会津西街道の一里塚を探す (2)

 前回までで、旧・会津西街道にあった一里塚と推定される場所を訪ねてみた。今回はその旧・会津西街道の中でも難所と言われた現在の鶏頂開拓に向かい、五十里から三依・横川に向かってみる。

6. 藤原ー弐ツ屋

一里塚の記載概要
天保国絵図なし
下野一国あり藤原村中より13町10間目(1436m)にたいこをろし橋があり、その橋より2町30間(273m)登って壱里山。そこから16町40間目(1818m)は弐ツ屋村

 「藤原村中より13町10間目(1436m)にたいこおろし橋があり、その橋より2町30間(273m)登って壱里山。そこから16町40間目(1818m)は弐ツ屋村」とある。つづら折れのもみじライン(日塩道路)の車道の形状をみるとわかるようにこの場所はかなりの急勾配である。
 「たいこをろし橋」とはおそらく「太閤おろし橋」のことで、太閤おろしの滝から少し下流に架けられていた橋なのだろう。下野一国にはこの橋は「長さ8間(14.6m)、広さ1間(1.8m)」とあるのである程度のしっかりした橋であったと思われる。
 旧道はこの崖のような所をほぼ直登しており、その先に一里塚があったようである。ただし天保国絵図には塚の記載はない。
 このような急坂で森林のような場所にどのような形態の塚、ないし目印になるようなものがあったのかは想像がつかない。
 ただ、近くの大岩の上には嘉永3年(1850)に藤原宿の世話人が建立した馬頭観音の石碑がある。この大岩は、もともとは地続きになっていたものがもみじラインを造るときに掘割のような形に削られてこのようになったと思われる。もしかすると一里塚はこのあたりを指しているのかもしれない。
 
 弐ツ屋村は近世の藤原村の枝郷で、2軒の家(幕末には3軒)があった。近代になってから大下(おおげ)村と呼ばれるようになり、戦前には鉱夫の飯場があり、昭和30年代までは住人がいたという。

弐ツ屋ー高原新田宿間の一里塚(推定。地理院地図を利用して作図)
もみじラインで一里塚と推定される場所
もみじラインで一里塚と推定される場所
もみじラインの岩の上の馬頭観音
もみじライン・岩の上の馬頭観音

7. 弐ツ屋ー高原新田

一里塚の記載概要
天保国絵図あり両塚あり
下野一国あり弐ツ屋村より10町30間目(1145m)に壱里山。そこから29町30間目(3218m)は塩原湯本への追分

 「弐ツ屋村より10町30間目(1145m)に壱里山。そこから29町30間目(3218m)は塩原湯本への追分」とある。弐ツ屋からの距離で推定すると、「川治分去れかわじわかされ」と呼ばれる麓の川治温泉からの道と出合ったさらに先に一里塚があるとされている。

弐ツ屋の一里塚(推定)
弐ツ屋の一里塚(推定)

 この一里塚とされる場所と思われるのは、高さ3mほどもある大岩の上に置かれた供養塔である。安永2年(1773)に建立されたこの供養塔は、高原新田宿にあった湯泉寺の名が見られ、このあたりが高原新田宿の村はずれであった。

高原新田宿の供養塔
高原新田宿の供養塔

「十二天尊當村湯泉寺 奉建立供養塔 現世安穏後生佛與自他法界等」
「為往来人馬安全也」
と読むことができる。

高原新田宿の供養塔
高原新田宿の供養塔

 すぐそばには宝暦14年(1764)6月に建立された馬頭観音がある。「高原村中 施主 香取五兵衛」と銘があり、これは高原新田宿の祖である香取家によって造られたものである。石仏の足元には湧き水が流れており、「五兵衛清水」と呼ばれている。

高原村中 施主 香取五兵衛
高原村中 施主 香取五兵衛

8. 高原新田ー五十里(1)

一里塚の記載概要
天保国絵図あり両塚あり
下野一国あり追分より6町30間目(709m)に壱里山

 さらに登っていくとまもなく高原新田宿の中心地に入る。
 短い高原新田宿を過ぎ平坦な道を進むと「塩原湯本への追分」の道標である宝永四年銘道標(宝永4年1707)、西国供養塔道標(文化2年1805)がある。
 下野一国には「追分より6町30間目(709m)に壱里山」とある。

宝永四年銘道標(宝永4年1707)、西国供養塔道標(文化2年1805)
追分にある宝永四年銘道標(宝永4年1707)、西国供養塔道標(文化2年1805)

 追分の道標から右に伸びる未舗装の道は、旧・湯本塩原村(那須塩原市湯本塩原)に伸びる新湯道(塩原道)である。新湯道は昭和30年代までは雪かきが容易にできるように一段高く盛り土されていたという。

宝永四年銘道標(宝永4年1707)、西国供養塔道標(文化2年1805)
宝永四年銘道標(宝永4年1707)、西国供養塔道標(文化2年1805)

 天保国絵図には追分より五十里宿側と塩原湯本側のどちらにも一里塚が記されているが、あまりにも大雑把な地図の上、これより先の鶏頂開拓地は区画整理のため旧道は残っていない。これでは場所の特定は難しい。現在、推定される一里塚があった場所はたくさんのビニールハウスが整然と並んでおり、旧道の名残はまったくない。うわさでは、この消滅した旧道に地蔵があり、その地蔵は今もあるお宅の軒先に置かれているという話を聞いたことがあるが、一里塚との関係は不明である。
 湯本塩原村の追分よりまっすぐ北に伸びる現道を進むと「法華題目塔道標(万治3年1660)」がある。この道標がもとはどこにあったのかは定かではないが、推定される旧道のどこかにあったのであろう。

法華題目道標
法華題目塔道標(万治3年1660)

9. 高原新田ー五十里(2)

一里塚の記載概要
天保国絵図あり両塚あり
下野一国なし
天保国絵図
高原新田と五十里境界の一里塚
高原新田と五十里境界の一里塚

 上図で、矢印が指す点が天保国絵図の一里塚だ。これまたあまりに大雑把な地図であるためここから場所を推定することは非常に困難である。図によると高原新田の追分の一里塚と五十里村の一里塚の真ん中あたりに存在していたらしい。
 ただし、この一里塚と前の一里塚の距離が1.5kmほどしか離れていないのは少々不思議である。これは、宇都宮藩領であった高原新田村までは南側の宇都宮を起点として一里塚が設けられたのに対して、会津藩領となる五十里村は北側の会津若松を起点として一里塚が設けられたため、境界でこのような中途半端な距離ができてしまったのだろうか。謎である。

 調べたところ、高原地内と五十里地内の境界に、享保年間(1716-1736)に建てられた南無阿弥陀仏供養塔があるという。これは南会津郡にあった中荒井村の市郎兵衛によって建てられたもので、中新井村の村人がこのあたりで行き倒れて死亡したときに、南山蔵入領として会津藩(時代によっては幕府)の支配を受けていた五十里村と、宇都宮藩の高原新田村の境界争いに発展したが、その結果を受けて確定した境界の場所に置かれた供養塔である。
 郷土史家の間ではこの地点が一里塚があった場所だと言われている。
 しかしこれがどんなに頑張っても見つけられない。地形図を見るとわかるように、なだらかな傾斜の森林はどこでも歩くことが出来るため、踏み跡、獣道を含めあちらこちらに道形らしきものが残っている。
 推定される場所をくまなく歩いたGPSが以下である。熊のものと思われる大きな糞(両掌ですくえるくらいのサイズ)がそこかしこに落ちている無人の森林を歩くのは気持ちの良いものではない。
(追記: 令和6年10月29日、僕が正にこの山中を訪れた1週間後に、猟師が熊に襲われた。もうしばらくはここを一人でうろつくのはやめよう。
引用:とちぎテレビ公式サイトより
「29日午前7時30分ごろ、日光市五十里の山林で自身が仕掛けていたシカ用のわなの確認に訪れていた市内の猟友会のメンバーで65歳の無職の男性がクマに襲われました。 今市警察署によりますと、男性はクマに遭遇した際、わなにかかった獲物を仕留めるために持っていた猟銃をクマに向かって1発発砲しましたが、クマは逃げずに男性に襲いかかり左足や右手首を咬んだということです。男性がさらに2発発砲するとクマはひるみ左足から離れたため男性はその場を離れ、近くに停めた車を運転し自力で自宅に戻ったということです。 その後、男性は119番通報して、病院で治療を受け、けがはかまれた左足や右手首のほか額や右肩にもクマの爪によるものとみられる擦り傷が確認されましたが、命に別条はないということです。 男性の親族の話によりますと、男性はシカが出たことを聞いて1人で山林を訪れ見回りをしていたときにクマが目の前から現れて覆いかぶさったということです。クマは、大きさが不明の親子とみられる2頭で28日の雨で地面がぬかるみクマの近づく音が聞こえなかったと話していたということです。」)

川治温泉の高原から川治分去れに至り、五十里湖まで降りる旧道。
川治温泉の高原から川治分去れに至り、五十里湖まで降りる旧道
供養塔がどうしても見つからなかったため、翌週に再チャレンジ。
供養塔がどうしても見つからなかったため、翌週に再チャレンジ。しかし失敗。

 そんなわけで、供養塔は写真に収めることはできなかった。どなたか情報をお持ちならぜひ教えていただきたい。

(2025/05/17追記)
ようやくこの南無阿弥陀仏供養塔を発見することができた。詳細は以下の記事に。
会津西街道の一里塚を探す(3)

 さて、高原新田と五十里の境界を過ぎると会津藩領となるため、「下野一国」にはこれより先の記載はない。
 ここからはちょっぴりアバウトな天保国絵図の絵図によって一里塚を推察する他ない。

10. 高原新田ー五十里(3)

一里塚の記載概要
天保国絵図あり左側に塚あり
下野一国なし

 天保国絵図には五十里村の手前に片側だけ一里塚があることがわかる。

 ここで不思議なことは、天保国絵図になぜか「五十里湖が描かれている」ということだ。五十里湖は天和3年(1683)9月1日に日光・藤原・南会津地方を襲った起こった大地震により、葛老山が土砂崩れを起こして男鹿川の流れを堰き止め、天然のダムとなったものだ。
 その40年後の享保8年(1723)8月10日、その一帯を襲った暴風により五十里湖の水位が著しく上昇、そして決壊した。天保国絵図は天保6年(1835)にその作成が命じられ、同9年(1838年)に完成したものであるため、すでに100年以上も前に五十里湖は無かったことになるし、五十里村は旧地に戻っていたはずである。しかしこの絵の五十里村は左岸にあるため、どうみてもいわゆる「上の屋敷」の場所である。
 天保国絵図に描かれた五十里湖は「昔はこうだったみたい」という想像で書かれたものではないだろうか。

 五十里の一里塚は旧高原新田宿跡に向かう旧会津西街道の山中にある。五十里湖の東側を通る国道121号線に、上下線がそれぞれ分離した片足沢橋があるが、そこから150mほど藤原方面に行くと旧・会津西街道が山の中を高原新田宿に向かって伸びている。
 山中に入って50mほどに庚申塔があるが、郷土史家の間ではこの庚申塔が一里塚で確定とされている。

五十里の一里塚
五十里の一里塚
五十里の一里塚

11. 五十里ー独鈷沢

一里塚の記載概要
天保国絵図なし
下野一国なし

 独鈷沢の一里塚はどの文献にも見つけられないが、地元郷土史家の間では以前、そば店「もくりん」があった石木戸、鬼怒木きぬもくと言われるあたりに一里塚が存在していたらしいと言われている。
 推定地点の前後1kmあまりを歩いてみたが、山側は植林が進んでおり、その痕跡は全く見つけられない。このあたりは道形こそ変わっていないがクルマを通すために拡幅工事が成されているため、一里塚があったとしても削られてしまったのかもしれない。
 五十里の一里塚からこの場所までの道は現在は湖底のため正確な距離を測ることはできないが、概算で約3km、次の中三依の一里塚まではちょうど4kmの距離にある。

独鈷沢の一里塚
独鈷沢の一里塚があったらしい場所

12. 独鈷沢ー中三依

一里塚の記載概要
天保国絵図あり両塚あり
下野一国なし

 天保国絵図を見ると、独鈷山村から中三依に入ったところで道が別れ、片方は芹沢村に向かっている。この道は芹沢から湯坂峠を越えて湯西川へと続いていく。
 会津西街道を先に進むとすぐに男鹿川を渡る。中三依橋のすぐ右手に見える古い橋が昔の道である。この先に一里塚の印がある。

 この場所は早山電気商会の前にある石仏群の場所と言われている。

中三依の一里塚

13. 上三依

一里塚の記載概要
天保国絵図あり両塚あり
下野一国なし


 上三依の一里塚は上三依水生植物園の裏手を通る旧会津西街道にしっかりと残っている。寛文7年(1667)、会津藩によって造成されたものである。

上三依の一里塚

14. 横川

 まもなく福島県境となる山王峠が近づいてくると、栃木県側の最後の一里塚である「横川一里塚」がある。
 塚は西側(福島方面に向かって左側)のみ現存している。

横川の一里塚

 さて、ここまで栃木県側にある旧会津西街道の一里塚と思われる場所を訪ねてきた。
 今市に住む僕の感覚では、一里塚とは文字通り「塚の形態をした大木が植えてある立派なもの」と思っていた。しかしここまで尋ねた一里塚はそのような土が高く盛られた立派なものだけではなく、平らなところに樹木が植えてあったり、石仏が一里塚とされている所もあったことがわかった。
 考えてみれば、主要な五街道の一つで、幕府が整備した日光街道とその他の街道では塚の規模が違うのは当然であるし、特に山岳を通る街道では森の中に塚を盛って樹木を植えるよりは、庚申塚や馬頭観音等の人工物の方が目印として適していたということもあるかもしれない。

 章の冒頭にお断りしたように、これらの推定の一里塚の場所は「郷土史家の中ではそう言われている物」や、あくまで素人の僕の推定であり、根拠に乏しい。今後とも調査を続けていきたいと思っている。

 次は、天保国絵図に見ることが出来る日光市内の一里塚の跡を調べてみたい。

コメント

  1. 和田基由 より:

    今市から、栗山までの旧街道に一里塚があると思うと思いますが、いままで投稿されていません、たぶんですが一里塚かと思うのですが、片方しかありません。確認して頂けないでしょうか。

    • yocosmos yocosmos より:

      確かに「下野一国」を見ると、
      神橋から小百、黒部、土呂部、湯西川を経て、芹沢から三依に至る道程と、いくつかの一里塚が記されているのは確認してできています。
      今はまだそこまでしか情報がありませんが、いつか必ず、このことを調べたいと思っています。

      もし何か情報をお持ちでしたら是非お知らせください。

      • 和田基由 より:

        後で、詳しい場所を確認して来ます。

        • yocosmos yocosmos より:

          今市から小百経由・栗山村周辺で、判明している一里塚を私は一つも知らないので、とても楽しみにしています。よろしくお願いいたします。

  2. 和田基由 より:

    県道245号線の明静寺から小百に向かって右の高台に家があり道路からは見えませんがその家の直ぐ横から山へ入ります。掘割の道らしい所を上がって行くと右にあります。多分ですがそこが一里塚と思います。出来れば確認して頂けますか。左は平らなので多分畑だつたと思います。

    • yocosmos yocosmos より:

      ありがとうございます。
      「右の高台に家」とは、
      こちらのことでしょうか。
      さらに、
      この道を瀬尾から小百に向かったとすると、「家の直ぐ横から山へ入」るということは、右手の毘沙門山方面に登っていくということでしょうか?

  3. 和田基由 より:

    会津西街道の弐ッ屋村は川の左にあったのですが、右には墓がありますが、墓のある所は村跡ですか。教えてください。

    • yocosmos yocosmos より:

      藤原から高原新田に向かうのであれば、弐ツ屋村の墓石群は野沢を渡る手前の南側、もっと言えば南東の高台にありますね。三軒分の墓石群が、少しの距離を置いて点在しています。
      村跡は野沢を渡ったさらに先です。
      ここは先日歩きましたので、後ほどアップしたいと思います。

  4. 和田基由 より:

    高台の家の左にある杉林です。この間、わたしも車で弐ッ屋村跡へ行って来ました。そこから西街道を初めて歩きました。昔の人は凄いと感心するばかりです。歩いて初めて分かりますね。

    • yocosmos yocosmos より:

      場所を少し具体的に確認させてください。

      明静寺の前の道を、小百方面に進みます。
      右手に「高台の家」が見えてきますが、さらに道なりに先に進みます。
      100mほど進むと道が「分岐」し、右手(ほぼ直進)が現道、左折はほぼだれも通らない旧道になります。
      この、「高台の家」から「分岐」の100mの間にある、左手側の杉林のなかで間違いないでしょうか。

      本日、手が空いたら行ってみたいと思いますが、今市宿高札場であった滝尾神社からの距離が3kmほどしか無いことが気にかかります。

  5. 和田基由 より:

    そこです、少し先に分校跡がありますが、ご存じでしょうか、そこから林道を登って反対からも行けます。

    • yocosmos yocosmos より:

      本日、ランニングついでに場所を見てきました。
      私は以下リンクの緑の場所を探しましたが、どうにもそれらしきものが見つかりませんでした。

      瀬尾地図

      しかし、「分校跡」と聞いてピンと来たのですが、この地図の赤の場所を指しておられますか?

  6. 和田基由 より:

    大きい盛り土はありませんでしたか。いつも見る一里塚と思ったのですが違いましたか。いままで、80里越えを全行程は出来ませんでしたが県境まで歩きました。家内と同行の為、家内は興味ないので途中で戻りました。今度車ではなく歩いて会津西街道を歩いて見たいです。

  7. 和田基由 より:

    赤い場所の右辺りかと思います。無かったですか?

  8. 和田基由 より:

    雪が降る前に会津西街道を歩きましたが、私の先を誰か歩いた形跡がありましたが、もしかしたら日光所記様ではなかったですか。ところで五兵衛清水の先に広い所が有りますが、昔なにがあったのでしょうか。その先につづらおりに道らしい所が有りますが、そこが会津西街道ですか?

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