日光市民ならばほとんど誰もが知っている日光和楽踊り。
日本各地に数多ある盆踊りの一つで、関東地方でも代表的なものの一つに数えられるだろう。
昔からあるような感じもするが、実は和楽踊りの歴史は比較的新しい。

日光和楽踊りとは
日光和楽踊りは、大正2年(1913)9月6日と7日、田母沢の日光御用邸に避暑に来られていた大正天皇と貞明皇后が日光電気精銅所(現・古河電工日光事務所)をご訪問したことを記念したことがルーツとなる。
当時、陛下が民間の工場をご覧になられることは初めてということで、工場内の陛下が歩かれる道には天竺木綿が敷かれ、当時の鈴木恒三郎所長がお迎えに上がった。御前で作業する従業員は100名が選ばれ、日光町中の理容店をすべて動員して散髪を行い、作業着はもちろん下着までも新品のものを着用した。そのように、関係者は言うまでも無く、従業員やその家族までもが気を使いながらその日を過ごしたという。
6日に天皇陛下、翌7日に皇后陛下の行幸啓後、両陛下が無事に帰途につかれ、ホッとした従業員が打ち上げの酒を飲み交わした。その開放感から数名が庭で踊り始めたため、皆がそれに和して踊り始めた事が和楽踊りの原型であった。
それを見た鈴木所長が翌年大正3年(1914)に「和楽踊り」と名付け、従業員のレクリエーションとして取り入れた。
その曲は、足尾銅山から足尾峠を越えて日光に鉱石を運んだ馬方が唄った「馬子唄」の節で、歌詞は従業員から募集したものが付けられた。
当時「盆踊り」は風紀の問題があるということで、栃木県下では盆踊りはすべて禁止されていたが、和楽踊りは健全的な娯楽ということで特に許可されたということだ。「風紀の問題」とは何ぞや?と思ったが、娯楽に事欠く当時、祭は若い男女の出会いやら何やらの場であったという事だろう。
手踊り・傘踊り・石投げ踊り
和楽踊りの踊り方は3種類あり、「手踊り」、「傘踊り」、「石投げ踊り」があるという。筆者は今市出身で、この近辺の小学校では昔は運動会のフィナーレには和楽踊りが行われ、児童や保護者、近隣の住民たちが輪になって踊りを踊ったが、恥ずかしながら「石投げ踊り」なるものは聞いたことがなかった。
石投げ踊りは、足尾銅山の鉱夫が石を拾って、それが鉱石だった場合は背負った籠に入れ、ただの石だった場合はそれを放り捨てる、その仕草を模して振りが付けられたものだという。
先日、我が家のそばの「道の駅 ニコニコ本陣」で、お盆の2日間に渡って本場の和楽踊りが開かれた。
自営飲食業の私は店が多忙を極めており、準備中にはぐっすりと昼寝をしていたため(お囃子が聞こえるなとは思っていた)、気づいた時にはその間に舞われた和楽踊りも、幻の「石投げ踊り」も終了していた。
慌てて走って会場に向かったが、高く組まれた櫓は業者の方々によって撤去されている最中であり、したがってこのブログの写真は剥がされるのを待つばかりのポスターだけとなってしまった。
とても残念な話である。
ラジオとレコード録音と「丸山テツ」
日本における初めてのラジオ放送は大正14年(1925)3月22日、「JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります」で始まる仮放送で、同年7月12日には都心で一番高い山である東京都港区芝の愛宕山に置かれた東京放送局から本放送が始められた。現在、愛宕山にはNHK放送博物館が建っている。
細かな放送日時は不明だが、昭和初期、毎年和楽踊りで歌い手として活躍していた丸山テツと精銅所のお囃子方が愛宕山に招かれ、日光和楽踊りが披露された。当時最先端の技術であったラジオによって放送されたのである。ちなみに、当時のラジオ放送はすべて生での放送である。
これが評判を呼び、当時精銅所の所長だった金子智のもとにレコード録音の依頼がやってきた。現在のユーチューバーのように素人の我々でも録音する機材や配信する手段を持つ時代ならともかく、昔は録音と言ったらその手段はレコードだった。テープレコーダーさえこの世に姿を表すのはずいぶん後の昭和の中頃のことである。
丸山テツは恥ずかしさもあってかそのオファーを固辞したが、金子所長のたっての願いもあり、日本コロムビア・レコードで録音が行われ、「日光和楽踊り」がリリースされた。
この時レコード会社の注文で歌い回しに多少手が加えられ、和楽踊りは今現在我々が耳にする形になったという。そして版権という概念が今ほどうるさくなかった時代ということもあり、ビクター、キング、コロナ各レコード会社から続けて日光和楽踊りが出版された。
丸山テツ
丸山テツは明治16年(1883)、埼玉県に生まれた。18歳のときに東京の料理店に奉公として働き始めたが、22歳のときに両親の反対を押し切って宇都宮で芸者となった。芸名は「こはま」。
宇都宮で5年を過ごした後、日光に移り住んだ。丸山は小柄であったが声が大きく歌は上手く、売れっ子芸者であったという。
昭和4年(1929)、日光東照宮の社務所「朝陽閣」(現・日光東照宮美術館)の障壁画(ふすまなどに絵を書くこと)の作成のため、横山大観に推薦された竪山南風、中村岳陵、荒井寛方らの画家が日光を訪れた。竪山は丸山の唄う和楽踊りを殊のほか気に入り、一日の仕事終わりには料亭や朝陽閣に丸山を呼び、酒の相手に和楽踊りを唄ってくれとせがんだという。
昭和36年(1961)に東照宮本地堂(輪王寺薬師堂)が火災に見舞われ鳴き龍が焼失したため、竪山はその5年後の昭和41年(1966)に再び日光にやってきて、鳴き龍の修復画を手掛けた。
以前の鳴き龍は狩野派の巨匠・狩野安信の作であるが、現在我々が見ることができる鳴き龍は、竪山南風による修復画である。
日光和楽踊りの歌詞
以下に日光和楽踊りの歌詞を掲載する。
しかし現在、この唄は時代を経るに従ってとても書ききれない位のたくさんのバージョンがあり、日光精銅所のみならず日光全域を唄う物となっている。最近では「令和」と聞き取れる歌詞もあった。
ハアー
丹勢山から アヨイトヨイト 精銅所を見れば
銅積む列車が アレサヤ 出入りする
ハアー
日光良いとこ アヨイトヨイト お宮の滝と
中は和楽の アレサヤ 精銅所
ハアー
和楽踊りに アヨイトヨイト ついうかうかと
月も傾く アレサヤ 丹勢山
ハアー
一目見せたや アヨイトヨイト 故郷の親に
和楽踊りの アレサヤ この姿
ハアー
金のなる木は アヨイヨイト ほかにはないよ
金ははたらく アレサヤ 腕になる
ハアー
滝は四十八 アヨイヨイト 華厳の滝は
日本八景の アレサヤヨー 筆頭

なお、現在でも丸山てつが歌う日光和楽踊りはYouTubeで視聴することができる。
「丸山テツの和楽踊り」

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