これは2025年5月16日、「会津西街道の一里塚を探す(3 中荒井村市郎兵衛 南無阿弥陀仏供養塔)」で地元郷土史家の大塚建一郎、日光市文化財課の方々と旧・高原新田宿を訪れた際の記録の一部である。
高原磁石石
日光市の指定文化財になっている高原磁石石。
場所は鶏頂開拓の側、古くは旧・会津西街道の高原新田宿の側にある。
高原新田宿の移転と磁石石については、拙サイト内の「栃久保新道の完成と高原新田宿の移転(高原新田宿 4)」で調べたので参照していただきたい。

この石の表面に、「文久三年 下ル」という文字が刻まれている。

高原磁石石 文久三年下ル
今は誰も訪れる者のいないこの山中の大岩に、「文久三年下ル」と文字を刻みつけたのはなぜなのか。ざっとおさらいしよう。
以下の写真は、磁石石の側に設置された案内板である。

記念物(遺跡)
磁石石
所有者(鶏頂開拓部落共有) 直径:約2米 高さ:約1米
明治維新の改革、大字藤原より川治温泉に通る栃久保新道が開通したため、当地高原宿駅を通過した人馬及び輸送物資は新道を通るようになったため、村民も新道沿之に移住した。その時この石に「文久三年下ル」彫り付けて一同は下山した。この石は当時を語る唯一の記念物であり多くの磁気を含む磁鉄鉱である。
藤原町文化財指定 昭和48年2月16日 日光市教育委員会
文久3年(1863)、高原新田宿の住民は200有余年暮らした先祖代々の土地を手放して離れる際、大岩に「文久三年 下ル」と彫りつけた。鶏頂山を背景にしたドラマチックな光景が目に浮かぶ。
さて次は、日光市の公式サイトから、磁石石の説明を引用させていただこう。
文久3年(1863)大字藤原から川治温泉を通る新しい会津西街道(栃久保新道)が開通した。これにつれて、高原新田宿を通る人馬・輸送物資も新しい街道を通るようになった。このため、高原新田宿の村民も、新しい街道沿いに移り住む以外に生活の方法がなくなった。
引用:日光市公式ホームページ https://www.city.nikko.lg.jp/cgi-bin/recruit.php/4/detail/429
この磁石石は、200年にわたり住みなれた旧地を離れる村民の愛惜の念を刻みつけたものである。上表面に後年陰刻した「文久三年下ル」のそぼくな文字がこのことを物語っている。
高原新田宿を通る旧会津西街道は、非常に険しいものであった。加えて冬期の降雪によって、従来輸送が途絶しがちだったのである。
文久3年、幕府は、難所を少なくし、冬期の交通をスムーズにするために、川治温泉を通る新道の開さくに着手した。
新道の開通によって、人馬・荷物の往来は、難所越えがなくなり、冬も滞こおらずにすんだ。しかし、高原新田宿の村民にとっては、大きな痛手になっていった。これといった物産もなく、人馬の宿料及び往復の駄賃かせぎが主収入であったためである。
このような時勢の変遷のため、村民は、新しい生活の手立てを求めて新道沿いに下山したものである。

この2つの引用文の違いがお判りだろうか。
前者は「高原新田宿の村民が、この地を離れる際に刻んだものである」という話だったが、近年になってこの説は懐疑的になり、上記の通り現在の日光市公式サイトでは「上表面に後年陰刻した」と改められている。
ただし、既存の多くのインターネットサイトには前記のドラマチックな「村を離れる際に刻んだ」という内容で書かれているものがほとんどである。まぁ、その話のほうがブログも華やかになるだろう。
さて今回は、さらにもっと詳しく磁石石を調べてみよう。
隠された文字、「石山蹄鉄工」?
高原磁石石の上表面は畳2畳程、高さは1メートル程の大きさで、約1/3が草に覆われている。「文久三年下ル」の字の大きさは20cmくらいだろうか。
表面を覆う草はコケとともに石に根を張るくらいびっしりと生えているが、それらをむしってみると、以下の文字が現れた。
これは大発見である。

土を払って、もう少しきれいにして撮影しよう。

見えるだろうか。
「石山蹄鉄工 大正七年■■(八月?)」の文字が彫られ、少し間隔が開いて左側に「六ト」と彫られているのがわかる。
調べてみると、石山蹄鉄工とは川治にあった馬の蹄鉄を装着する装蹄師らしい。
彫られている「大正七年」は1918年、高原新田宿から村人が移住した文久3年から半世紀を経た55年後のことである。その頃の会津西街道は明治26年(1893)に大改修を受け道は広く立派になったが、この地域の勝善碑と馬頭観世音碑は昭和初期に建立されたものも見られることからわかるように、人々の暮らしはまだまだ馬と共に駄賃稼ぎによって成り立っていた。石山氏はそれらの馬に蹄鉄をつける仕事をしていたのだろう。
その左側に「六ト」と見える字がある。
「ト」とは長さの単位である「分」の略字で、一分は約3.03ミリメートル。すなわち、これが「六分」という意味であるなら約18.2ミリメートル(約2cm)である。
もう一つ考えられる「ト」は容量を表す単位である「斗」で、一斗は約18リットル、「六斗」は108リットルとなる。我々には、一斗缶の大きさというよりは、灯油のポリンタンクを想像したほうがわかりやすいか。
2cmに満たない何か、もしくは108リットルもある何か。何を表現したかったのだろうか。磁石石の体積? いや、磁石石はポリタンク6個分よりもっと大きいように感じるが…。
違った見方をすると、これは風雪により字が不明瞭になっただけで、「大下」が正解かもしれない。
「大下」とは「おおげ」と読み、高原新田宿の南にあった「弐ツ屋村」の近現代以降の集落名である。大下には昭和30年代までは人が住み、付近の鉱山の飯場が置かれていたという。
これが彫られた当時の旧・高原新田宿は、終戦後に鶏頂開拓が入る時代よりずっと前なので、無人の廃屋があっただけだろう。
石山氏は、何を思って川治からここにやってきて、この石に字を刻んだのだろうか。
今回調べた限りでは、新たに発見された「石山蹄鉄工」以下に続く文字の意味はわからず、さらに「六ト(または大下)」、そして字が細くて鋭い「文久三年 下ル」との筆跡も違うように見受けられた。
従って、これらの陰刻文字は「それぞれが異なる時期に3人の手によって成されたもの」ではないかと想像する。
今回の記事はもやもやするが以上である。
この彫られた文字の意味をどなたか想像できる方はおられないだろうか。

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