高徳の六題目の碑の伝説考 2/2

前回からの続き。

星家に伝わる話

 さて、このように考えてみると、僕の感想としては「高徳の名門である半左衛門は、陰でヤミ渡し場の船頭をしていたが、子連れの貧乏な僧達に金を払ってもらえなかったから激怒して全員斬り殺した」という話はちょっと信用できない。
 そこで、次は星家に伝わる話をご紹介しよう。

 当時、高徳村の名主の半左衛門は、江戸からの飛脚で「悪浪人たち13人が六部に変装して会津方面に向かっているから取り押さえるように。手向かえば斬り殺すのもやむを得ない」との命を受けた。
 数日後、半左衛門の家に鬼怒川の渡し場の船頭がやってきて、「それらしい13人の六部の一団を舟に乗せました。奴らは会津に向かったようです」と報告して来た。
 しかしその時半左衛門は所要で留守にしていたため、家族があわてて手分けして半左衛門を探したところ、幸い近くの村人宅で半左衛門を見つけ、その旨を伝えた。
 それを聞いた半左衛門は大小の刀を手に取ると、高徳村の自宅から会津方面に向けて馬を疾走らせて六部集団を追った。
 半左衛門が例の六部集団に追いついたのは高徳村と大原村の境だった。ここで半左衛門が幕府からの命令を伝えると、浪人らしき者数名が刀を抜いて斬りかかってきた。
 半左衛門はやむを得ず刀を抜いて六部らと斬り合いになったが、手傷を負いながらもようやく13人を斬り倒した(言うまでもなくそのなかに「子ども」はいない)。
 半左衛門は死体を鬼怒川に流し、家に帰ると手当をした後に状況を文にしたためて江戸に飛脚を送った。
 その後、死体は鬼怒川と砥川の合流点である「おどりだな」と言われたあたりに流れ着き、地元の人達によって埋葬された。この場所は洪水等で場所が不明となっており、現在ある十三塚はのちに再建されたものである。
 しかし、いくら罪人とはいえ13人もの命を奪ってしまった半左衛門は自らの罪深さを思い、日蓮宗に帰依し、その霊を弔おうとお題目の碑を建てることを思いついた。半左衛門は大きな玉石を見つけると、13人を斬り殺した場所に運んで、「南無妙法蓮華経」の7字のお題目を彫るよう石工に頼んだ。
 ところが、「南」の一字を彫り終えたところ、その石工は悪病に罹り死亡した。そのため、二人目の石工に続きを頼むと「無」の字を彫り終えた途端に急死ししてしまった。
 その後も同じようなことが続き、恐れを抱いた石工たちは字を彫ることを拒んだため、6つの字までしか彫られていない六題目の碑として現在に至る。

 どうだろう。
 こういった物語の史実を証明することは難しいが、この話の中では半左衛門は少々手荒いが正義漢である。六部の中に子どもはおらず、半左衛門は切腹などしておらず、自らが供養碑を建立しようとしている
 全員を斬り殺したということは、全員が何らかの武器を手にしていたということなのだろうか。なぜ六部達の検分をせずに遺体を鬼怒川に流してしまったのか、などの疑問は残るが、トータルで考えると、後者の星家に伝わる物語のほうは何となく話の辻褄が合っていると感じる。前者の物語内の「子ども」が何とか、「切腹」がどうの、というのは話をドラマティックに盛っているのではないかと考えてしまう。

 この2つの話の中で、前者の物語は「あの山この里 : 下野伝説集(小林友雄 著・月刊さつき研究社・1976)」「藤原町の民話と旧跡(藤原町・1981)」などの書籍となって出ているものなので、我々はそれを目にする機会も多いが、他方、後者の物語は星家に伝わるもので活字として目に触れる機会に乏しく、聞いたことがない方も多いのではないだろうか。
 一方の話だけではわからない、まるで違って見える側面があることに気付かされる一件であった。

 ただ、「一字を彫り終えると石工が亡くなる」というのは非常に不思議である。それが実際に起こることは極めて少ない確率だろう。
 お題目が彫られるはずの供養塔が、現実として最後の1字が彫られずに未完成なことに、どんな意味があるのだろうか。あるいはどんな想像が膨らむだろうか。


 ちなみにその未完成の「六題目の碑」は、ずっと彼の地に横たわったままで何百年かの星霜を経ていた。その碑の存在は忘れ去られ、誰もが、星家さえもその場所で何らかの供養をして来なかったという。
 現在の形のように、「六題目の碑」を見つけて岩の台上に設置したのは、川治温泉の柏屋旅館の片山氏である(現在は経営が変わり、「湯けむりの里 柏屋」となっている)。片山氏はどのような縁でこの供養塔を探し出して立派な設えにしようと考えたのだろうかぜひ知りたい。
 六題目の供養碑は、今では通りがかると何かしらのお供え物があったりして地元の方が供養をしていることが伝わる。

おしまい。

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