さて前回まで日光市の10個(とおまけの1個)の一里塚を訪ねてみたが、気になるのは会津西街道には大桑~上三依間の約40km(現代の道路による距離)に渡り、一里塚が全く無いことである。会津西街道の日光市側で現在確認されている一里塚は3個(推定大桑、上三依、横川)しかない。
これには、会津西街道は地震によってできた自然湖である五十里湖の出現や決壊、今は廃道となっている高原新田宿周辺の道、何度か場所を変えた大桑~高徳間の鬼怒川渡河の位置などが関係していると思われる。
今回はそれらの不明となってしまった一里塚の場所を訪ねたいと思う。今回は全2話中の1話目である。

下野一国・天保国絵図・新編会津風土記
「栃木県歴史の道調査報告書第3集 会津西街道、会津中街道、大田原通会津道、原街道(原方道) 、足尾道(栃木県教育委員会事務局文化財課 2015年3月)(以下”栃木県歴史の道3”)」によると、会津西街道の一里塚について確認できる史料は下野一国・天保国絵図・新編会津風土記があると書かれている。
- 「下野一国」
慶安4年(1651)宇都宮藩による編纂。文字と数字によって一里塚や村の距離が書かれている。 - 「天保国絵図」
天保9年(1838)江戸幕府による編纂。絵図によって描かれているが、距離は書かれていない。 - 「新編会津風土記」
文化6年(1809)会津藩による編纂で全120巻からなる会津領内の地誌。
この中で、「天保国絵図」は国立国会図書館デジタルアーカイブで見ることができるが、その案内には「街道を挟む形で描かれている黒丸は一里塚の表示です」と書かれている。

ただ残念なことに、この天保国絵図には会津西街道のうち今市ー倉ケ崎ー大桑ー高徳間の道が描かれていない。
よく見ると塩野室の一里塚、大渡の一里塚が描かれているのが興味深いが、これはいったん置いておき、次回調べてみることにしよう。

「下野一国」は栃木県立図書館に所蔵され、読みやすく現代の活字で印刷されたものを見ることができる。
さて、これらの史料を総合すると、「今市宿」から栃木県と福島県の県境である「山王峠」の間、すなわち現在の日光市内の会津西街道に一里塚は14個あったことになる。
これを引用しておおよその一里塚の場所を推定してみよう。可能な限り、歩けるところは歩いてGPSで距離を測ってみる。
いくつかの一里塚の場所はあくまで素人の推定なので、あてにしないように。
以下、文中の太字はすべて「栃木県歴史の道3」からの引用である。地図は地理院地図を利用して作図した。
1. 今市ー大桑 大桑一里塚(推定)

| 一里塚の記載 | 概要 | |
| 天保国絵図 | なし | |
| 下野一国 | あり | 大谷橋より16町目(1745m)に一里山あり |
那須郡高林村出身の郷土史家、田代善吉氏が紹介したこの大桑の一里塚は非常に謎である。これは一見、訪れた人の誰が見ても文句なしの一里塚に見える。前回の記事「日光市の一里塚」から再掲すると、
今市町より大桑に至る。大桑に一里塚がある。塚は右手にあって、塚の上に周囲7尺位の杉1本生えている。左側に塚はない。されど高さ約3、4尺、周囲5、6尺の庚申塚3個ほどあって一里塚とは思われない。里人は一里塚と称している。或いは左側のものは、一里を崩し庚申塚となしたるものにあらざるか疑問として置く。
栃木縣史第二巻 交通編(著者:田代善吉 昭和47年(1972))
とされていれる。「地元の人は一里塚と言っているけれど、たぶん庚申塚なんじゃないの」というニュアンスである。
しかし、慶安4年(1651)に宇都宮藩が作成した「下野一国」によると、大桑周辺に存在していた一里塚の場所はこことは全く別の場所であり、「今市町札場から6町40間(728m)長さ5間(9m)の大谷橋から16町目(1745m)に一里塚。
そこから28町5間(3063m)に大桑村」とある。
これは「推定・大桑一里塚」の場所とは大きな隔たりがある。
もしも「下野一国」の記述が正しいと仮定して地図を見直してみると、一里塚はもっと今市寄り、いわゆる旧・会津西街道の栃木スバル自動車株式会社 日光店の裏手にある「権現塚」の周辺になる。
これを図表に表すと以下のようになる(下図で、緑線は明治の改修以前の旧・会津西街道)。
| 下野一国の記述 | 大桑一里塚 | 権現塚 | |
| 大谷橋から塚までの距離 | 約1745m | 約4000m | 約1700m |
| 塚から大桑宿までの距離 | 約3063m | 約700m | 約3000m |


ちなみに以前、この権現塚の周辺で会津西街道について地元の方に話を伺った時に、「昔は権現塚の近くに塚があって、戊辰戦争の時の死者が埋まっているという話を聞いたことがある。数十年前に重機でそれを崩して平らにしたが、みんなハラハラして作業を見守っていたけれど、結局何も出なかった」という話が聞けた。
「塚」である。
だからといって、この権現塚が「一里塚である!」とするには全く根拠が少なすぎるし、さらに下野一国の記述と、多くの郷土史家が書いた資料に載っている推定大桑一里塚のどちらに誤りがあるのかは僕には判断できないが、ただ「下野一国を参照するならば一里塚はこのあたり」になる。なんとなくロマンを感じて面白い。
これは明治期にこの周辺は大きく道が改修されていることもあってなかなか確定されないのかもしれない。
もしも権現塚の場所に一里塚があったのなら、そこが「倉ケ崎の一里塚」、後述する不明の一里塚が「大桑の一里塚」と呼称されることになると思うが、下野一国には塚までの距離は文字で記されているのみで一里塚の名前や所在地までは記されていないし、天保国絵図には塚の記載はない。
2. 大桑ー高徳(1)
| 一里塚の記載 | 概要 | |
| 天保国絵図 | なし | |
| 下野一国 | あり | 大桑村中より7町50間目(855m)に一里山あり |
大桑-高徳の一里塚についてはやはり下野一国に記載がある。
当時の大桑から高徳に抜ける道は現在とは全く違う。大桑ー高徳間に中岩橋が架けられたのは幕末の文久3年(1863)の栃久保新道開削の時と同時であり、それ以前は大桑から鬼怒川カントリークラブの辺りを渡し船で渡河していた。

鬼怒川の渡河の位置は、享保8年(1723)の五十里湖決壊などにより位置が変わっており、下野一国が書かれた慶安4年(1651)の頃は初代の大桑の並木寄進碑(現在のものは3代目とされる)が建てられていた石塔島を渡っていたとされるが、川室の高尾神社から先から鬼怒川に至る道は未だ特定されておらず推定である。
以下の図がそれにあたる。一里塚があったらしい場所も書き込んでみたが、訪れてみると「古そうな道だね」というだけでなんの痕跡もみつからない。
また、下野一国によると大桑村中より鬼怒川までの距離は約2300mであるが、現在の大桑から推定の旧道を通った距離を測ってみると、約2100mほどであった。


3. 大桑ー高徳(2)
| 一里塚の記載 | 概要 | |
| 天保国絵図 | あり | 両塚あり |
| 下野一国 | あり | 衣川より2町目(218m)に壱里山、そこから16町14間目(1771m)は高徳村 |
大桑ー高徳間にはもう一つ一里塚についての記載があり、「衣川より2町目(218m)に壱里山、そこから16町14間目(1771m)は高徳村」となっている。

大桑から鬼怒川を渡河した渡し船の船着き場(想定)から高徳村の高徳寺(こうとくじ)あたりまではおよそ2kmで、記述とほぼ一致している。これから想定される一里塚は以下のどちらか周辺である。

天保国絵図にも高徳村の手前に一里塚が描かれており、天保9年(1838)の時点では両塚が存在していたことがわかる。
他にも「宇都宮領神徳次郎町中ヨリ奥州之内五拾里村へ出ル道法」にも鬼怒川を渡河した先の2町(218m)に壱里山ありと書かれている。

4. 高徳ー大原
| 一里塚の記載 | 概要 | |
| 天保国絵図 | あり | 両塚あり |
| 下野一国 | あり | 高徳村中より13町30間(1473m)に小門沢、その沢より5町30間目(600m)に壱里山 |
高徳ー大原間には「高徳村中より13町30間(1473m)に小門沢、その沢より5町30間目(600m)に壱里山」とある。天保国絵図にも大原村の手前に両塚が存在していたことが記されている。

この距離から想像できる一里塚の位置は小佐越駅の手前である。小門沢という沢は手を尽くしても特定できず、東武鉄道の線路と住宅地の間を通る細い道にはもちろん一里塚の痕跡はみつからない。
ちなみに「小佐越駅」とあるが、字小佐越は鬼怒川を挟んで対岸にある。ここの字名は大原である。

可能性としては、この辺りより400mばかり先には江戸期に立場を営んでいた竹末家があり、その敷地内にあった「立場の松」が挙げられる。立場の松は樹齢450年を超える松の古木であったが、残念なことにここ数年の間に枯死のため伐採されてしまった。「昔はこのように一定間隔で松などが植えられ、旅人の旅程や運賃などの目安になった」という話も伝わっている。
道を挟んだ竹末家の庭にも大きな松があり、さらには今駐車場になっているあたりにも以前は松の古木があったという。壱里山はもしかするとここを指しているのかもしれない。

Googleマップを遡ると、2018年にはこの巨大な松の姿を見ることが出来る。

5. 大原ー藤原
| 一里塚の記載 | 概要 | |
| 天保国絵図 | あり | 両塚あり |
| 下野一国 | あり | 大原村中より6町目(655m)に竹之沢、そこから7町50間(855m)に小原沢、壱里山あり |
「大原村中より6町目(655m)に竹之沢、そこから7町50間(855m)に小原沢、壱里山あり」とある。しかし大原村の名主であった大島家から小原沢までは2500m弱あり、655m+855m=約1500mとされた下野一国の記述とは距離がまったく合っていない。


ただ、一里塚は小原沢にあったことが記されている。天保国絵図にも藤原村の手前に両塚が存在していたことが記されている。ちなみに「立場の松」から「帝釈堂」までの距離は4.2kmであり、距離的には一里塚に相応しい。

他には鬼怒川小学校裏にある「弾除けの松」も一里塚の候補に上がるかもしれない。鬼怒川小学校の裏手にある弾除けの松は、戊辰戦争の藤原の戦いの時、鬼怒川対岸の佐賀藩陣地から発射されるアームストロング砲の弾から会津藩が身を守ったと言われる樹齢400年の松の大木があった。しかしこれは平成8年(1996)の台風で倒れてしまったため、現在の松は2代目のものである。傍らには会津藩兵が感謝のために安置した地蔵が置かれている。

さて、ここまでで比較的容易に観察できる一里塚の跡と思われる場所を辿ってみた。次回は旧会津西街道の中でも最も険しい鶏頂開拓方面に分け入ってみる。

コメント