移転後の高原とその後を辿る
高原新田宿を巡る話も今回が最終章となる。
今回は、移転したあとの高原について調べてみよう。
高原八軒と高原村字川原の町割り
さて、栃久保新道開通の翌年である元治元年(1864)3月20日に引っ越しを完了した新・高原村の様子を見てみよう。
新たな土地は男鹿川沿いの河原で、開削されたばかりの栃久保新道はこの「川原」を通っていた。現在は柏屋や川治一柳閣などの大きな温泉ホテルが並ぶ賑やかな通りであるが、この辺りは五十里湖の決壊によって大きく流れを変えた男鹿川が氾濫した場所であり、大小の岩がゴロゴロしているだけの荒れ地だった。

以下の図は「藤原村字栃久保(当時は栃窪)」の川原に移り住んだ「高原八軒」と呼ばれた家々の町割りである。道の両側に家を配置し宿場としての体裁を整えたこの場所は「高原村字川原」と名称を変えた。
拡大図を添えたが、当時の栃久保新道は緑線のところを通っていた。川治温泉郷の入口とも言えるクランク状になった現在の道とは渡河の位置が異なることがわかる。

- 「井桁屋」君島友吉
- 「大黒屋」香取久四郎
- 「角屋」香取庄七
- 「丸屋」高丸三七郎 (組頭格)
- 「和泉屋」田中治郎平
- 「問屋」大塚傳十郎 (庄屋)
- 「恵比寿屋」大塚傳八 (百姓代)
- 「吉野家」高松七四郎 (組頭)
以下の赤丸が初期の栃久保新道が通っていた橋の跡である。

以下はその橋を渡る手前の旧・栃久保新道である。写真左手に見える墓碑は香取家のものである。


村の様子
当時の栃久保は、高台に八木澤家が1軒のみ、当主の与左衛門夫婦、長男の茂吉夫婦、次男の平治の5人家族が家を構えていた。この八木澤家は10年後の明治7年(1874)、川治小学校の前身となる高原学校が開かれる家である。
高原八軒はこの八木澤家にいろいろと土地の事を訪ねて家を普請した。家を新築した者、高原新田宿から移築した者、間に合せの仮小屋を建てた者、様々であった。
1から8まで番地が当てられた高原八軒であるが、実際に移転したのは10軒であったと伝わっている。しかしこのうち2軒は程なく今市に引っ越ししたり、途絶してしまったため、「高原八軒」とされている。
余談ではあるが、今市に引っ越ししたとされる家は下図の旧高原新田宿の家割り図の中の「遠藤家」である。
旧高原新田宿の町割り(大塚建一郎氏作図より) 遠藤氏の直系のご子孫は今も日光市瀬尾にお住まいであり、代々の家系が記された戸籍謄本をお持ちであった。当代は清吾から数えて6代目にあたる。
伝わる話は口伝であり詳細を確認する術は無いが、
・先祖は「鶏頂下り」であり、今の川治一柳閣のあたりに住んでいたが、ほんの少しの物品と引き換えに短い期間で離れ、今市に越してきた。
・現在もお住まいである築100年を優に越す超す家屋は今市の倉ケ崎(今市警察署のあたり)から移築したものだと聞いている。
・鶏は飼わない(鶏頂山信仰のため)。
・高原新田宿で神社(鶏頂山神社か?)の禰宜をしていた。
とのことである。遠藤清吾は高原新田から栃久保に下ったが、程なくして今市の倉ケ崎に引っ越し、さらに明治年間に現在の瀬尾に越したのだと推察される。
栃久保への引っ越し完了時、前述の幕府からの手当金はまだ支給されていなかったため、村民は借金をしてこの代金を工面した。さらに河原の砂地であったこの土地は畑作には適さず、駄賃稼ぎの馬の食料となる馬草にも事欠く有様だったため、高原村は代官所に宛てて2通の書状を提出して陳情している。内容は以下のようなものである。
- 10軒分の家を造る木材が無く、この地で購入すると高価であること。
- そのため高原新田の旧家を解体して運びたいが、道中が急坂で難儀であること。
- 家を作った職人に代金が払えないこと。
- 継立てに使う駄馬の飼料となる秣場(まぐさば。草場のこと)が無いこと。
- 家事に欠かせない薪が無いこと。
- 川原は砂地で畑が無いこと。
この事から判断すると、新天地の字川原は街道を行き交う人や商荷の継立てなどはあるが、実生活を営むためのものは「何もない」場所であったことがわかる。
幕府の手当金は数カ月後に支払われたが、秣場や畑などの諸問題はなかなか解決しなかった。もともと住んでいた周囲の人々も生活に余裕はなく、当然おいそれと新規参入者に畑地や草場を提供することはできなかったからである。この問題は時代が変わった明治10年(1877)にようやく解決し、現在の川治小中学校跡地周辺が高原の持ち分となり、秣場として利用された。
川原地内を歩く
現在の地図から旧高原新田宿と高原村字川原の位置を確認してみよう。旧高原新田宿は「高原」、高原村字川原は「川治温泉高原」という地名になっている。高原とつく字は地図で見るとずいぶんと広く、飛び地になっていることもわかる。

移転当時の「高原村字川原」を歩いてみる。
庄屋を務めた大塚傳十郎家(屋号はそのまま問屋となった)は断絶してしまい、その跡には川治一柳閣が建っている。ここには龍王峡の五龍王神社の数奇な物語が伝えられている。
その隣の川治ふれあい公園の場所には近年まで「恵比寿屋」大塚傳八(百姓代)家のご子孫が経営されていた「高原荘」があった。
物産店・まんじゅう屋を営む大黒屋、物産展のいずみやは、当時の屋号を残して今も変わらぬ場所にある。
古い高原村字川原の様子を今に伝えるものとしては、川治ふれあい公園の横に写真のような無住の木造家屋が残っている。これは組頭を務めた高松家の住居である。
高松庵
高松家は長らく君嶋姓を名乗り、江戸時代を通して高原新田宿の組頭の地位にあったため、旧・高原新田宿の蔵にはたくさんの文書が残されていた。それらは現在栃木県立文書館に「旧高松國三郎文書」として保管されており、その総数は6,381点に登る。

当主・君嶋七郎右衛門信隣は高原新田を代表する知識人で、高原新田宿が栃久保に移転する前年の文久2年(1862)、姓を高松(組頭。屋号「吉野家」)と改称した。信隣は隠居後、ここで寺子屋「高松庵」を開いて子どもから大人までの学習の場を提供した。

その後明治7年(1874)、高原村、川治村は連合して藤原村字栃久保の八木澤家を間借りして「高原学校」を開校した。その設立に大きく貢献した高松七四郎は、信隣の長男・徳親の一人娘イズが塩原の新湯村より取った婿であり、当時でも高原村と新湯村は、元湯つながりで200年以上の深い関わりがあったことがわかる。
昭和期の最後の当主・國三郎は大字高原の区長を務めた。
宗旨替え
高原新田宿の村民のルーツは塩原村の元湯にある。万治2年(1659)2月の大地震により壊滅状態となった元湯温泉には円谷寺(浄土宗)、湯泉寺(真言宗)があったが、円谷寺は貞享元年(1684)塩原の新湯に、湯泉寺は延宝5年(1677)高原新田宿にそれぞれ移った。
ただし湯泉寺は修験の寺で墓が無く、修行僧が泊まり込む時以外は無住であった。高原新田宿の村民は円谷寺を菩提寺としており、浄土宗に帰依していた。
高原新田宿の住民はその後栃久保に下りたわけだが、当時、川治村や栃久保にはいずれの宗派を問わず寺があったという記録は見つかっていない。移転した高原村の8軒は明治時代には浄土宗であったが、時代を経て現在は真言宗、日蓮宗に改宗していった。
ちなみに当時の川治村の住民は同じ栗山郷である日向の龍蔵寺(浄土宗)や、日陰の自在寺(天台宗)の檀家であったと思われる。
鶏頂山神社の里宮
高原新田宿の住民が建立した鶏頂山神社の里宮が川治コミュニティセンターの奥にある。これは高原新田宿にあったもので、高松七四郎、田中治郎平、大塚傅八らによって新・高原村に移されたものである。傍らの石灯籠には享保16年(1731)と掘られ、手水鉢には鶏頂山を象徴する「鶏」が陽刻されている。この神社は最初は登隆館の道を挟んで向かい側、現在は消防小屋となっているところに建てられたが、昭和30年代の前半に現在地に移転した。
この裏手の山道を登っていくと「川治分去れ」を経て旧会津西街道に合流し、高原新田宿に行くことができる。現在も踏み跡はしっかりしており、文久3年に高原新田宿の人々はこの道を下ってきた。



旧高原新田村の十九夜塔(日光市有形民俗文化財)
川治霊園内に「旧高原新田村古碑」が置かれている。これは文久3年(1863)の集団移転により無住になってしまった高原新田宿に140年以上放置されていた石碑・石仏が、近年に子孫の方々の手によって川治霊園地内に移転安置されたものである。

旧高原新田村の十九夜塔(如意輪観音像)は日光市有形民俗文化財に指定されている。後背部分に「奉唱血池念佛供養 講中女人六十五人 享保九年甲辰五月日 下野国塩谷郡高原村」と記されている。享保9年(1724)の作である。
ちなみに「65人」の講中であるが、高原新田宿に女性が65人もいたはずはなく、これは藤原村と合同の講の人数である。
地蔵菩薩

この地蔵菩薩立像は享保15年(1730)の銘があり、旧高原新田宿のいわゆる「焼き場」にあったもので、村の老若男女の魂の成仏を見守ってきた墓地地蔵である。
高原新田宿では西に少し離れたところに火葬場があり、円形に並べられた石と地蔵菩薩の中央に遺体が置かれ、火葬を行った。高原新田宿には医師が居なかったため、伝染病等のおそれから遺体は土葬にはせず、少し離れたところで火葬で荼毘に付したのだ。
昭和の戦後に鶏頂開拓が始まった時にこの地蔵菩薩は鶏頂開拓の墓地に移動されたが、高原新田宿の子孫の方々の求めに応じ、現在は川治霊園に移転安置されている。
供養塔

高原新田宿の大塚家の墓地敷地内に横たわっていた高さ2メートルに及ぶ巨大な供養塔。これは万治2年(1659)に福島、栃木県境で起こった大地震によって、高原新田村のルーツとも言える湯本塩原村の元湯(現・那須塩原市の元湯温泉)で亡くなった親族、村人の供養を目的として七回忌の寛文6年(1666)に建てられたものである。
碑文には、
両親逆修為道仙頓證菩提也 于時寛文六丙午年 施主
父母□修為妙金出離善根也 四月六日 敬白
と記されている。
戊辰戦争
栃久保新道が開削されて高原新田宿の住民が移住した文久3年(1863)から4年後の慶応3年(1867)、将軍徳川慶喜は大政奉還を行った。しかしその後も旧幕府軍の佐幕派と、明治天皇と新政府軍の尊皇派は対立し、翌年の慶応4年(1868)1月、京都の鳥羽・伏見の戦いを皮切りにいわゆる戊辰戦争が始まった。
旧幕府軍と薩長軍の戦は徐々に東へと移り、栃木県もその戦火に巻き込まれた。旧幕府軍の奥羽諸藩は薩長軍に押され続け、その敗走路として白河や那須、そして日光を通った。板垣退助、大鳥圭介、土方歳三などの戊辰のビッグネームが今市を通って、我が家の目の前で抜刀したり発砲したり首を切り落として並べたりと戦を繰り広げるわけだがそれは後ほど調べることとしよう。
今市や大桑、高徳、小佐越などで一進一退の戦闘を交えた両軍であったが、慶応4年(1864)8月26日、横川宿まで追い詰められた会幕軍に退却命令が下ったことで戦火はさらに北へと移動し、日光市に平穏が訪れた。
しかし、その会幕軍退却の過程で多くの村が焼き討ちにあった。特に会津西街道沿いの旧今市市域や藤原町域は日光や会津地方と密接な繋がりがあり、会幕軍に味方する住民も多かったと思われるが、その会幕軍から焼き討ちの非道を食らうのである。
明治18年作成の「地誌編集材料取調書」によると、川治村の項では次のような記述がある。
『明治元年、戊辰の役で朝敵・松平容保の兵が放火した。家、畑、残る書類の一切が消失することとなり、これにより昔の事蹟を知ることができない。』
一夜にして家や財産の一切合切を失ってしまった人々の悲しみは想像を絶するものである。
高原村にとっては前述のとおり、旧高原新田宿より下りてきて間もない5年後の夏のことであるが、高原村には戊辰戦争の資料が残っておらず、有識者の間でも「会幕軍は旧高原、新高原いずれの宿や道を通ったのか」について意見が分かれていた。しかし現在の定説では、旧幕府軍の美濃郡上藩(現在の岐阜県郡上市八幡町)の「凌霜隊」が新高原の守備隊として駐屯したとされており、同隊が新高原を何度か通過していると考えられる。
これは推測の域を出ないが、明治新政府の統治下になってから高原村は宇都宮役所を通じて救助金を受け取っているため、おそらく「新高原は焼き討ちにあった」のだと思われる。旧高原は無人の廃屋のため焼く理由も無ければ、もしそこが焼かれたとしても新高原の住民に救助金が支払われる理由も無いからである。
結びに、塩原町史からの引用を紹介しよう。無人となった高原新田宿の様子を伝える唯一の資料である。
(カッコ内は筆者注。さらに本文も筆者訳としている箇所がある。)
野州塩原口、ここは戸田大和守の領分で1千石の地である。我が凌霜隊は今市口の会津藩軍事総督の山川大蔵殿よりのお達しにより、当分の間会津藩の小山田伝四郎へ付属して、塩原に進むことになった。
塩原町史
5月11日、旱天(日照りの空)、凌霜隊は藤原宿を出立した。高徳、大原、藤原、高原、このあたりはすべて戸田大和守の領分である。高原宿に昼に到着し、人馬を継ぎ立てして旧高原の峠に向かった(川治分去れを通ったものと思われる)。
この旧高原は高山ですこぶる難渋させられるため、高原と藤原の間に栃久保新道が作られた。この道は古高原峠の半分より低いくらいの道で、これを通る人は大変便利になった。
古高原峠は塩原入口の「新湯」より3里と言われるが、実際は5里はあるらしく、この間には家の一軒も無い寂しい道である。道はかなり険しく狭く、駕籠の通行がようやくという実に不便な道だ。
旧高原は、6年前から無住になった古い家屋が10軒ばかりが建ち腐ってあるばかりで、他には人家は無かった。したがって、この厄介な峠では食べ物はもちろん、水も自らが用意しなければならなかった。
この宿の外れには鶏頂山という山があって、ここよりまた1里半ほど登らなければならないが、そこには不思議な禁制があり、鳥、鶏に関係する物を持っては断じて登れないということである。
古高原の宿は、雨天には雲が家の中を縦横に通過するというものすごい場所であり、よくぞこのような場所に住んだと思われる。
宿の前後には広々とした平地があり、田畑の跡もあった。このあたりからは富士山を見ることもできるらしいが、我々の通行時には曇っていて今市までしか見えなかった。
実に難儀の上に難儀で、このような場所は日本にもそう多くないだろうと思えた。
晴天ならば、鶏頂山からは遥かに品川沖を眺めることができるということだ。
凌霜隊はその後、塩原から関屋(現・那須塩原市関屋)で戦闘を交え、追い詰められながら尾頭峠を越え、上三依から横川まで退却した。
以上、大きなドラマを内包した小さな宿駅、高原新田宿の話である。
- 藤原町史 通史編
- 藤原町郷土史 歴史篇・地誌篇
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- 川治の郷土史(近世編) 著:大塚建一郎
- 川治小学校史 「教育」 著:大塚建一郎
- 栃木県史 通史編 4
- 藤原町のおもしろ地名 著:藤原町
- 栃木県歴史の道調査報告書3 「会津西街道」 栃木県教育委員会事務局文化財課編
- 会津西街道を中心とした高原の歴史的考察 藤原町教育研修会編
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- 会津の峠 著:笹川 壽夫
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- 日光市の幕末と近代化への道 著:田邉博彬
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