西澤金山を訪ねて(地域学習講座)

 旧日光市の戦場ヶ原と、旧栗山村の川俣を結ぶ山王林道の途中、深山幽谷の中に「西澤金山」の跡がある。
 大正年間の最盛期、西澤金山は約1,300人もの鉱山従事者やその家族が住み、病院や尋常高等小学校を備えた豊かで活気ある場所だった。
 この金鉱山は当時の殖産興業策の波に乗り、一時期は日本で1、2位を争う金の産出量を誇った。
 昭和47年(1972)には完全に廃坑となった西澤金山(昭和14年(1939)に休山していた)については、インターネットを検索すると結構多くのサイトがヒットし、ほぼ自然に還ってしまった金山跡地の写真を見ることができる。
 よって今回はそれらのサイトと少し角度を変え、現在の地図を利用して西澤金山を広い視点で眺めてみたいと思う。

 さて、例年、栗山公民館さんや栃木県立日光自然博物館さんが定期的に西澤金山跡を案内するツアーを開催してくれている。これは本当にありがたいことだ。前述の通り西澤金山の跡はもはや森であり、廃墟などの建造物は残っていない。素人が案内無しでここを訪れても、携帯電話は繋がらないし、ただ山中をあてもなくウロウロして帰る羽目になるだろう。数年前の僕がそうだったように。

 今回は栗山公民館さんの主催で、栗山郷史談会(くりやまふるさとしだんかい)さんのガイドで西澤金山跡を訪れた。
 たくさんの貴重な資料を見せていただき、またコピーもいただいたのだが、今後初めてこのツアーを利用する方々が新鮮な驚きを持って現地を訪れられるように、今回はその資料の写真は可能な限り掲載しないこととする。

西澤の上流

 まずは西沢を上流に進んでいく。温泉マークのあるあたりまで100mほど進むと滝があり、斜面を沢が流れている。

西澤金山の温泉
西澤金山の温泉の印(地理院地図を利用して作図)

 この滝の岩盤は、中央と左下で色が変わって見える。ここが鉱脈なのだそうだ。

 上流は白く軽い石が多い(浅学な為、岩石の名前は忘れてしまった)ため、削られた岩石のために沢の水は白く濁っている。

 すぐ横には、真っ赤な水が流れる小さな沢がある。

西澤金山温泉

 ここが今も地理院地図に温泉マークが描かれている「西澤金山温泉」である。周囲の沢の水が白く濁っているのに対してこの水はかなり赤く、鉄の匂いがする。
 触ってみると、「沢の水よりは少しはぬるい気がする」といった具合で、素っ裸で入浴したら風邪をひくだろうと思われる。

 さらに上流を辿ると沢は枝分かれし、沢に沿っていくつかの坑道の跡があるということだが、素人の我々がピクニック気分で辿れる道筋ではないため今回は訪れていない。

山神坑

 続いて向かったのは山神坑(さんじんこう)である。坑道の跡としては一番道路に近く見やすいところであるが、入口は破壊されて塞がっている。
 下図の緑の線は旧道で、今は新しい橋がかけられているため山神坑のあたりを通る人はいないだろう。
 山神坑の出入り口には橋が架けられ、眼の前を流れる湯沢の対岸にあった選鉱場までトロッコ列車で鉱石を運んだ。

山神坑
山神坑(地理院地図を利用して作図)
山神坑の入口
山神坑の入口
山神坑の入口から対岸を見る
山神坑の入口から対岸を見る
西澤金山の坑道入口
西澤金山の坑道入口

山神社

 西澤金山の山神社に向かう。神社の参道は取り付きこそわかりにくいが、その場所さえわかってしまえばあとはしっかりした道が伸びている。

西澤金山の山神社
西澤金山の山神社(地理院地図を利用して作図)

 神社は現在は倒壊してしまった。ほんの6年前までは神殿が残っていたのだが、いまはその礎石を残すのみである。しかしその周囲は平らに均され、石が積まれた境内の様子は変わらず神聖さを保っている。

西澤金山の山神社
西澤金山の山神社

 山神社の入口にあった対の狛犬は、今は野門の栗山東照宮に置かれているらしい。狛犬も寂しくなくてよいだろう。下の写真は狛犬が置かれていた台座である。

西澤金山 山神社の狛犬の台座
西澤金山 山神社の狛犬の台座
栗山東照宮の狛犬
栗山東照宮の狛犬
西澤金山山神社

小松峰

 鉱石、または生活必需品等の物資は、開山当初は人、または馬によって光徳牧場から戦場ヶ原を経る西澤金山専用道路によって運搬された。

西澤金山
西澤金山の鉱石が馬によって運搬されている

 後に、貨物輸送は西澤金山から小松峰に鉄索が架けられ、小松峰ー馬返間は駄馬や荷車によって運ばれ、馬返ー日光停車場間は日光電気軌道会社によって運搬された。
 鉄索はその後、裏男体の梵字を経て日光の安良沢まで延長された。この安良沢の貨物集積所となった場所には日光市民病院がある。病院のそばにはこの鉄索の基礎となった石が残っているらしい。

西澤金山と小松峰
西澤金山と小松峰(地理院地図を利用して作図)
西澤金山の小松峰
軌道のレールが残っている
西澤金山の小松峰
小松峰にはロープウェイの土台と思われる基礎部分が残る

 それらを動かす動力や鉱山敷地内の電灯などの電力は、明治42年(1909)、中禅寺湖畔の菖蒲ヶ浜に建設された発電所で発電された。当初123馬力だった電力はその後の大正5年(1916)、第二発電所が設けられたことにより700馬力を超えた。
 この発電所跡は、現在東京電力の菖蒲ヶ浜発電所となっている。

事務所

 以下の地図のあたりには、鉱山事務所、役員の住宅、学校が置かれた。
 地面は平らの段々状に造成されており、今でこそ森の中だが、当時は裸足でかけっこができそうな綺麗な土の地面に瀟洒な建物が建っていた。

鉱山事務所・役宅・学校跡
鉱山事務所・役宅・学校跡(地理院地図を利用して作図)
西澤金山
西澤金山事務所跡
西澤金山事務所跡
西澤金山の鉱業所事務所跡
西澤金山事務所跡

 「事務所跡」と書かれた杭があっても、ここに写真で見る大きく二階建ての建物が建っていたとはまったく信じられない。

西澤金山のの役宅用の土地
西澤金山事務所跡

私立西澤金山尋常高等小学校

 西澤金山には会社が経営した私立西澤金山尋常高等小学校が設立された。全盛期には児童115名に教師が4名(校長を含む)在籍した。

私立西澤金山尋常高等小学校
私立西澤金山尋常高等小学校
私立西澤金山尋常高等小学校
私立西澤金山尋常高等小学校

賄所、販売所の周辺

 敷地内には「旭屋」と呼ばれた飲食物の販売所や、賄い所も設けられていた。
 鉱山の衛生状態を保つために衛生夫が数人常置され、敷地内は清潔に保たれたことから、西澤金山では当時流行った伝染病もほとんど発生しなかった。
 また、敷地内に置かれた病院では薬代が免除されるなど、高度な福利厚生の制度が整っていた。

 下の写真は落ちていた「宝酒造株式会社」の焼酎の瓶である。調べた所、この瓶は昭和28年(1953)頃に販売されていたものであった。この他にも一升瓶などはゴロゴロと転がっている。
 西澤金山は昭和14年(1939)に休山となり、さらに昭和47年(1972)に完全に廃坑となった。そのことから考えると、これは砂防工事のために山中に設けられた飯場小屋にあったものあろうか。

宝酒造の瓶

 打ち捨てられた電気冷蔵庫。メーカーは「RICCAR」とある。リッカー社は日本の三大ミシンメーカーとして名を馳せた会社である。

RICCARの冷蔵庫

 西澤金山の鉱石について詳しく解説されているサイト「栃木県西沢金山の『ルビー・シルバー』 2017年10月」によると、このレンガ積みの不思議なものは「分銀炉」ではないかと書かれている。

西澤金山の分銀炉

なぜ「分銀炉」だと判断したかと言えば、一緒に鉱石を溶かす「坩堝(るつぼ)」と『灰吹き法』で金銀を分離する灰吹き皿(cupel:キューペル)が出土したからだ。

栃木県西沢金山の『ルビー・シルバー』 2017年10月

西澤山金山寺 

 1,300人もの人間が住んでいれば、当然事故や病気で亡くなる人もいる。当時の鉱山労働は命の危険にさらされることも多かっただろう。
 亡くなられた方たちは、西澤金山の外れにあった西澤山金山寺に葬られた。金山寺は日光市清滝にある日光山清瀧寺(天台宗)の末寺まつじである。

西澤山金山寺
西澤山金山寺(地理院地図を利用して作図)
西澤山金山寺

 現在は墓石が一つと塔婆、地蔵菩薩の石仏が置かれている。唯一置かれた墓石には「千葉トメ 同 正之墓」と刻まれており、背後には塔婆が置かれている。塔婆は清瀧寺のものである。

金山寺

西澤金山の発見

 今回のツアーの同行者の中に、日光市歴史民俗資料館の学芸員であられるS氏がおられた。S氏は僕も常日頃から何かわからないことがあると色々とご教授いただいている方で、たいへん心強い同行者である。
 今回S氏は、ツアーの昼食の時間を使って川俣に伝わる古文書の解説をしていただいた。古文書を前に「これは比較的読みやすい」と言えるのは本当に羨ましく思え候。

古文書の解説

 今回解説していただいた文書は、日光歴史民俗資料館蔵の「山口栄家文書No.254(弘化3年(1846))」ならびに「同No.251(弘化3年(1846))」、非常に達筆だが何がなんだかわからないお手紙である。
 この文書に、西澤金山の発見に関する通説を裏付けることが書かれていたのだ。

 254は、江戸在住の河野(こうの。書物によっては鴻野とも)傳右衛門から川俣村の役人・金左衛門、嘉右衛門、弥五右衛門に当てて書かれた書状である。
 手紙内で河野は、すでに許可された「鉛山門掘」の日程の延期を願い出ている。おそらく「金山」であることはわかっている河野が敢えて鉛山としているのが興味深い。河野は、鉛と偽って使用人に金を採掘させようとしていたのである。
 この地域は当時「日光神領」であり、幕府の所領であったため、一般人が金銀を採掘するなどという行為は固く禁じられていた。この試みはまもなく発覚し、河野の使用人は捕らえられて獄中死し、西澤金山は幕府に没収されて閉山となった。
 そのようにして忘れ去られていた西澤金山は、約50年後の明治26年(1893)、川俣村民による金を大量に含んだ露頭の発見により、再度日の目を見ることになった。


 以上、ざっとツアーの内容を振り返ってみた。冒頭で書いたように、西澤金山の詳しい歴史についてはいろんなサイトで紹介されているので、そちらを参照していただきたい。
 この場所のスケールの広さは、実際に訪れてみないとわからない。はっきりいって、拙サイトを含めたどんなサイトを拝見しても、約90年前の繁栄した頃と現在のギャップを表現できているものはない。そこには大きな街があって、老若男女が暮らし、様々なドラマがあり、人が生まれ、あるいは死んだ。当地を訪れてみないと、写真と文章だけでは、かすかに残るその名残に触れることはできないのだ。
 「見渡す限り山」という奥地から切り出された鉱石が、馬、軌道、鉄道を使って茨城県日立市や兵庫県、そして日光市の東武ワールドスクウェアの場所まで運ばれて精錬された。
 日光停車場(日光駅)まで送られた鉱石が「なぜ東武ワールドスクウェアに!?」と思う方も多いだろう。そう、はっきりいって全然近くない。
 このことについては現在執筆中である「東武鉄道鬼怒川線の廃駅」でご紹介できればと思う。

 このような有意義なツアーが無料で開催していただけることは本当にありがたいことです。栗山郷史談会、栗山公民館の皆様、たいへんお世話になりました。

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