六題目の碑の物語
会津西街道を今市から会津方面に向かい、高徳の鬼怒川ライン下り下船場あたりに、左手に分岐した細い道が見える。これは会津西街道の旧道で、道は東武鉄道鬼怒川線の線路の下をくぐり、小佐越駅の裏手側につながっている。
この道の途中にひっそりと「南無妙法蓮華」と彫られた「六題目の碑」が建っている。日蓮宗の題目は「南無妙法蓮華経」の7字であるが、この石碑には最後の「経」の字がない。日本国内でもこのような一字欠けている題目の碑は珍しいのではないか。
所在する住所は「日光市高徳」であるが、ここは高徳と大原のほぼ境界である。人通りは全くというほどなく、ちょっと寒気がする道である。

郷土史が好きな方には比較的有名なものであるので今さら説明は不要だろうが、簡単にこの碑のいわれを記してみよう。
以下の物語は「あの山この里 : 下野伝説集(小林友雄 著・月刊さつき研究社・1976)」「藤原町の民話と旧跡(藤原町・1981)」からざっくりと引用させていただいた。
江戸時代、高徳村と小佐越村の間を流れる鬼怒川を渡る「中島の渡し」があり、そこに諸国巡礼する13人の子ども連れの六部(諸国行脚の僧)が通りがかった。
六部たちは家の前に立ち、「舟を出せ」と言ってきた。
船頭の半左衛門は所要で留守にしていたため、妻は「今は旦那がいなくて舟が出せないので、次の渡し場まで行ってください」と頼んだが、六部達は妻に舟を出すことを強要した。その風体と勢いを恐れた妻は何とか対岸に舟を出し、渡し賃を要求した。
だが六部たちは「諸国を廻る貧乏六部に金はない。黙って帰るが良い」と言い放ち、金銭を払わずに小佐越方面に去ってしまったため、妻は仕方なく家に引き返した。
程なくして帰宅した半左衛門は疲れた表情の妻を見て、「おいどうした」と聞くと、妻は「どうもこうもないよ。あんたが居ない間に貧乏六部が大勢来て、今しがた渡してきたところだよ」と話の一部始終を半左衛門に語った。
「全く癪にさわるよ。礼の一つも言わず、金も払わず行っちまったんだよ」
「何?渡し賃も払わねえ? そりゃいったいどんな奴らだ!?」
「六部の格好をしているけど偽モンだろう。おそらく野武士だか強盗だか、そんなところだよ」
「よし、こりゃあ高徳半左衛門の名が廃る。行って、渡し賃をふんだくってやる!」
半左衛門は妻の止めるのも聞かず、怒りに燃えて刀を手に取ると、舟に乗って急ぎ対岸に向かい、六部を追った。
ようやく一行に追いついた半左衛門は「おい待ちやがれ貧乏六部!」と怒鳴り、六部たちの足を止めた。
「何か用か」と六部たちは笑って応えた。
「図々しい奴らめ、俺が船頭の半左衛門だ!ずるい根性で俺の縄張りを荒らされてたまるもんか!今すぐに船賃を耳を揃えて払いやがれ!」
「船頭、俺達は金がない六部だ。無茶を言わずに帰ってくれ」
「そうはいくか。女相手ならその図々しさも通ったかもしれないが、今度はそうは行かねえぞ!」
「いつまでも無礼を言うな。さっさと帰れ」
六部は半左衛門に背を向け、また歩き始めた。
怒り心頭に達した半左衛門は、一行の後ろから刀を振るって六部たちを斬り倒し、最後は小さな子どもの助命を哀願する六部とその子どもまでも斬った。
断末魔に「おのれ、13代の末までも必ず祟ってやるぞ」と言う苦悶の形相の六部たちの首を切り落とし、半左衛門は屍と首を鬼怒川に蹴落として家路についた。
浮きつ沈みつを繰り返して屍は中岩の堰のあたりで止まったといいう。
半左衛門はやがて落ち着きを取り戻すとその罪の深さに恐れを抱き、祖先の墓前で切腹して果てた。
息子の2代目半左衛門はその後に日蓮宗に帰依し、熱心に六部の霊を弔った。そして彼は亡き父の罪がいくらかでも軽くなるように願い、その刃傷沙汰があった現場に大きな石で六部の供養塔を作ろうと思い立った。
そして日蓮宗の題目「南無妙法蓮華経」を刻もうと石工に依頼したが、その石工は最初の「南」の字を彫り終わると、突然原因不明で亡くなってしまった。二人目の石工も同様に、「無」の字を掘り終わった時点で亡くなり、その後も「妙」「法」「蓮」「華」と彫った石工はいずれも一字彫った時点で原因不明の病で亡くなってしまった。
二代目半左衛門は何とかしてこの碑を完成させようとしたが、噂を知った遠方の石工たちまでもが恐れをなし、どうしても最後の「経」を彫って完成させることはかなわなかった。
後年、村人たちは六部を哀れに思い、首が流れ着いた砥川と鬼怒川の合流地点に六部供養塔十三塚を建てて供養した。
幾度かの洪水などで塚は跡形も無くなったが、このあたりは今も拾三塚という字名で呼ばれ、堰は「首たまりの堰」と呼ばれている。
路傍には新しい供養塔が建てられ、地元の方から厚く供養を受けている。

と、まあ話の細部に違いはあるが、大まかにはこのようなストーリーが語られている。
さて、ここで終わってしまっては既存のサイトと変わらないので、いくつか不思議な点を上げてみよう。
1. 高徳村の「半左衛門」とは?
話の中で、主人公の半左衛門はちょっぴり無頼漢気味に書かれている。やいやい俺の縄張りを、高徳半左衛門の名が廃る云々などというところは、半左衛門はかなり押しが強く腕っぷしが強い人物のように想像できるだろう。
半左衛門とはいかなる人物なのだろうか。
「半左衛門」とは、高徳村の名主が代々襲名した由緒ある名である。
半左衛門を昔に辿っていくと、初代は「高徳仙左衛門」で、宇都宮氏の家臣で高徳城主であったと伝わる。
高徳城は日光市高徳の「高徳寺」の裏手の山上にあった山城だが、上杉勢に攻められて落城した。
高徳家は3代目の義成の代に「星」と姓を改める。以後4代目から18代目までのは「半左衛門」を世襲で名乗り、高徳村の名主を務めた。
六部と格闘した「船頭の半左衛門」は、17代目の「星半左衛門義照」と伝わる。
義照は江戸に出て剣の修行を積み、一刀流の達人となった。高徳に帰郷した義照はやはり高徳村の名主となった。そのような人物が船頭をして、渡し賃がもらえなかったくらいのことで子どもを含めた13人もの人間を斬り殺した、という物語だ。
19代目は「星半三郎忠久」と名乗り、幕末に出来た日本最後の藩、高徳藩の陣代家老を務めた。半三郎は明治10年(1877)頃、高徳藩陣屋跡地と言われる場所に戸田大和神社を建立した人物でもある。

23代目の星尚一は、戸田大和神社の境内地を整備し、案内板を立てた人物である。写真は筆者が数年前に撮影したものであるが、今この案内板は支柱から外れてしまって、草に埋もれているのが少々残念である。

2. 高徳を舞台とした位置関係

物語を地図で振り返ってみよう。
「高徳から鬼怒川を渡って小佐越方面に向かった六部達」に金を支払ってもらえず家に戻った妻は、帰宅した半左衛門にそのことを話した。半左衛門は怒りに震え、刀を持って舟に乗り、対岸、すなわち小佐越に向かった。そしてさらに進むと、現在六題目の碑がある辺り(日光市高徳と大原の境あたり)で六部達を見つけ、結果その場所で殺傷が起きたとされている。
六部たちは舟で高徳から小佐越に渡ったのに、なぜ高徳で六部たちと半左衛門が出会ったのか。これは支離滅裂であると言わざるを得ない。
3. 鬼怒川を渡る「中島の渡し」
勝手に渡し船や橋を掛ける行為が厳しく禁じられていた江戸時代に、「中島の渡し」と言われる小佐越と高徳を結ぶ渡しがあったのかというのがまず疑問である。
当時は、現在の鬼怒川カントリークラブのあたりの渡しが唯一で、幕末になってようやく小佐越ー大原間に架橋(萬年橋)が許されたのだ。

なんだか話はおかしくなってきたぞ。
次回に続く。

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