仲附(中付)と五十里湖の出現(高原新田宿 2)

仲附と五十里湖の出現

 前回まで、会津西街道の高原新田宿は高所難所で雪深い山中にありながら、地の利を活かして小規模ながらも繁栄していった様子を調べた。
 今回はそんな会津西街道と高原新田宿が徐々に衰退していく様子について調べた。

仲附(なかづけ)の発生

 江戸時代、会津方面からの特産物や米は宿駅制度の決まりに従い、会津西街道の各宿駅を南下して陸路や水運で江戸まで運ばれた。この制度は宿駅が責任を持って御用荷を継ぎ送り、確実に目的地まで運ぶことが目的とされたが、公共事業の性格があったためその賃金は極めて安価であり、見返りとして認められた旅籠商用の荷の運送による駄賃稼ぎという大きな利益があるからこそ可能な仕事だった。
 一方、山間の村に住む農民は狭い畑を分け合って暮らしており、自給自足の生活すら不可能で、領主の給付米や、一度納めた年貢を借り入れて食料や生活必需品を入手しなければならない苦境に陥っていた。そのため江戸時代の早い頃からすでに、南山御蔵入(南会津町田島地方)や街道沿いの宿駅ではない村(上三依村や独鈷沢村、芹沢村など)の農民たちを中心に個人運送業者である「仲附なかづけと呼ばれる者たちが現れた。仲附は資料によって「中付」、時代が下るに連れ「仲附駑者なかづけどちゃ」、「駑者馬」、「中追之者」などとも呼ばれるが、今回は「仲附」と呼ぶことにする。
 当初、彼らは農閑期を利用して薪、炭、わらの加工品などの細々とした副業の生産品を自分の馬にくくりつけ、会津若松や今市方面に出かけて換金や物々交換をし、帰り道に塩や味噌などの生活必需品を購入して帰って、ついでに荷物も運んでその運賃をもらうという「駄賃稼ぎ」を行った。現代の感覚でいうと「自宅や近所の人が内職で作ったものを自分のクルマに積んで売りに出かけ、帰りにスーパーマーケットに寄って帰り、手間賃をもらう」という感じだろうか。この程度の細々とした規模であれば全く問題はなかった。自給自足できない分を補い、現金や生活必需品を手に入れるという生きていくための行為であり、宿駅側も黙認していた。これらを処罰することは出来なかったのである。

 時代が下るにつれ、仲附達は次第にその運搬の規模を拡大し、全く細々ではなくなった。馬を持たなかった農民までもが借金をして馬を購入して馬主となって仲附を開始するようになり、会津や田島地方の米や特産品を仕入れて今市・鹿沼方面に売り出し、逆に今市・鹿沼から山間部に生活必需品として塩などを持って帰るなど、個人運送業者としての活動は一層盛んになり、組織化していった。
 彼らは宿駅を通さず、一人が駄馬を複数頭(一人前にもなると5、6頭ほど)引いて特産品や米屋、味噌屋などの商人の荷物を満載し、宿駅を素通りして目的地まで直接荷を運んだ。そのため仲附は正式な手続きを踏んだ宿駅伝馬制度を用いるより圧倒的に速く、安く荷を運ぶことが可能であった。これも現代の感覚でいうと、「自家用トラックを購入し、◯◯商店の荷や自ら仕入れた品をたくさん積んで、整備された道路を直接目的地までひた走って商いをする」というイメージである。
 寛文11年(1671)の今市の六斎市には馬が500頭も集まった記録がある。これは農閑期に仲附100人程度がそれぞれ馬を多頭数引き連れ、会津や田島で仕入れた米を藤原や今市の市場に流し、帰りに塩等を買い付けていったということである。ちなみにこの頃会津の仲附から米を買い取っていた今市宿の穀屋には、高橋弥次右衛門や石岡七郎兵衛らの名が見られる。この積み荷が全て米だったとすると、約千俵もの会津米が一日で今市に集まったということになり、この頃にはすでに今市宿や日光は仲附が運んでくる会津米に依存していたということになる。
 ただし、「商用の荷を運送する駄賃稼ぎ」は宿駅に認められた権利であり、仲附が行っていた行為は本来禁止されているものである。宿駅側は、眼の前を仲附が素通りし、自らが扱うはずの物流が減ったため「旨味」の部分を奪い取られた格好になった。宿駅側は当然ながら猛烈に反発して、奉行所に「宿駅の決まりを守らない輩が台頭してきている。このままでは宿駅の我々は困窮し、御用のための馬や人足を確保することすらままならない」と訴え、「宿駅伝馬制度」を盾に、宿駅を通る仲附から通行料を徴収したり、荷物を差し押さえるなどの行為に出た。今度は逆に組織化した仲附たちが、「運んでいる荷はあくまでも私物であり商用の荷ではない(まぁ嘘である)、なのに宿駅側が法外な通行料を取り、私達の生活必需品までも差し押さえられた」と宿駅側を訴え返すなど、双方は通行可能な荷物の種類と量を協議するなどしながらも長らく対立していった。
 この話は後に続く。

 ちなみに先程より「塩を付けて帰った」と、塩、塩と何度か出てくるが、これは調味料としての塩をバサバサかける為ではなく、冷蔵庫が無かった当時、保存食として食料品の塩漬けや味噌醤油の自作などに塩が大量に使われたからである。

五十里湖の出現

 天和3年(1683)、日光・藤原・会津地方を中心とした大地震(日本災害史年表によるとマグニチュード6.9)によって①「五十里宿」の南側の葛老山が崩壊し、五十里川が堰き止められたことによってあたかもダムのようになり、「天然の五十里湖」が出現した。
 以下の図は当時の五十里湖の範囲を図にしたものである。当時の五十里湖の規模は現在のものを凌ぐ大きさだったことがわかる。
 五十里宿は90日かけて徐々に湖底に沈み、宿の住民40戸のうち、10戸が②「石木戸」、30戸が③「上の屋敷」と呼ばれた場所に逃れた。会津西街道は五十里宿で完全に途絶することになった。
 記録によると、湖の大きさは満水時点で①五十里で水深33m・幅380m、②石木戸で水深6m・幅220m、遮蔽地点では水深47m・幅900mとなっており、等高線から判断すると標高610mを超えるくらいまで湖水が及んだと思われる。

天和3年(1683)の五十里湖の満水時の想像図(地理院地図を利用して作図)

 当時の五十里宿、そして葛老山の土砂塊が崩れ落ちた地点は会津藩預り領であった。会津藩は総力を挙げて五十里湖の水抜きを試み、郡奉行の飯田兵左衛門を派遣して湖一体を視察させ、人足約4,000人を徴用して、湖水を別の谷に流す規模な工事を行ったが失敗に終わった。
 この工事によって大滝が3つ出来て、以後水位は一定の量を保つことになった。

 ②石木戸の住民は「石木戸五郎」なる人物を船頭として湖上に舟を出し、それに荷を乗せて③上の屋敷までを舟で運び、再び陸揚げされた荷を高原新田宿まで継立てし、上の屋敷の住民は狭い土地を開墾し、炭焼きも行いたくましく生き延びていった。五十里の示現神社には宝永元年(1704)、石木戸五郎ほか9人が仕事の安全を願って奉納した石祠があったという。

五十里の示現神社
五十里の示現神社

 しかし、もちろんこの湖上の舟運で今まで通りの量の荷物を江戸まで運ぶことは不可能であった。会津藩が江戸まで廻米する米の量は年間11万俵を越える量であり、白河街道だけではその半分しか運ぶことは出来ず、会津西街道は五十里湖の出現で著しく機能が低下しており、おのずと荷は大渋滞することになった。
 会津藩は窮余の策として、2つの街道を掘削している。
 ひとつは元禄8年(1695)、会津若松から那須の大峠を越えて栃木県内に入り、三斗小屋や板室を経て氏家の阿久津河岸に至る「会津中街道(松川新道)」である。これは会津若松の町人・横山久兵衛が1,669両で元請けとなり、区間に分けて数人に請け負わせ、もともとあった細い道を組み合わせながら約ひと月ほどで工事を竣工させた。この道は江戸までの距離で会津西街道よりも16km、白河通りよりも44kmほど短縮することができたが、栃木県内で山に登る人ならご存知であろうが、三本槍岳と大倉山の間を通る那須大峠は、まさに登山といった道である。
 またもうひとつは脇道として、上三依から尾頭峠を越して塩原に行く道と、尾頭峠から分岐して高原新田宿に向かう道である。これは会津方面からやってくる人々が五十里湖を通らずに高原新田宿に行くことができる脇道として重宝された。

会津西街道と会津中街道
会津西街道と会津中街道

 結果的に会津中街道は、険しい道のりであったことや天災による崩落などの事情が重なり幕府の認める公用道とはなり得なかった。元禄11年(1698)に会津中街道は暴風雨によって、野際新田ー三斗小屋間の大峠が土砂崩れによって通行不能となった。復旧も容易ではなく、宝永元年(1704)には宿駅の高札が撤去され、脇街道に格下げとなった。
 そこでやむを得ず会津藩はもう一度会津西街道に着目し、宝永4年(1708)、4,370両余りを用い、江戸の神田松下町の升屋文助、浅草草尾町の大口屋平兵衛、浅草新旅籠町の津賀屋善六の請負によって、再度大金とたくさんの人手を費やして五十里湖の水抜きを試みたが、これもあえなく失敗に終わった。
 結果的に五十里湖は湖の発生から40年を経た後の享保8年(1723)、この一帯を襲った暴風雨によって湖水を堰き止めていた岩盤が崩れ決壊した。これによって発生した五十里洪水は下野の災害史上、特筆すべき出来事であり、下流の川治村、藤原村、滝村は屋敷や田畑、堂宇、石塔までもが流出して一村全壊と言われる被害を受け、氏家や宇都宮方面の被害も甚大であった。
 この「海抜け」によって会津西街道はまた陸上に姿を表し、離散していた五十里宿の住民は旧地に帰ることになったが、すでに40年もの間湖底に沈んでいた五十里宿の復興は容易ではなかった。そしてこの間に会津西街道と、それをほぼ平行に走る会津中街道とを繋ぐいくつかの脇道なども出来ていた。そのため「江戸や今市・日光に荷物を運ぶ道」はいくつかのルートが機能している状態となっており、自ずと会津西街道の宿駅を通る荷は以前より減少することとなった。

 五十里宿は復興に命がけであり、仲附が上三依から尾頭峠を経て高原新田宿に運ぶ荷や、芹沢から湯坂峠を越えて日光に運ぶ荷を差し押さえるなどし、奉行所に復興への窮状を申し出ている。
 ただしその頃には、人口が増え続ける江戸に向けての物資の往来が盛んになり、米どころである会津藩にとっていかにもっと安全迅速に、そして安く米やその他の地元特産品を江戸に運ぶかが重要な問題だった。当時は公用の荷は「宿駅制度」で運ばれていたが、この制度は宿ごとに荷を移し替え確実に目的地まで運べることが長所な反面、日数がかかってしまうことが問題であった。
 宿駅制度のような無駄な時間と費用を排除していく流れは当然の成り行きであり、幾度も繰り返された宿駅と仲附の訴訟の結果も、年を経るに連れて仲附側に配慮した判決が下ることも少なからず見受けられ、宿駅側は従来通りの独占的な手法を推し進めることは困難になっていった。
 状況は次第に仲附側の優勢に傾き、会津西街道の宿駅は苦境に陥っていった。

つづく。


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