先日、「心の洗濯」と称して群馬県の老神温泉に行ってきた。我ながらリーズナブルな男である。
日光から老神温泉までは足尾を経由しても金精峠を経由してもどちらも2時間程度で行けるため、比較的手軽に行ける上に宿泊客の9割以上が日本人という、インバウンドの波に未だ飲み込まれていない貴重な温泉地である。インバウンドは良いのだが、湯治場には外国人には理解しがたい日本人独特の情緒やルールがあるし、やっぱり静かな温泉地がいくつかあってもいいんじゃないかと思うのだ。
僕は近年稀に見る美しさだとウワサのトウゴクミツバツツジを見るために、往路は金精峠を、復路は足尾を通って旅をした。実は僕はマツダのロードスターを購入したばかりなのだ。屋根をオープンにし、シフトをスコスコと決めながらのんびり走るのはやはり楽しいものだ。


老神温泉(おいがみおんせん)
さて、湯元温泉、川治、川俣、鬼怒川など、様々な温泉にいろいろな物語があるように、老神温泉にも伝わる話がある。
そしてそれは日光市と無関係ではない。
日光の神と赤城山の神の戦い
「まんが日本昔ばなし」にも出てくる日光の神と赤城山の神の戦いの様子を紹介しよう。有名な話であるのだが、物語ゆえに細部が違ういくつかのパターンがある。ここは僕が見聞きした話を大雑把に書いてみる。
昔々、下野国日光二荒山と上野国赤城山の神は中禅寺湖の所有権を巡り絶えず争っていた。
話し合いでは決着がつかず、とうとう武力で所有権を決めることとなり、二荒山の神は大蛇に、赤城山の神は大ムカデに姿を変え、今の戦場ヶ原の場所で激しい合戦が行われた。合戦は当初赤城側が優位に進めた為、困った二荒山の神が鹿島大明神に相談すると、奥州の厚樫山に、二荒山の神の子孫で弓の名手である猿丸というものがいるので、加勢してもらったらどうだろうと教えられた。
さてある日、猿丸が狩りをしていると、一匹の立派な白鹿が猿丸の前を駆け抜けていった。猿丸は白鹿をしとめようと後を追った。すると白鹿は女性の姿になり、自分は二荒山の神であり、猿丸は自分の子孫なのだと告げた。
二荒山の神は、赤城山の軍勢を迎え撃つため猿丸の力を貸してほしいと頼んだ。猿丸は加勢することを二荒山の神に伝え、戦場ヶ原に向かった。決戦当日、大小のムカデの大群が赤城の方から攻め寄せてきた。日光側からはこれも大小の蛇の大群が迎え撃った。ところが、時間が経つにつれて蛇の大群はムカデの大群に押されて後退し始めた。
猿丸は赤城の軍勢の中から一際大きなムカデを発見すると、その大ムカデめがけて弓を放った。矢は一直線に大ムカデに向かって飛び、見事その左目に命中した。大ムカデは悲鳴をあげて赤城山方面に撤退していった。戦場ヶ原の地名には今もその名残があり、まさに戦場となったその平野が戦場ヶ原、戦いの流血で辺り一帯が赤く染められた場所が赤沼、兵糧を積んでおいた場所が戦場ヶ原で唯一の丘である「糠塚」、勝負を決した場所が「菖蒲ヶ浜」、二荒山の神が勝利の唄を歌った場所が「歌ヶ浜」、そして上野勢を撃退した記念として残されたのが「上野島」と言われている。

さて、左目を射抜かれて撤退した赤城の神は、片品川のほとりまで来て目に刺さった矢を抜くと、その矢を地面に突き刺した。するとそこからこんこんと温泉が湧き出てきた。赤城山の神がその湯を傷ついた左目にあてると、あっという間に傷が塞がった。
そこに二荒山の軍勢が押し寄せてきたが、傷が癒えた赤城山の神は猛反撃を開始し、二荒山の軍勢はほうほうの体で日光に逃げ帰った。
このことからその場所は、「神を追い返した」ということで「追い神」、それが転じて「老神」になったといわれる。
さらに近隣には「追貝(おっかい)」という地名もある。これは我々栃木県人でも意味がわかる方言で、「おっかいした(追い返した)」が土地名の由来であるとされている。追貝は皇海山を経て足尾と接している。
なぜ二荒山の神が鹿島大明神に相談したのか、子孫が奥州にいるのか、また二荒山の神がなぜ女性の姿になったのかは、更に難しい話になるので、吉野薫氏の著書「日光の三神」を参照していただきたい。
老神温泉の大蛇まつり
さて、老神温泉である。僕は旅館の駐車場にクルマを停め、カメラを持って2時間ほど老神温泉の周囲をぐるりと歩いてきた。
老神温泉はたいへんに失礼ながら、相当にひなびている。昭和の頃は隆盛を誇っていただろうこの温泉地には、飲食店、スナック、土産物屋、射的場、ストリップ劇場や置屋などがあったが、今は看板はそのままに、ことごとく廃業している。その佇まいはタイムスリップした昭和そのものだ。
すれ違う人はほぼおらず、政党の街宣車が温泉街の端にクルマを停めて消費税とコメの問題について熱く語っていたが、それを眺めているのはシロサギ数羽と観光客の僕一人である。



だが、昭和43年(1968)の老神温泉の概況は以下のようであった。
旅館19軒、飲食店16軒、芸者置屋5軒(芸妓約50名)、遊技場7軒、マッサージ師5軒(16名)。戦後の年間観光客数は12万人を超え旅館はことごとく満室であり、皮膚病に効くとの噂を聞きつけた湯治客が片品川の河原で野宿をして部屋が空くのを待ったという。この小さな温泉街にそれほどの観光客が訪れたとはまさに驚愕という他ない。
そしてなるほど、湯量は豊富で泉質の違う源泉が複数あり、素晴らしい温泉である。
大蛇まつり
そんな老神温泉には、奇祭、「老神温泉大蛇まつり」が伝わっている。
これは赤城山の神の姿を模した「大蛇みこし」の渡御で、12年に一度の巳年には全長108.22mの巨大大蛇みこしの特別渡御が行われる。
以下は沼田市観光協会の老神温泉の紹介からの引用である。
かつて、上野国赤城山の神が大蛇に、下野国二荒山の神は大百足に化身し、神域をかけて戦場ヶ原で激しく争いました。あるとき、赤城山の神は矢傷を負い、何とか赤城山の麓まで逃げました。傷ついた赤城山の神が矢を抜き、地面に突き刺すと不思議なことに湯が沸きだし、この湯を浴びるとたちまち矢傷が癒え赤城山の神が二荒山の神を追い返したといわれています。神を追い返したことから、追い神が転じて老神となったといわれています。
沼田市観光協会 https://www.numata-kankou.jp/spa/index.html
老神温泉では、老神の湯を開湯した赤城山の神に感謝し、毎年5月に「大蛇まつり」が行われています。
曲がりくねった細い路地の温泉街に、100メートルを超える蛇の神輿がぐねぐねと練り歩く。これはきっと壮観な光景だろう。

それにしても、はて。「赤城山の神様が大蛇」とは?
逆ではないのか?
群馬県の各所にある赤城神社の多くには、社務所や絵馬、扁額、鳥居などにムカデが描かれていることが多い。一般的に赤城山の神様は大ムカデとなっているのだ、ここ老神温泉の地以外では。
これは恐らく藤原秀郷(俵藤太)のムカデ退治伝説が元になってるのだろう。藤原秀郷が近江で大蛇に頼まれて大ムカデを退治した伝説が上野、下野に伝わり、「勝ったほうが大蛇、負けたほうが大ムカデ」というのが前提になった。すなわち、戦に負けて敗退した赤城山側がムカデで、勝った二荒山側が大蛇ということになる。
一方、老神温泉の周囲の解釈では、一時は形勢不利であった赤城山軍が最終的には二荒山軍を追い返しているため、勝者、すなわち大蛇となっているのだろう。
日光二荒山と赤城山の神が戦う伝説集
調べてみると、日光二荒山と赤城山の神が戦う伝説は、栃木県側と群馬県側にいくつかのバージョンが見られることがわかった。
ヘビやムカデである場合も、神々が直に戦う場合も、部下を戦わせる場合もある。
一例を挙げてみよう。
- 赤城山の神と二荒山の神が領地争いをしたところ、赤城山の神が勝った。二荒山の神が負けて逃げるとき、里芋のツルに足を取られて転び、モロコシの切り株で片目を突いてしまった。そのため下野国の人は片目が細い。(群馬県片品村の伝説)
- 二荒山の主である大蛇は、赤城山の主である大ムカデの攻撃に苦しめられていた。そこで、坂上田村麻呂に助けを求め、ついに退治した。逃げた大ムカデの足跡に水がたまって、片品村の菅沼と丸沼になった。(栃木県日光市・群馬県片品村の伝説)
- 昔々、赤城の山は岩だらけで水が無かったため、満々と水を湛える中禅寺湖を欲しがる赤城山の神と二荒山の神は絶えず争っていた。
ある日、赤城山の神は、赤城の仁王に中禅寺湖の水を盗んでくるように命じる。赤城の仁王が中禅寺湖に着くと、そこには水を取られまいとする日光の仁王が待ち構えており、二人は取っ組み合いになった。赤城の仁王は、組み合いながら中禅寺湖の水を右手ですくい、素早く赤城山の方に投げた。日光の仁王が慌てて赤城の仁王の右手を押さえると、今度は左手で水をすくい赤城の方に投げた。こうして、赤城の仁王が右手で投げた水が大沼に、左手で投げた水が小沼になった。(群馬県みどり市の伝説) - 昔々、上野の赤城の神と下野の二荒の神は仲違いとなって長い間争ってきた。多くの神々も二手に分かれて加勢し、このため山河が砕け、裂けるほどの激しい闘いとなった。ある時には赤城の神が下野まで攻め込み、中禅寺湖にある島を占領して上野島と名付けた。戦場ヶ原は両軍の流した血で真っ赤に染まり、赤沼と呼ばれた。
しかし赤城の神は運悪く二荒勢の矢に当たって負傷してしまった。赤城の神は軍勢をまとめ、赤城山の方へ引き上げてきた。そこに勝ちに乗った二荒勢が追いかけてきたが、ようやくのことでこれを追い返した。その所を追神というようになった。
ここで赤城の神が地面に矢を突き立てると、たちまち地中から湯が吹き出した。赤城の神がこの湯で傷を洗うと、傷はたちどころに治癒したという。
室町時代の永禄年間になって時の沼田城主・沼田顕泰(万鬼斎)の妻・曲輪御前がここを訪れ、追神を老いる我が身になぞらえて「谷深くたえぬ松風なみの音 たださびしきは老いが身ぞかし」と詠んだことから「老神」となったと言われる。(群馬県・利根村誌) - 大ムカデの左目を射抜いた猿丸は、逃げるムカデの大群を追った。そして戦勝の記念にと上野国の小山を持ち帰り、中禅寺湖に飾った。これが上野島となった。
- 負傷した赤城の神が湧き出させた湯は、傷を負った神の温泉ということで「負い神」、それが転じて老神温泉となった。
このように、バージョン違いの話は数多あり、すべてを列挙することはできない。栃木県の人は片目が細いなどという「え、そうかな?」と思わず鏡を見てしまうようなひどい話もある。
現実的にはもちろん大蛇と大ムカデは組んず解れつして戦わないし、仁王が投げた水で沼が出来るわけはないし、栃木県人は片目が細い訳も断じてない。しかし、このような物語が出来た何らかの歴史的事実、例えば領界争いなどの出来事はあったのだろう。
それを踏まえて、今回老神温泉を歩いて一番興味があったのは以下のことだ。
二荒山神社
さて、北から南に流れる片品川に沿って東西に位置する老神温泉の住所は、正確に言うと西の右岸が「利根町老神(旧・老神村)」、東の左岸側は「利根町大楊(旧・大楊村)」になる。
そしてなんと、大楊には二荒山神社がある。


非常に不思議である。ここは群馬県の老神温泉。赤城山の神のお膝元と言っても過言ではない場所ではないのか。
大楊の地元の方に伺うと、このかなり古いが大きい設えの二荒山神社は確かに日光から勧請されてきたものだという。由緒を調べると、「宝永14年9月23日下野国日光山二荒神勧請(利根村誌)」とあるが、宝永は8年までしかない(西暦1704-1711)。石灯籠に彫られた年号を見ても、これは宝暦14年(1764)の間違いかと思われる。
民家と民家の間には参道が片品川、つまり老神方面に向けて伸び、観音堂と墓石が数基あり、年代は江戸時代以前のものはない。だがこのあたりは室町時代の沼田氏の家臣であった金子美濃守の一族が代々治めており、現在でも大楊にはほとんど金子姓しかいない。従って、二荒山神社も金子一族が勧請してきたと考えるのが自然であろう。
話を伺っていると、この二荒山神社の秋の例祭は「おしっこ祭」という名前と言うそうだ。かなりエキセントリックなこの祭のタイトルに驚愕したが、これは「押しっこ」という意味で、柱の間にとうせんぼする若者を押して通る例祭ということらしい。
老神温泉の端の日光方面側に、誰が、何の目的で二荒山神社を勧請してきたのだろう。調べた限りでは金子氏が日光に縁があったという証拠は見つけられない。
これは老神温泉の観光協会の方に伺っても近所の方々に伺っても、どなたもご存じなかったが、きっときっと歴史好きの心を揺さぶる謂れがあるはずだ。
ただし、今回は心の洗濯で訪れた県外の地であるし、これ以上を調べるにはちょっと荷が重く、ここまでで諦めることとした。

以上、今回は日光と関わりがある老神温泉をリーズナブルに旅した話でした。

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