東武野口駅

 現在東武鉄道では、下今市駅から鬼怒川温泉と日光に向けて、それぞれ蒸気機関車を走らせている。
 鬼怒川温泉駅と下今市駅を往復するのは「SL大樹」である。それぞれの駅には転車台が設けられ、終点に到着したSLは180度向きを変えてSLの部分を先頭にし、また乗客を乗せて走り始める。
 東武日光駅と下今市駅(または鬼怒川温泉駅)を往復するのは「SL大樹ふたら」である。東武日光駅には転車台が無いため、東武日光駅を出発するSL大樹ふたらはバックして下今市駅に向かう。最初見たときはかなり滑稽に見えたが、蒸気機関車がバックして運行するのはまったく珍しいものではなく、転車台が無い路線を走ることを考慮して、むしろ「当然バックで走れる」そうだ。近年見た資料の中にも、新高徳駅と矢板駅を結んでいた旧・東武矢板線は、やはり復路をバックで走っていたことが書いてあった。

上今市駅

 さて、東武日光線は下今市駅を出発すると程なく上今市駅に到着する。失礼ながら決して都会とは言えない今市の中で、なぜ直線距離で1kmにも満たない間隔で駅を作ったのか、本当に謎である。上今市駅の乗降者数は近年の平均で1日あたり100人前後。観光客が利用する駅ではないので、これは通勤通学に利用する50人ほどの固定客が毎日往復をしている数字だと思われる。
 上今市駅を出発すると、列車は日光杉並木を左手に見ながら日光に向かっていく。下今市駅から東武日光駅までは、10分弱の道のりである。

東武野口駅

 そんな東武日光線に、太平洋戦争の終戦間近である昭和20年(1945)、「東武野口駅」が完成した。場所はだいや川公園から見ると次の写真のあたりだと言われている。

東武野口駅跡
地理院地図を利用して作図
東武野口駅
だいや川公園の蝶の丘から見た東武野口駅跡と思われる場所

 写真では日光杉並木から白いガードレールに沿って線路までの道が付けられているのがわかる。そして踏切の跡のようなものも見える。なるほど、ここにプラットホームに相当するものがあったと言われてもおかしくない。

東武野口駅の踏切跡?
東武野口駅の踏切跡? (@Google Googleマップを利用して作図)

 はて、昭和4年(1929)に旧・浅草駅(現・とうきょうスカイツリー駅。旧・吾妻橋駅、業平橋駅とも。当時東武線は隅田川を渡っていなかった)から日光まで全線開通した東武日光線の中で、なぜ約16年も経た後にあのような場所に新駅を作ることになったのか。その周辺の人口からして、上今市駅よりなお効率がよろしくないであろうことは明らかだ。その謎を探ってみよう。

 太平洋戦争の末期、昭和19年(1944)になると、アメリカ軍による日本本土の爆撃が開始された。これは大日本帝國が絶対国防圏と定めていたサイパンでの敗北により、米軍爆撃機B-29が容易に日本に到達することが可能となったからである。
 昭和20年(1945)7月12日の昼前から明くる日の深夜にかけて、マリアナ基地を発進したアメリカ軍のB-29爆撃機、133機は宇都宮を空襲し、宇都宮市内は600人以上が犠牲となる大きな被害を受けた。同日には鹿沼、塩谷町も空襲にあっている。ただし、アメリカ軍が昭和20年(1945)7月に作成した日本の「中小都市空襲目標地リスト」によると、宇都宮市は国内で55番目、足利市が108番目、栃木市が166番目にそれぞれ地名が出てくるのに対し、鹿沼市(当時は鹿沼町)、塩谷町(当時は船生村)はリストにない。よって鹿沼と塩谷の爆撃は当初の予定には無かったもので、宇都宮爆撃の帰路に余剰弾を使って爆撃をしたのだろうと考えられている。

 さてその頃、当時学習院初等科の5年生だった上皇陛下は、戦局の悪化により昭和19年(1944)7月10日から日光の田母沢御用邸たもざわごようていに疎開されていた。しかし宇都宮の空襲を受け、陛下はさらに奥日光湯元の南摩ホテルに疎開先を移動された。
 日光では軍需工場であった古河電気工業の日光電気精銅所が爆撃の標的になると考えられ、急遽精銅所の一部機能を移すことが計画された。選定された場所は日光町野口の東武鉄道日光線の途中だった。
 もともと日光町清滝にある精銅所には、輸送能力の不足から完成品が工場に溜まる自体に陥っていた。清滝の工場と東武日光駅は「日光電気軌道(東武日光軌道線)」で結ばれていたため、国鉄日光線に野口駅を作るよりは東武日光線上に作ったほうが効率的だったのだろう。そして昭和20年(1945)8月8日、野口周辺への工場の建設、工員の通勤を目的として急ピッチで東武野口駅が開業された。
 しかし、その工場移設もまだ準備段階であった同年8月15日、日本は終戦を迎えた。そしてそもそもの成り立ちが軍需目的であった東武野口駅は、開業後たった1週間程度で廃駅となったのである。

 日光杉並木に、前述の駅跡と思われる場所につながる道がある。

東武野口駅につながる小路
東武野口駅跡につながる小路

 東武野口駅の正確な記録は軍需目的であったためほぼ残っていないという。
 駅の外観等の写真も現在のところ発見されておらず、我々の想像する「駅」というよりは簡素な集積所のような感じだったのだろう。
 近隣の方々に話を伺っても、東武野口駅というのは確かに聞いたことがあるが、「古河の工場ができるはずだった土地」の話は聞いたことがない、とのことだった。工場建設は実際には立ち消えになった古い時代の話であるので、これは致し方ない。
 古い地図を見てみると、工場の予定地はもしかすると現在の日光だいや川公園の辺りだったのかもしれない。前述の写真のようにだいや川公園に向かう踏切の跡もあるし、昭和22年、昭和24年に米軍によって撮影された航空写真をみると、現在のだいや川公園の「チョウの丘」辺りは民家は無く、田畑や林である。こちら側を平らに慣らして工場予定地にした方が、土地買収や原料完成品の運搬にも適しているかもしれない。

 ここまでが東武野口駅の開業から終焉までのあらましである。

東武野口駅と上今市駅に関する筆者の戯言

 ただし、ここで興味深い話を地元の複数の方々から伺った。「東武野口駅は計画されたが、地元民の反対により断念、結局その計画は上今市駅に移された」という話である。その「反対した理由」はわからないとのことだった。

 「?」である。
 この話を聞きながら僕は、「上今市駅の開業は昭和4年(1929)で、昭和20年(1945)にできた東武野口駅よりずいぶん前に開業している。”野口駅の計画を上今市駅に移した”では話の辻褄が合わない」と思っていた。
 すなわち、「東武野口駅が計画された」「反対された」「仕方がないので上今市駅を作った」、という順序はありえないと思ったのだ。
 にも関わらず、多くの方が、「東武野口駅は出来なかった」と言うのである。
 いやいや。東武野口駅は間違いなく出来ている。ただし上記のような事情での突貫工事で出来た駅だろうから、粗末な設えだった上にあっという間に廃駅になってしまい、そのために地元の方々が「完成しなかった」と記憶し伝えるのも理解できない話ではない。

 しかし火のないところに何とやら。もう少しこの理由を考えてみよう。
 ここからは筆者の戯言として聞いてもらいたい。
 僕はふと思いついたことがある。
 そもそも、「東武野口駅の計画が反対された」とはいつの話なのだろうか。ひょっとするとこれは昭和20年(1945)のことではなくて、昭和4年(1929)の東武日光線の全線開通の頃の話なのではないか。
 今回の記事の冒頭に「なぜ直線距離で1kmにも満たない距離に下今市駅と上今市駅を作ったのか不思議だ」という話をした。
 僕は以前、上今市駅が設置された謎を探ってみたいと思い立ち、東武鉄道の周年記念誌や市史、鉄道の設置に詳しい著者の書籍をあたってみたが、それに触れられた箇所は見つからず、上今市駅周辺で訪ねてもその由来をご存じの方を見つけることができずに諦めていた。確かに上今市駅のみならず、下小代駅や明神駅、板荷駅、北鹿沼駅のような小さな駅の土地選定の過程を調べるのはずいぶんと骨が折れることだろう。
 その中で、東武鉄道が当時の今市町に設置した駅に関して調べられたのは以下のようなことである。

  • 下今市駅、上今市駅ともに、昭和4年(1929)の開通当初から存在する駅である。
  • 駅の開業時、下今市駅周辺の土地は今市町の所有であったのに対し、上今市駅周辺の土地は今市町の商人の所有であった。

 さて、地図上で東武野口駅跡の場所を見てみると、下今市駅からは直線距離でおよそ3.5km、さらに東武日光駅までは3.6kmであり、東武野口駅は下今市ー東武日光駅間のほぼ中間地点であることがわかる。従って、東武日光線の開業時、駅を選定する中で、野口が駅の候補地になったとしても何ら矛盾はない。

 それを踏まえての僕の予想はこうである!

「昭和初期の東武日光線建設の当初、野口に駅が作られる予定だった。ただし、何らかの事情で野口を断念し、すでに用意されていた駅舎設計図と建築資材がもったいないのでそれらを使って上今市駅を作った。」

 ちなみに東武日光線開業から遡ること7年前の大正11年(1922)3月8日、日光杉並木は「日光並木街道 附 並木寄進碑」として国の史跡に指定されている。そんな杉並木を損壊して新駅を作るとは不届き千万である!というのも反対された理由なのかもしれない。

 まぁたぶん見当違いだと思うけれど。

以上、後半は証拠の乏しい想像ばかりになってしまったが、東武野口駅について調べたお話でした。

 

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