以前投稿した記事「龍王峡と五龍王神社」の中で、龍王峡の五龍王神社の御神体である龍神像を彫ったのは高田運秀・喜代助の親子であると書いた。
今回は宇都宮を中心に活躍した仏師、高田一門について調べた。
高田家は美濃国高田郡(現在の岐阜県養老郡養老町)の出身で、慶長年間(1596~1615)に益子を経て宇都宮に移り住むようになったという。「高田」とはその出身地を名字にしたものである。
その後、江戸時代の17世紀後半から19世紀末にかけての約200年間に渡り、一族は下野国内で活発に仏像を彫っており、当主は代々「高田運平」と名乗った。
高田一門の制作した仏像は現在も栃木県内の寺院に数多く残るが、そのほとんどは50cmに満たない小さなものであることが特徴である。
この様な小さな仏像であるからには十分に仏師一人の手で完成できるものと素人の私には思われるが、それらは結構な頻度で仏師二人の共同制作となっている。
仏師の名前
高田家が仏師として栄えたのは10代目までの時代である。
初代 運晴
?-正徳元年(1711)
運晴は高田家の祖であり益子に住んだ。正徳元年(1711)に亡くなったが生年がわからず年齢は不明で、益子の西明寺と正宗寺に墓がある。政宗寺の阿弥陀如来立像は元禄3年(1690)運晴の作である。
二代 運應
寛文4年(1664)-享保14年(1729) 66歳没。
初代運晴の子で、益子に生まれ育ち、正宗寺に葬られた。正宗寺の熊野本宮大権現坐像は享保12年(1727)、「聖朝萬歳 當所安全 寺院繁盛 武運太平 諸人悦楽」を祈念して運應が寄進したものである。
三代 運貞
貞保2年(1685)-宝暦8年(1756) 74歳没。
二代運應の実弟で、宇都宮の鉄砲町に住み、清巌寺に葬られた。二代運應は益子を離れなかったが、運貞以後、高田家は宇都宮に住居を移す。
宇都宮に進出したのは、運應が死亡した後の享保14年(1729)から延享元年(1744)の間で、この頃から墨書銘に「宇都宮」と初めて書かれている。
日光市上栗山の長研寺の観音菩薩・勢至菩薩立像は運貞の延享元年(1744)の作であり、宇都宮大谷寺の聖観音菩薩立像の修復も手掛けた。

四代 運阿
?-享保12年(1727)没。
若くして亡くなったことは判っているが、細かなことは不明である。というのも、運阿は三代運貞の養子であるが、高田家の過去帳には「四代三男」とあり、ここから判断できることは二代、三代、四代は全て初代運晴を父とした兄弟であるということになる。少しややこしいが、兄弟が養子になったということだ。
現在の所、作品は不明である。
五代 運啓
?-宝暦10年(1760)没、清巌寺に葬られる。
四代運阿の養子であったが、運阿が若くして亡くなったため、三代運應が運啓の養父となり養育した。
運啓も作った仏像は不明である。
六代 運応
享保元年(1716)-文化元年(1804) 89歳没。
運応は二代運應の53歳時の子であったが何らかの理由で長らく跡を継げず、6代目を襲名したのは晩年であった。運応の代に住居は鉄砲町から釈迦堂町に移り、墓所も清厳寺から浄鏡寺に移っている。
運応の作は21体が確認されているが、単独制作は2体で他はすべて合作である。中でも7代運秀と15体の仏像を合作しており、その殆どが50cm未満の比較的小さなものである。
日光に縁があるものとしては、日光市藤原の慈眼寺の尊名不明の仏像の光背と台座を制作しており、大沢の龍蔵寺には見積書が残っており、45cmほどの釈迦如来坐像と24cmほどの普賢・文殊菩薩のいわゆる釈迦三尊像が3両2分で製作可能と書かれている。
七代 運秀
明和5年(1768)-天保9年(1838) 71歳没。
運秀は判明しているだけで45体の仏像を制作しており、日光に縁があるものというと龍王峡の途中にある五龍王神社の御神体である五龍王像がある。
鶏頂山の弁天沼と五龍王像
この木像は文政6年(1823)に完成し、文政8年(1825)に鶏頂山の弁天池に祀られた。当時の弁天沼は現在の数十倍の広さがある大沼であったが、その沼には大蛇が住み、美男子に変装して婦女子を誘い湖中に引き入れると言われていた。ここよりほど近い場所にあった高原新田宿の湯泉寺(とうせんじ)の住職はその冥福を祈るため、彫刻された龍神像を祀ったと言われている。
五龍王神社の龍神像も、台座を含めた高さは29cm、正像は10cmほどであると言われている。「言われている」としたのは、この龍神像は写真にもスケッチにも残されておらず、おそらくは盗難の被害にあっているからだ。
詳しい五龍王像については拙ブログの記事「龍王峡と五龍王神社」にまとめてある。

八代 運刻
天明8年(1788)-慶応2年(1866) 79歳没。
運刻は通称を「喜代助」といい、7代運秀とともに五龍王神社の龍神像を手掛けた。彼の妻は運秀の三女、益である。
運刻の作とされている仏像は17体が確認されており、単独制作が2体、実子の長男運春との合作が2体、次男運春との合作が4体、その他は義父の運秀の助手として関わったものが9体である。
喜代助は「喜代松」と紹介されている資料もいくつかあるが、「喜代助」が正しく、おそらく原因は高田家の過去帳にある。これは嘉永7年(1854)、72名の戒名が記載された過去帳を転写した際、その新しい過去帳にのみ「喜代松」と名が見られるが、他の仏像等に掘られた銘文にはすべて「喜代助」と彫られている。
よって「喜代松」は転写の際のミスだと思われる。
九代 運春
天保2年(1831) -明治22年(1889) 59歳没。
運春の作品は現在9体が確認されている。その中でも宇都宮市下ケ橋町(旧・河内町)の養膳寺の地蔵菩薩像が面白い。
養膳寺は小さな無住の寺だが、平安時代末期、源頼朝の挙兵を聞いた義経が兄の元を訪れる途中にこの寺に宿泊したことは地元民の中では有名な話だという。
この養膳寺には800年以上前に造られた地蔵菩薩立像があったが、平成12年(2000)頃盗難の被害にあってしまった。残っている写真ではおそらく50cmほどの仏像であるように見える。
この仏像は年代から明らかであるように当然運春の作ではない。問題は、仏像の盗難の際に残された「台座」である。蓮の花をかたどったこの台座こそが運春が手掛けたものであり、その中に5cmに満たない小さな地蔵菩薩立像が隠されていたのだ。
現在は盗難を恐れ見ることはできないが、写真を見ると非常に可愛らしい大きさである。
十代 運秋
弘化3年(1846) -昭和6年(1931) 86歳没。
現在運秋の仕事と確認されているものは2件で、いずれも修理である。
明治29年(1896)には日光市今市の如来寺の尊名不明の仏像の修理を行っている。
高田家のその後
現在確認されている高田一門の手による仏像で、現存するものは52体であり、その9割以上が江戸時代の作となっている。
高田一門は6代運応と7代運秀の代に最も栄えたと言っていいだろう。しかし寛政から天保の江戸時代の末期に当たる繁栄の時代から徐々に仕事の以来は減り、明治に入ると廃仏毀釈令が出されたことなど、時代の流れの変化により造仏活動は火の消えたような有り様になってしまい、明治以降、高田一門の仏像はたったの3体しか確認されていない。
そして高田一門の造仏活動は明治35年(1902)の高根沢町中阿久津の天満宮の天神坐像の修理を最後に見られなくなった。
代々襲名された「高田運平」の名は、いずれの時代にも宇都宮の商業発展に大きく貢献したことが文献にも記述されている。
子孫は先祖伝来の土地、宇陽明神前の相生町(現在の宇都宮パルコ跡。馬場通り3丁目付近)で商いを行った。ちなみに「宇陽」とは宇都宮の中心部のことを指す。このことから宇陽の名が呼ばれなくなった現在でも陽南、陽東などの地名が残っている。

明治40年(1907)に発行された営業便覧には「佛具師 高田運平」の名が見える。
その後、昭和20年(1945)7月12日の宇都宮空襲によりこの一帯は戦火に焼かれ、貴重な古美術品や古文書を邸宅とともに失った。しかし安政年間に運刻、運春によって彫られた七福神が焼失を免れ、これは明治天皇も行幸の際にご覧になられたという。
明治天皇行在所 向明館
鉄砲町の話のついでに「向明館」をご紹介しよう。
明治天皇は東北巡幸の際、宇都宮では鉄砲町(旧馬場通り2丁目)にあった向明館に行在所(あんざいしょ。行幸の際に設けた仮宮)が設けられた。
この向明館は江戸時代の豪商、鈴木(津山)久右衛門の邸宅で、明治9年(1876)6月に明治天皇が宇都宮城址での練兵を天覧されたおり、ここが行在所に選ばれたというものである。
明治天皇はここの日本庭園を随分と気に入られたと伝わるが、写真の通り今はその面影はない。向明館は昭和8年(1933)11月に国の史蹟に指定され、市が入口に御影石の標識柱を建て管理していたが、昭和20年(1945)7月12日の宇都宮空襲で焼失し、翌年に指定が解除された。向明館は明治14年(1881)の東京鎮台・仙台鎮台合同大演習の際にも行在所となった。

戦後、高田家は食堂を営み、その12年後には更に転業し「マルタカ」の屋号で宝石やバッグを扱う店となった。
以上、仏師「高田一門」についてでした。

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