拙ブログで毎度おなじみの「天保国絵図(天保9年(1838)完成)」をもとに、このところ日光の一里塚の場所を仕事より熱心に探ってきた。
今回は天保国絵図に描かれている高原新田宿と湯本塩原村の元湯を結ぶ古道、「塩原道」を歩いてみた。
ちなみに天保国絵図には塩原道の途中にも一里塚の印が描かれている。
まず最初にお断りしておきたいのだが、この行程は高原新田宿の歴史に詳しい川治在住の郷土史家、大塚建一郎氏の案内のもとに歩いた行程である。
この道は近年に人が歩いた形跡は全く感じられない。登山道によくあるピンクテープや古い空き缶、飴の袋など、山中で見かける近代の人工物は何も無い全くのノラ山である。
道中は崩壊していたり無関係な尾根に引き込まれそうになったり、渡れない川を無理やり渡渉するなど(参加者全員が渡渉に失敗して登山靴の中まで水浸しにした)、登山道として整備された道ではない。危険なのである。
令和7年10月にはまさにこの周辺で開かれたオリエンテーリング大会で、行方不明者(その後死亡が確認)も出ている。
参加者全員と相談した結果、携帯電話の電源も入らず全く整備されていないこの道を無責任に公表するのはいかがなものかとの結論に達したため、今回はGPS等の細かな情報は掲載していない。
塩原道とは
まずは塩原道とは何なのか。概要を説明しよう。
塩原道は江戸時代から近代にかけて、「高原新田宿と湯本塩原村の新湯を結んでいた道」である。具体的には寛文年間(1661~1673)の高原新田村の成立と、正徳3年(1713)の湯本塩原村の新湯の成立に伴いこの道が開削され、昭和14年(1939)、現・日塩道路(もみじライン)の一部区間の開通までのおよそ226年間に渡って使われた道路である。例によって当時の街道名は呼称が定まっておらず、AからBに向かう道はB街道と呼ばれたし、逆にBからAに向かう道はA道などと呼ばれた。今回は「塩原道」と呼ぶが、文献によっては「高原新湯道」、「大曾篠」などいくつかの呼び方がある。
以下の地図に大まかな道程を記した。今回歩いた道は塩原道の中の「宝永4年銘道標ー萩地蔵」の区間である。


高原新田宿
(この部分は拙サイト「高原新田宿の跡(高原新田宿 1)」と多くの部分を共有し、簡素にしてある。)

鶏頂山の麓にあった高原新田宿のそもそもの成り立ちは江戸時代の初期の承応2年(1653)、下総(現在の千葉県北部と茨城県南西部)から来た「香取久左衛門」が会津西街道の高原峠を往来する旅人相手に茶店を開いたのが始まりといわれる。
その後の万治2年(1659)に現在の福島県と栃木県の県境付近を襲った大地震によって壊滅的な被害を受けた湯本塩原村の元湯(現・那須塩原市の元湯温泉)の村民の一部、6軒がこの土地に引っ越したことにより村の原型が形成された。その後の寛文年間(1661~1673)には会津西街道最大の難所と言われた高原峠に、村としての共同体が出来上がったと考えられる。
会津藩による道路整備により会津西街道を通る荷物の量は年々増えていったが、高原峠は相変わらず高所難所であった。
五十里村は高原新田村を経由して藤原村までの宿駅伝馬制を全うするために40両の借金をして駄馬36頭を購入したが、その借金の返済が終わらないうち、難路での馬の滑落や酷使などで役目を果たせる駄馬はあっという間に20頭にまで減ってしまった。それにより延宝5年(1677)、五十里村は奉行所へ嘆願書を提出し、「五十里村と藤原村の間の高原峠に宿場を作り、ここで折り返しすれば人馬ともに助かる」と高原新田宿の公認を申し出ている。高原新田村が正式に「高原新田宿」として宿駅の機能を持つようになったのはそのすぐ後である。
同年には元湯の湯泉寺が高原新田村に移り再建された。

元湯と新湯


湯本塩原村の元湯は大同元年(806年)に発見されたと伝えられ、塩原温泉郷の発祥の地であり、1200年以上の歴史を持つ古い温泉地である。最盛期には「元湯千軒」(実際は85軒ほど)と呼ばれるほど栄えたが、万治2年(1659)の大地震で起こった山津波により村はほぼ壊滅状態となり、多くの死傷者を出し湯口は塞がった。
生き残った元湯の住人は四方に離散した。元湯に残り復興を目指した住人もいたが、天和3年(1683)の日光地震、さらに正徳3年(1713)の二度にわたる大きな地震により決定的な被害を被り、元湯は廃村となった。
住人9軒は現在の新湯に移転し、元湯そのままの形で町割りを行ない、温泉神社も解体して御神体とともに新湯に運搬した。新天地・新湯の権現山の中腹に神社用敷地を造成し、石段や石鳥居も無事再建され、これに伴って湯本塩原村の中心は元湯から新湯へと移った。これが現在の新湯温泉神社である。

以上のように、高原新田宿は会津西街道の正式な宿場町であるが、そもそものルーツは親類縁者の多い湯本塩原村の元湯であり、生活様式も葬儀などの宗教儀式も、元湯、そしてその周辺に移住した人々と一村同体であった。例えば高原新田宿で葬儀が行われる際は湯本塩原村新湯の円谷寺が檀那寺であったため(戊辰戦争で焼失。現在は廃寺)、僧侶は高原新田宿と新湯を行き来したし、名主や村民などの親戚筋の往来も多かった。
そんな生活道路が今回のテーマである「塩原道」、「高原新湯道」なのである。
旧・会津西街道、高原新田宿、塩原道の位置関係
現代を生きる我々が藤原地域から旧・高原を経て塩原温泉を行き来するために使う道は「日塩道路(日塩もみじライン)」である。日塩道路は昭和14年(1939)に着工されたが、戦時中の資材不足により工事は中断された。その後の戦後になって、昭和47年(1972)にようやく開通した道路である。それまでの旧・会津西街道は、現在の「ハイセイコー食堂」あたりから直登を始め、太閤おろし滝を通り、高原新田宿を経た後は五十里宿までを下る文句なしの登山道である。
下図のように旧・会津西街道は日塩道路との共有区間は全くと行っていいほど無く、今やその痕跡は余程興味がある人が熊やヤマビルに怯え、崩壊した道程を迂回しながら進む修行の道である。
以下の図で、緑点線が旧・会津西街道である。

では、今回のメインターゲットである塩原道と、高原新田宿、旧・会津西街道を天保国絵図で見てみよう。

太平洋戦争後に入植が開始された鶏頂開拓は、今でこそなだらかな広い丘陵にほうれん草が作付けされたビニールハウスが並んでいるが、昔はここは当然「鳥獣の跋扈する森林」だった。かの吉田松陰もこの地を訪れた際にその険しい道のりを書き記している。
そしてさらに、ここは文久3年(1863)の宿駅の移動から数えて約80年、人が住まなかった無人の荒れ地である。入植者たちは樹木を切り倒し、その根を抜き、ブルドーザーで平らに均し、苦難を乗り越えここで生活するための基礎を築いてきた。
そしてその結果、鶏頂開拓周辺の旧・会津西街道と塩原道の道形はほとんど損なわれてしまった。このような言い方をすると非難がましく聞こえるかもしれないが、古今東西、我々は生きていく糧を得るために様々な場所を切り拓いて来た。当然ながら、古い道を新しく付け替えた鶏頂開拓者のその営みに文句をつける意図は全く無いことをわかってほしい。
そんな訳で、現在は鶏頂開拓から塩原道に入る取っ掛かりはもう判らないため、今回は比較的道形が残されている湯本塩原村方面からスタートし、鶏頂開拓に向けて歩くことになった。
スタート地点、「萩地蔵」

萩地蔵はもみじライン(日塩道路)の萩平、ハンターマウンテンスキー場のそばにある。宝暦9年(1759)に置かれた石造りの地蔵菩薩立像で、塩原道を通る人の安全を祈念して作られたものだろう。
文字は読みにくいが、「湯殿山 奉納行供養御山荘厳諸願成就祈所 宝暦九己卯年四月吉日祥日 塩原村中総願主敬白」と彫られている。
ここから赤川に向かい、「本当にここを下るのか」という斜面を滑り落ちていく。
次回に続く。

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