
旅立ちは今も昔も日本橋
令和8年2月15日、下今市駅7:02発車の東武鉄道特急スペーシアに乗り込み日本橋を目指す。
順調に乗り換えも済み、9:29、いよいよ日本橋を出発。

日本橋
日本橋は徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)に日本橋川に初めて架けられたと言われている。江戸時代には荷船や客船がたくさん通り、橋の北側には魚市場、南側には高札場と罪人の晒し場があった。
「日本橋」の橋名板は徳川慶喜の揮毫によるものである。

橋の中央にある日本国道路元標を起点とし、南に進むと程なく銀座に入る。今日は日曜日だがまだ店が開いていないためご覧の通り人通りはあまりない。きらびやかな町並み、高価そうな外国車や旧車が目を楽しませてくれる。

高輪大木戸跡
高輪の大木戸跡。宝永7年(1710)に設置され、午前6時に開門、午後6時に閉門となった。
京登り、伊勢参りの送迎はこの場所で行われ、付近にはそれらの客を見込んだ茶屋が立ち並んだ。

江戸時代後期に木戸が廃止されたため、高輪が描かれた浮世絵等には石垣のみが描かれている。それらの絵を見るとこの石垣のすぐ横(現・高輪ゲートウェイ辺り)はもう海だったこともわかる。
伊能忠敬は測量の際、この木戸を起点とした。

泉岳寺
泉岳寺に寄り道する。播州(播磨国、現在の兵庫県南西部)赤穂藩主・浅野家の菩提寺であり、元禄15年(1702)に主君・浅野内匠頭の敵である吉良義央を討ち取った、いわゆる「忠臣蔵」の旧赤穂藩士47名の義士の墓がある。

吉良義央邸に討ち入りを果たし、その首級を主の墓前に捧げる前に洗ったと言われる「首洗い井戸」。

品川宿
品川宿に入る。旧東海道の道幅は、幕府の規定で宿内は6間(約10.8m)とされていたが、一般道は並木敷などを整備すると2〜3間(約3.6〜5.4m)程度しかなかった。
そのためこの現代でも旧東海道は江戸から京都まで道幅が狭く、ご覧の通りクルマ同士がようやくすれ違えるほどの道幅しか無い。

鈴ヶ森刑場跡
鈴ヶ森刑場跡に着く。慶安4年(1651)に設置された仕置場で、日光街道沿いの南千住にある「小塚原刑場跡」と並ぶ処刑場跡である。220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われ、今も磔刑や火炙り刑に使用した柱の礎石、井戸や供養塔が残っている。
敷地は当時ほどの広さはないが、隣接する大経寺の境内となっている。


大森の一里塚
日本橋から1里目の一里塚は金杉橋周辺、2里目は品川宿本陣のあたりにあったとされているが場所は未確定だそうだ。
この3里目の大森一里塚は確定されているが、数年前にあった解説板は撤去されている。写真中央の茶色の建物の前に赤コーンで囲われた街路樹があるが、ここに立て看板が設置されていたらしい。

六郷の一里塚
天保7年(1836)に書かれた江戸名所図会には六郷神社の脇参道に一里塚と高札場が描かれている。写真の場所がそのあたりになるが、何の痕跡も碑もない。
江戸より4里目の一里塚があった場所である。

六郷の渡し
程なく多摩川(このあたりでは六郷川と呼ぶ)にぶつかる。
江戸時代、家康が架けた六郷大橋は幾度となく洪水で流され、貞享5年(1688)7月の大洪水による大橋の流失をきっかけに幕府は架橋をあきらめた。以後実に約200年の間、渡し船での渡河となった。船賃は一人6文。
明治元年(1868)の明治天皇の渡御の際には23艘の舟を繋いだ舟橋が架けられた。


橋を渡るとそこは神奈川県川崎市である。
川崎宿
川崎宿に入る。川崎宿は江戸に近いために宿泊する客は殆どおらず、素通りするばかりであった。
本陣は3軒あり、一番江戸に近い側を田中家が務めた。各宿の本陣は旅籠とは違い、大名や幕府の役人・勅使などの武士階級専門の宿であり、本陣の主の一家が住む家であると同時に、一般の家には許されなかった門や玄関構え、上段の間を備えた書院造りなどが認められ、建物の改築や修繕には幕府や諸大名の助成があり、半官半民の運営が成された。
しかし時代が下るにつれ、幕府や諸大名の財政難などから荒廃するところも多かった。

市場の一里塚
江戸より5番目の一里塚。ようやく「一里塚跡の史跡」と言えるような場所である。
明治5年(1872)地租改正により払い下げられ、南側の塚が現存している。石碑には「武州(武蔵国)橘樹郡市場村一里塚」とあり、昭和8年(1933)に建てられたものである。
江戸時代には榎が植えられていたが、現在は塚上に稲荷社が置かれている。

八丁畷の供養塔
京急本線八丁畷駅のそばに人骨慰霊碑がある。
旧東海道は川崎宿の京都側の出入り口から西へ8丁(約870m)に渡って畷と呼ばれる道が田畑の間を通っていた。この辺りは江戸時代から人骨が多数発見され、昭和になっても道路工事などで十数体もの遺骨が掘り出された。川崎宿は複数回の飢饉や天災で多数の死者を出したが、その中でも身元不明の遺体を宿外れの並木に埋葬したと考えられている。
その霊を供養するため昭和9年(1934)、周辺の住民によってこの供養塔が建てられた。

生麦事件 発生現場と生麦事件碑
文久2年(1862)8月、江戸から京都に向かう薩摩藩主・島津茂久の実父である島津久光の一行約400人の行列が武州橘樹郡生麦村を通ったとき、横浜から川崎大師に向かって馬の遠乗りを楽しむイギリス人4人(内一人は女性)と遭遇した。イギリス人たちは大名行列と遭遇した際の勝手がわからず、馬から降りずに列に乗り入れてしまった為、激昂した薩摩藩士・奈良原喜左衛門ら複数が斬りかかった。4人は斬りつけられながらももと来た横浜居留地方面に逃げたが、腹部に深い傷を負って落馬したリチャードソンは800mほど先で追いつかれ、海江田信義によって殺害(介錯)され、重症を負った2人と、残る女性一人は帽子と髪が斬られただけで横浜居留地に逃げ延びた。
イギリスは幕府と薩摩藩にそれぞれ多額の賠償金と実行犯の処刑を求めたが、薩摩藩はこれらを拒絶。賠償問題のこじれから薩英戦争へと発展してしまうが、イギリスの近代兵器の前に敗れた薩摩藩は攘夷の実行は不可能と悟り、倒幕・開国へと方針を転換していった。
生麦小学校そばの事件発生現場にはその解説板が、そして殺害された現場には生麦事件碑がある。

子安の一里塚跡
江戸より6里目の一里塚で、北塚に榎、南塚に松が植えられていたという。
数年前までは古いトタン塀に解説板が貼り付けられていたが、僕が歩いたときは大きなマンションが建設中で、解説板は撤去されてしまったらしい。
マンションが完成した暁には新たな解説板が設置されると嬉しいのだが。

神奈川宿
神奈川宿は日本橋を出てから3番めの宿場町。
神奈川の一里塚跡
大網金比羅神社の参道に神奈川の一里塚があった。江戸から7里目の一里塚。
そばにある本覚寺は生麦事件の時代にはアメリカ領事館として使われており、運び込まれたリチャードソンの遺体はヘボン博士により検死された。

割烹料亭「田中屋」
上り坂の途中にある「田中屋」は歌川広重の「神奈川 台之景」にも描かれた「さくらや」で、俗に権八茶屋とも呼ばれた。明治7年(1874)頃には坂本竜馬の妻である「おりょう」が働いていた。外国語が堪能で月琴も得意なおりょうは外国人の接待に重宝されたという。


本日は出発が遅めであったために歩行距離としてはやや短めな方である。しかし股関節や臀部、腸腰筋は張っており、最後の方は信号で止まるたびにストレッチをしていた。
本日のホテルはリブマックス横浜駅西口。シングル¥6,217。
チェックインするとすぐに足を洗い、狭いユニットバスのバスタブに湯を張って浸かった。体育座りでの入浴だがお湯が身体に染み込んでくるように気持ちが良かった。
徒歩圏にコンビニや飲食店が豊富だった。

コメント