日光市の一里塚

一里塚とは

 今回は、日光に現存する一里塚について調べてみた。

 「一里塚」について簡単におさらいしてみよう。
 江戸幕府は慶長8年(1603)に全国の主要街道を整備し、江戸日本橋を起点として一里ごとに道路の両側に五間(約9m)四方の塚を築き、その上にヒノキ、松、けやき、杉、もみ等の木を植えたものである。
 往古、1里の長さは地方によって違っていたが、織田信長の時代に一里を36町に統一したと言われ、豊臣秀吉の太閤検地の際にも基準として活用された。これは一里=約3.927キロメートルに相当する。

 ただし、1里と言っても寺社の朱印地や非人の居住地などは距離に入れず、山地や難所などの険しい道は概算としたので実際の距離はまちまちだった。
 旅人にとっては旅程の目安となり、馬や駕籠の賃金の目安にもなった。

 現在も日本橋の橋上には地面と空中にそれぞれ道路元標地点が置かれている。

道路元標(日本橋)
空中に架けられた道路元標
道路元標
日本橋の路上の道路元標

日光市の一里塚

 日光市の一里塚を調べるに当たり、まずは日光山内に至る主要な街道を見てみよう。
 まずは何と言っても日光街道であろう。日光には「日光東照宮」があるため、その参道として整備された日光街道は「日光海道(完成当時の呼称)」「日光道中(正徳6年(1716)よりの呼称)」と呼ばれた。
 また、目的地である日光山内に向かうため、宿場の関係や単純に距離の短さ、利便性も考慮されたいくつかの脇街道が接続されている。

  • 日光街道
    日本橋から今市宿を経て日光山内に至る五街道の一つ。
  • 例幣使街道
    中山道倉賀野宿から柴宿、太田宿、栃木宿などを経て楡木宿の手前の追分で壬生通と合流して今市宿に至る街道。
  • 会津西街道
    南山通とも。会津藩主・保科正之によって設けられた会津の若松城下と今市宿を結ぶ街道。
  • 日光北街道
    奥州街道大田原宿(大田原城下)と今市宿を結ぶ脇街道。
  • 足尾道
    五街道分間延絵図の足尾道見取図には、細尾村(現・日光市細尾)、足尾を経て上野国に入り、桐生から再度下野国に入り足利まで至る街道が描かれている。
  • 中禅寺道
    いろは坂の元となった道であり、日光山内から清滝を経て中禅寺湖をつなぐ道。

 日光山内を中心としたこれらの街道のなかで、日光市には推定を含め以下の図の10箇所の位置に一里塚が確認されている。

日光市の一里塚

1. 小倉(こくら)(例幣使街道)

小倉の一里塚

 例幣使街道で江戸より29里目の一里塚。両側ともに現存するが、近くに駐車場は無く、車道より一段高くなったあまり人が歩かない歩道(?)から見ることができる。

2. 板橋(例幣使街道)

板橋の一里塚

 写真は板橋一里塚の脇に建つ如意輪観音像(十九夜念仏供養塔)。江戸から30里目の一里塚で、日光に向かって右側のみが残る。

3. 室瀬(例幣使街道)

室瀬の一里塚

 例幣使街道の江戸より31里目の一里塚。左右ともに現存している。ちなみに日光市内の例幣使街道の一里塚の案内板(柱)は、里程の記述が全て間違っているのが残念である。

4. 水無(日光街道)

水無の一里塚

 日本橋から32里目の一里塚で、左右ともに現存するが西側の塚には樹木がなく、東側に2本の杉が生えている。

5. 七本桜(日光街道)

七本桜の一里塚

 日本橋より33里目の一里塚で、左右両塚が現存する。北側の太い杉の根元には3~4人ほどが入れる空洞があり、「並木ホテル」と呼ばれた。昔は雨宿りする旅人もいたことだろう。

6. 瀬川(日光街道)

瀬尾の一里塚

 日本橋から34里目の一里塚で、日光山内に向かう最後の一里塚である。
 ちなみに日光道中で、ここより一つ手前の「七本桜の一里塚」までの距離は約3.1kmしかないのに対し、例幣使街道(壬生通)の「室瀬の一里塚」までの距離は4kmである。よって、瀬川の一里塚は例幣使街道の一里塚であると思われる。
 
 以前は案内板が立っていたがいつの間にか消えてしまった。

7. 芹沼(日光北街道) 推定

芹沼の一里塚

 今市より塩谷町を経て大田原を結ぶ「日光北街道」は「大田原道」などいくつかの呼称があり、今市宿から11里の道のりである。したがってその間には10個の一里塚があっても良いように思われるが、1800年代前半に完成された「今市ヨリ大田原通会津道見取絵図」に描かれた一里塚は芹沼新田(日光市)、芦場新田(塩谷町)、熊野木村(塩谷町)、倉掛村(矢板市)の4箇所のみである。この絵図は江戸幕府によって編纂された資料であるが、いよいよ江戸時代の終わりに迎かうこの頃にはすでに一里塚は何らかの原因で損壊してしまっていたと考えるのが妥当であろう。
 芹沼一里塚は今市宿よりほぼ正確に1里の場所にあり、十文字霊園の一角の芹沼新田と芹沼村の境界に位置する。現在は飲食店やパチンコ店、量販店が並ぶこの芹沼十文字であるが、「今市ヨリ大田原通会津道見取絵図」にも描かれている古い交差点である。
 

8. 大桑(会津西街道) 推定

大桑の一里塚

 会津西街道の大桑一里塚とされているが、これは那須郡高林村出身の郷土史家、田代善吉氏が紹介したものである。
 以下は「栃木県史第二巻 交通編(著者:田代善吉 刊:昭和47年(1972))」からの引用である。

今市町より大桑に至る。大桑に一里塚がある。塚は右手にあって、塚の上に周囲7尺位の杉1本生えている。左側に塚はない。されど高さ約3、4尺、周囲5、6尺の庚申塚3個ほどあって一里塚とは思われない。里人は一里塚と称している。或いは左側のものは、一里を崩し庚申塚となしたるものにあらざるか疑問として置く。

栃木縣史第二巻 交通編(著者:田代善吉 昭和47年(1972))

9. 上三依(会津西街道)

上三依の一里塚

 現在この周辺の会津西街道は鬼怒川の右岸(福島方面に向かって左側)を通っているが、本来の街道は上三依水生植物園の裏手を通る鬼怒川左岸の道である。
 江戸時代の景観を深く残した道で、幅は約3m。道端にはたくさんの石仏や石塔、道標を見ることができる。
 上三依の一里塚は寛文7年(1667)、会津藩によって造成されたものであり、今も両側に塚が残る。

10. 横川(会津西街道)

横山の一里塚

 この塚の前を通る会津西街道の西側に大きく突き出た岩がある(葉が生い茂る時期は見つけにくい)。これは「呼ばわり岩」といわれ、この岩に向かって大声で怒鳴ると声がこだまになって反響するとことから名付けられたそうだ。周辺に人はいない。皆さんも春夏秋冬を問わずどうぞ思う存分大声で叫んで頂きたい。
 その岩の下にあるのが横川一里塚である。別名「呼ばわり岩の一里塚」。
 塚は西側(福島方面に向かって左側)のみ現存している。

おまけ 上小池の一里塚(日光街道)

上小池の一里塚

 おまけであるが、宇都宮市と日光市の境界の宇都宮市側にあるのが上小池一里塚である。案内板等はないので分かりづらいが、新渡神社から日光街道を挟んで対面にある。日本橋から31里目の一里塚で直径約3m、高さ1.8m。西側のみ現存し、東側は開田のために破壊されて痕跡もない。江戸時代には松が植えられていたという。

 さてここまで、日光市内に残る10基(とおまけの1基)の一里塚を訪ねてみた。どの一里塚もしっかり「塚」の形態を残した立派なものである。

 しかしこれはまだ序の口である。
 地図を見ると、会津西街道の一里塚があまりに少ないことに気づくだろう。

 次回からは会津西街道の一里塚についてしらべてみる。

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