日光市今市の瀧尾神社の境内に「市神」が祀られている社がある。これは幾度か場所を変えて現在地に遷座されたものであるが、今回はその軌跡をたどってみたいと思う。

さて、市神とはいったいどんな神なのだろうか。
市神をインターネット辞書「Wikipedia」で調べてみると、
「市場の守護神として信仰される神で、交易の場である市場の安全と公正な取引を期するために祭祀された。市場の開設される場所の多くは古くからの街道上で、市神は路傍に祭祀されたが、近代以後の交通事情により道路上から近隣の神社境内での開市とされ、市神も境内地に移される場合があった。」
とされている。
今市の起こり
次に、「今市の市神様」ということで、今市の起こりについてざっと調べてみよう。今市という地名はいつから文献に記録されているのだろうか。
奈良時代にあたる天平神護2年(766年)、勝道上人によって日光山が開山された。それに関し、勝道の修行の伝説で行川や長畑の普門寺、木の峯観音、鶏鳴山、室瀬の観音堂などが語られるが、「今市」の名は出てこない。
平安時代、非常に大きな勢力を誇った関白・藤原道兼の孫「宗円」は比叡山で天台宗の教えを学び、天仁2年(1109)に日光山の座主となった。宗円はその後初代の「宇都宮氏」を名乗り、子孫は武将として宇都宮城を中心に下野国で強い権勢を誇った。そして宗円の孫の朝綱をはじめ、泰綱、貞綱らは日光山を信仰し、「俗別当」という重要な役職に就いて日光山を支えた。
このようにして、勝道上人以来仏教の道場として発展してきた日光山は、鎌倉時代になると急に武士の勢力と結びつくようになり、さらには鎌倉幕府の将軍・源頼朝の信仰も受け、ますます栄えるようになった。千本木から今市高校の南側を通り和泉に抜ける「鎌倉街道(通称)」と言われる古道は、その当時の日光山と鎌倉・宇都宮方面をつなぐメインストリートの名残りと言われている。
同時代で語られている物語としては、奥州へ逃げようとする源義経が鹿沼市の南押原にある判官塚に隠れたとする伝説、そしてその後日光山を頼って行川沿いを日光に向けて歩いたと言われる伝説や、日光市高畑に残る平家落人伝説など、古い時代の様々な伝説があり、今市の周辺の地名は出てくるが、ここにもさっぱり「今市」の名は出てこない。
さらに時代が下って室町時代、安土桃山時代には板橋城、小倉城、猪倉城、倉ケ崎城などの山城があり、その戦の記録と地名が書き残されている。文明18年(1486)には関白・近衛房嗣の子で京都聖護院の門跡・道興准后が日光山に来山し、永正6年(1508)には連歌師の宗長が足利、壬生、鹿沼を経て日光にやってきて旅行記を書いた。当時は日光街道も例幣使街道も無かったため(道の原型はあったのかもしれないが)、道興も宗長もおそらく「通称・鎌倉街道」を通ってきたと思われる。その旅行記には鹿沼や日光のことは詳しく書いてあるが、やはり「今市」の名は全く見られない。
はておかしいぞ。今市とは、旧・今市市や新・日光市の中でも老若男女が集まった大都会ではなかったのか。みんな服や食料品やクレープなどを求めて、休日は今市を訪れたはずなのに。
「今市」という名が初めて見られるのは元和6年(1620)、徳川秀忠が発布した「日光山領寄進状」のなかで、「今市村七百石」と記されたものだと言われる。「いまいち市史 通史編Ⅱ」によると、この寄進状に名が見えるということは当然それ以前に村の成立があったと思われるが、古文書や記録等では確認されていないということである。
それまでの今市は「今村」と称し、農家が7軒ほどの草深い田舎であったという話が我々地元民の人の共通理解であるが、この証拠も見つかっていない。
このように今市や今村といった名称がいつ頃から使われていたのかは全くの不明である。ただし、文明年間(1469-1486)に暁誉上人によって如来寺が建立されたことを踏まえると、室町時代の末頃に今村に該当する一つの小さな集落があったことと思われる。しかし、この如来寺の歴史はその後の約100年間に渡って記録が絶たれており、歴代の住職の名が伝えられているのみで今市に関する記録が見られない。しかも、寺や神社がその場所を移動することが無いわけではなく、創建時から変わらず現在地にあったのかどうかを証明する術もない。
そんな今市に比べると、前述の長畑、板橋、猪倉や、古い資料に名が出てくる瀬尾や小林地区などはずいぶん昔から人が住み、武士や日光山の神人の末裔が今も残り、村としての共同体があったことがわかる。
そこから考えると、当時の今市のあたりは僻地の新興住宅地のような扱いで、いずれの古い資料にも地名を記載する必要さえもないド田舎だったのかもしれない。
江戸に幕府がひらかれると、元和3年(1617)、徳川家康を祀る日光東照宮が造営され、江戸と日光を繋ぐ幹線道路、「日光街道(当時は日光海道・日光道中)」がひらかれた。その過程で今市は宿場町として整備され、にわかに人や物資の往来が盛んになった。
その頃からは今市にもようやく「資料」と呼ばれるものが散見され、例えば元和3年(1617)高橋家系譜(安西家文書)によると、板橋城主の松平成重が豊前国(現在の福岡県東部及び大分県の北西部)に国替えするときに、家臣の高橋理時が地位を退いて「今宿郷」に住みはじめたとあり、前述の通り元和6年(1620)、将軍秀忠が日光山に与えた寄進状の中には、「今市村七百石」と記されている。
寛永13年(1636)、日光を訪れた幕府の儒官「林羅山」は当時の今市のことを以下のように書き残している。
「この村(今市のこと)の商店を覗いてみると、買いたいと思うようなものは何も無いが、商人たちはまがい物のようなものを店に並べ、さかんに本物だ、買わないかと騒いでいる」
同じく羅山の承応2年(1653)の詩集では、日光山へ向かう途中、今市を通り過ぎた感想を「日光の門前にあたるこの村は、門前らしく僧侶に関係するものを売ればいいのに、商人たちは日が暮れるのを惜しんで金儲けに夢中になっている」と記している。
羅山が今市をよく思っていなかったであろうことはともかくとして、日光東照宮の完成から20年を経た後の今市は日光街道沿いに店が立ち並び、旅人を相手にした商売が行われていたことがわかる。
また、「日光道中記」には寛永15年(1638)には今市の大橋筑後之丞、安西伊勢翁が、にわか雨に濡れて困っている天海に雨具を差し出して大変喜ばれたことが書かれている。
さらにその後、文挟家文書には、元禄9年(1696)の今市宿の様子が以下のように書かれている。
- 町長(町の長さ)6丁 追分地蔵から滝尾神社まで。町の両端には木戸が置かれ、これは明治20年頃までは跡が残っていたという。
- 家数 223軒
問屋 1軒
馬役 107軒
年寄 8軒
歩行役 69軒
馬指 1軒
水呑 37軒
帳付 1人
馬 107匹
飛脚番 2人
こう見ると、今村七軒と呼ばれた頃から比して、日光東照宮と日光街道が出来た頃からうって変わって住民が増えて賑やかになった当地の様子がよくわかる。ここまでで、今市の起こりについて調べた。
瀬尾の馬市
次に、市神のルーツを調べてみよう。
「私が聞いた今市と私の見た今市(丸山源一 平成4年(1992)発行)」という本がある。 この本は明治45年(1912)に春日町に生まれた丸山源一氏が、御年80歳の時に執筆した手書きのものである。当時の思い出や、氏が若い頃に古老に聞いた故事をまとめ上げたもので非常に貴重な資料だ。もとより非売品で発行部数は極めて少なく、現存するものは数えるほどである。私もコピーのコピーで全ページを見せていただいただけである。
この中に、市神様について興味深い記述を見つけたので抜粋して引用する。
鎌倉時代の頃から下野南部の石橋の馬市、北部の那須の馬市と並び、瀬尾(現・日光市瀬尾)の馬市は大変賑わったと伝えられる。瀬尾は下野西部の要衝で、足尾・細尾・日光方面からも、古峰ヶ原・山久保からも、大沢・塩野室・大桑や船生からも近く、湯西川や会津方面、栗山方面からもアクセスが容易であるということでたいへんに栄え、瀬尾の八間道路(道幅で約14.5メートル)で行われた馬市は盛況を博した。
瀬尾に大きな道路があって、馬市が開かれて賑わった様子が書かれているが、ここでも今市の名は見られない。小さな集落であったザ・僻地・今市(今村)は、瀬尾に近かろうが何だろうが、書き残すには値しないからだろう。
さらに続く。
(東照宮の造営、日光街道の整備に伴い)お上では日光の門前町と今村の宿場町の発展に特に力を入れたので、瀬尾村の馬市を今村に移すよう申し渡した。瀬尾村は一大事として近村にも働きかけ毎夜会談を開き瀬尾存続を懇願したが、遂に聞き入れられず一方的に元和5年(1619)の秋に市神様を今村の上町白川屋旅館前の道路中央に遷されてしまった。
お上からは「今村の『今』をとり、瀬尾村の市神様の『市』をとり、『今市村』とする」と言われ、嫌々ながら納得させられたということを、お年寄りの方から聞いた。
これは先述した”元和6年(1620)将軍秀忠が日光山に与えた寄進状の中には、「今市村七百石」と記され”たこととも辻褄が合う。
ここまで調べた話を総括すると、
・鎌倉時代、瀬尾に開かれた馬市の守護神として市神があった。
・しかし、江戸時代に入ると日光街道の開発に伴って今市宿が形成されたことにより、瀬尾の馬市も市神も今村に移されることになった。
・「今市」という名称が出来たのは元和5年(1619)の頃ではないか。
ということになる。
この話の真偽を証明する資料は無いが、「火のない所になんとやら」で、こういった話が口伝で伝わっているのは、その原因となる事実があったからなのだろうと考える。
さて、今市村に遷座した市神様の位置を辿ってみよう。
つづく。

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