今年2025年の夏は昭和100年並びに戦後80年ということで、例年にも増して戦争関係のテレビ番組が多かったと思う。
先の大戦に至る過程や、たくさんの青年が身を挺して非人道的な兵器に乗って基地を発つその様子、遠い地で補給を絶たれ戦って死ぬよりも多かった飢えや傷病での死者、銃後の守りを担った国内の様子、そして戦後に山積する被害からの復興は、見ていても余りに辛い出来事である。
今回は、塩野室地区に存在した「今市飛行場」について調べた。
今市飛行場の着工
今市飛行場について書かれたものはそう多くないが、「いまいち市史 資料編 近現代Ⅵ」にその場所と規模、着工の日時が記されている。
それによると、
・昭和20年(1945)5月8日から19日までの12日間で造成された。
・場所は篠井村字塩野室、萱場、大沢村大字針貝にまたがる地内。
・延べ人数8,689人が工事に従事。
戦争末期にわざわざこのような場所に飛行場を造った理由は、米軍による本土爆撃、特に軍事関連施設への爆撃に備え、飛行可能な機体を分散して保存しておくことが目的だったと言われる。
結果的には今市飛行場完成の2ヶ月後の昭和20年(1945)7月12日には米軍爆撃機による宇都宮空襲が行われ、同年8月15日に太平洋戦争が終戦となった。
今市飛行場は完成後、極めて短い期間で終戦を迎えたことになる。
篠井村飛行場
ちなみに「いまいち市史 通史編 近現代Ⅵ」「いまいち市史 史料編 近現代Ⅳ」には昭和19年9月に「篠井村飛行場」なるものが完成し、同年9月21日には多くの人員を勤労奉仕として出動させた大沢村村長に「飛行場開場祝賀式案内」が出され、宇都宮航空廠が使用を開始した旨が書かれている。これは今市飛行場とは別物であると考えられるがその場所は不明である。
今市飛行場の場所
今市飛行場の場所は国土地理院の過去の航空写真上で確認できる。東端が日光市塩野室の杉ノ郷カントリークラブ、萱場を経て針貝の今市キリスト霊園あたりである。

この写真に飛行場部分を描いたものが以下である。

写真では東西端の区切りが曖昧だが、現在の地図に落とし込んでみよう。飛行場は以下のような位置にあったと思われる。

さあ、場所が判明したので早速行ってみよう。
現在の今市飛行場跡

写真の場所は飛行場の最も西側にあたる部分である。正面には杉ノ郷カントリークラブ方面に向かって農道が伸びている。

今市飛行場の中央部にあたる部分。飛行場の幅がこの農道の幅だったはずはなく、その遺構はもはや皆無である。

さらに飛行場跡地はゴルフ場に向かって東へと伸びている。ここより先には墓地があり、舗装されていない区間になる。
ちなみに全くの余談であるが、この北側(写真左手)には栃木県の林業センターの大きな森林がある。昔々、ここにはその中央に浅い沼があり、出羽三山の一角を背負った巨人ダイダラボウが鬼怒川をひと跨ぎにしたときにつけた足跡が沼になったのだという伝説が残されている(「故里百話 今市の懐旧」著:渡辺武雄 1991)。
今市飛行場のその後と「萱場開拓」
今市飛行場の跡は現在、萱場開拓として広く畑が広がり酪農も盛んである。
ではそもそもなぜこの地が開拓地となったのだろう。
太平洋戦争が終戦となると、満州、朝鮮半島、中国、樺太などからの引揚が始まった。その数は約630万人と言われている。
日本国内はとにかく食べ物に事欠き餓死者も出る有り様だったため、政府は食糧難の解決のために昭和20年(1945)、155万町歩(約15,372平方km)もの開墾を目指した「緊急開拓事業実施要領」を発布し、それに伴い昭和21年(1946)より日本各地で山林原野の開拓が始まった。栃木県は他府県出身の引揚者や戦災疎開者の受け入れを指定されたこともあって、速やかに入植地を確保することが必要となった。
その中でも旧軍用地は未開の山林原野を開墾するよりもはるかに当然はるかに少ない労力で開発が可能であり、土地所有権の問題も解決しやすいという開墾にとって優良な適地であった。加えて平地や台地上にある飛行場跡地は何にも手がかからない特に最適地とされた。
萱場地区は飛行場跡の約60ヘクタールの土地が払い下げられ、昭和23年(1948)頃から樺太からの引揚者たちによる入植が開始された。
彼らの先住地は樺太の小能登呂村であった。古くは漁村であったが、主に高知県出身者の移住により大規模な農業経営が行われ、酪農モデル指定を受けるなど成功した村であったという。
萱場への入植当時、周囲には1軒の家もなかった。
昭和23年(1948)の入植開始から同年末までに20戸の入植があったが、強酸性を示す火山灰土での畑作は実りが極めて悪く、生活はかなり苦しかったためすぐに7戸が離脱した。
電話はもちろんラジオもなく、鉄輪の馬車が一台あるばかりで、人間世界から切り離されたようなこの地では昭和24年(1979)の今市地震の際には何の情報も得られず、大きな被害があったことを知ったのは地震からずいぶんと月日が経過した後だったという(「今市地震体験文」編:今市市役所 1995)。
昭和26年頃(1951)になって当初の目標であった酪農への転換を進めた。酪農から生じる堆肥はアルカリ性を示すため、それらを強酸性土壌に混ぜ込んで中和させることによる土壌改良を行い、酪農と畑作の同時経営で生活が軌道に乗った。
萱場公民館の敷地内にある昭和42年(1967)5月に除幕された「萱場開拓記念碑」から、当時の萱場の様子を見てみよう。
(ふりがなは筆者による)
「開拓の生い立ち」
萱場開拓農業共同組合は結成以来茲に二十年の歳を迎えて、これを期して記念の碑を建立し、過去を回想し未来を展望するメルクマールとするものである。
当組合は樺太からの引揚者に依って構成され、其の初代組合長長堀弘政氏は、長年医師の職を持ち乍ら村長の職を任じられ、終戦混乱期の治安を全うした。引揚後入植地確保実現のため東奔西走半歳有余、其の結果当地に六十余ヘクタールの貸付を受け、昭和二十年十二月入植許可、同二十三年三月鍬入式挙行の運びと成り、此の間小西正治、山口徳松両氏及び出身県の大先輩林譲治氏の並々ならぬ後援のあったことは深く銘記されるべきであろう。
入植当初此の地は茂林虎狼の地で、土質極めて悪い火山灰土であったので、困難極めて多く、其のため農産物は皆無と言ふ有様で、前記後援者の暖かい資金援助を仰ぎ、亦、生活の糧を得んとせば食無く、飲まんとせば水無く、光を求めたけれども灯なくして苦難を乗り越えなければならなかった歴代組合長は初代組合長の意志を継ぎ、全組合員一致協力して此の様な困難をも克服し、開拓事業も軌道に乗り順調に進捗して今日萱場開拓を見るに至ったのである。
茲に堀川弘政氏の業蹟大にして、其の功を讃えるべくこの碑を建つ、建つるに当り今市市仲町池田正一郎氏の後援を謝し併記す。昭和四十二年五月二十二日
萱場開拓農業組合組合員建之
文中にある「出身県の大先輩、林譲治氏」とは、高知県出身の政治家である。第41代衆議院議長、副総理、厚生大臣、初代内閣官房長官、内閣書記官長、高知県議会議員を歴任した。
また、「今市市仲町池田正一郎氏」とは日光市の池田種苗店のご先祖で、入植者たちに土壌改良や田畑作のアドバイスなどを行ったということだ。
ちなみに、戦後に入植地として利用された旧軍用地は栃木県だけで以下のようになっている。
- 飛行場
壬生(壬生町)、金丸(大田原市)、埼玉(那須塩原市)、清原(宇都宮市)、矢板(矢板市)、塩野室(今市市)、大沢(篠井か? 今市市) - 軍馬補充牧場
高津(那須町)、高原(矢板市) - 演習地
金丸原(大田原市)、駒生(宇都宮市)、宝木(宇都宮市) - 軍自活場
関谷(塩原町)、戸田(那須塩原市)、大谷(小山市)、野木(野木町)
以上、資料が乏しい今市飛行場について調べました。

コメント