られた野門の家康像は、長い間野門の人々の篤い信仰によって大切にされてきたものであり、その信仰の価値は揺らぐものではないということだ。
その証拠に今でも栗山東照宮では毎年例祭が行われ、10月の第4週には像のご開帳も行われており、平成16年(2004)6月8日、旧・栗山村によって家康像と太郎山、男体山、女峰山の三社権現像は有形民俗文化財の指定を受け、今に至っている。
ちなみに余談であるが、栗山東照宮の狛犬は西澤金山の山神社に置かれていた狛犬を移動してきたものだということだ。
台座に彫られた年号は大正6年(1917)、奉納者は「大宮組 齋藤善蔵」、石工は「小平喜三郎」と読める。

以上、野門の栗山東照宮の御神体騒動について調べました。

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