高原新田宿の移転
栃久保新道の完成

こうして幕末の動乱期に、東北・越後からの輸送路を確保したい幕府と、西船生河岸を建設した宇都宮藩と、旧来の地位を回復したい高原新田、藤原、大原、高徳の各宿の思惑が一致し、五十里村~藤原村間の高原峠(距離24km)を通らずに、文久3年(1863)、現在の川治温泉を経由する「栃久保新道(距離16km)」が短期間で開削された。
しかし、高原新田宿だけは完全に進退窮まったと言える。栃久保新道の開通によって従来の高原峠を通る道は廃道となり、高原新田宿は人や物資の往来が途絶えることが決定的となった。それは駄賃稼ぎを生業としていた住民が生計の糧を失うことを意味していた。
だが幕府は栃久保新道の可能性を考慮した際、すでに高原新田宿に村替えの通達を行っていたと見られる。それが「村高駅役家数人別書上帳(安政6年(1859)・高松家文書)」の最後に見られる「今般被仰渡候趣奉畏候ニ付奉書上候」の一文である。この文書は栃久保新道開削の4年前に、村から領主に宛てて提出された現在の市勢要覧のようなものであり、その末尾に付け足しの形で書かれている。意味はかなりアバウトな拙訳によると「今回申し渡された件ですが、了解いたしました」ということである。
栃久保新道が開通したとしても、五十里~藤原間は距離も上り下りもあり、人馬が休める宿場が必要となる。そこで高原新田宿の住民は、内々で幕府より打診された村替えの通達を受け入れ、200年を超える先祖伝来の旧地を捨てて山を下りる決断をした。そして新しく道ができることになる当時官有地だった「藤原村字栃久保(当時は栃窪)川原」の無償提供を願い、そこに移転することで宿駅として継立てを行い自らの生活を成り立たせ、さらには会津西街道に商荷の流れを向けることで小佐越新道との論争にも終止符を打とうと考えたのだ。
幕府は住民の生活を憂慮し、移転費用として問屋の大塚家に20両、年寄の高松家、組頭の香取家、その他7名に対し合計100両を与えた。翌年の元治元年(1864)3月20日には移転を完了し、住所を「藤原村字栃久保川原」から「高原村字川原」と改称した。ここに高原村の飛び地が出来たことになる。
旧来の土地を手放すことに対し、村人が大いに悩んだであろうことは想像に難くない。しかしこの栃久保新道の構想がもし数年遅れていたら、村の存亡に大きく影響を及ぼしたことだろう。峠の小さな宿駅はもう限界だったのだ。
周囲の状況を把握し、人や物の流れを考慮した結果、峠越えの旧街道はもはや時代遅れと判断したことは英断であった。困窮した高原新田宿は、幕府から土地の無償提供と移転費用の提供を受け取り、短期間で移転を完了し、村の大事を乗り切ったのである。
高原新田宿の村民が下った道は、旧会津西街道の「川治分去れ」と言われる分岐点から、栃久保に下る道であった。

高原磁石石 (日光市指定文化財)
次の写真は「高原磁石石(日光市指定文化財)」である。
「文久三年下ル」の文字が刻まれたこの磁石石は、200有余年に渡り住みなれた旧地を離れる村民の愛惜の念を刻みつけたものであるとされている。
ただし現在では「この文字は後年に刻まれたものである」というのが定説である。

高原磁石石の場所は、鶏頂開拓や旧高原新田宿跡にお住いの方に伺ってもほとんどご存知ではない。
それも当然である。旧会津西街道の途中にあるこのあたりは生活道路としては一切使われていないのはもちろんのこと、登山道でさえない山中である。ここを訪れる者は鹿かクマか「高原磁石石を見てみたい」という目的を持った人のみに限られ、誰かがたまたま通りがかる場所ではない。場所をしっかり把握してから行かないと、ただ単に鹿のフンまみれになって撤退する羽目になるだろう。最初に訪れた僕のように。
高原新田宿跡から旧会津西街道を南西方向に進むと鹿よけのフェンスが現れる。ここを開けて進むと眼の前はまんじゅう型のなだらかな下り坂で、踏み跡だか獣道だか涸れ沢だかわからない道が幾筋もありどの方向にでも下っていくことができるが、正解の道は先ほどくぐったフェンスに沿って右に進む踏み跡だ。
栃久保新道完成後の備蓄米の輸送
ちなみに前章で、
・西船生河岸の開業により優位性を得た会津西街道の宿駅が、「附け通しの禁止」、「問屋を中心とした荷の継ぎ送り」などの旧態依然としたシステムの再構築をしたことにより、会津方面の商人から猛烈な反対運動が起こったことを述べた。
加えて、
・栃久保新道は、万が一の海上封鎖に備えた幕府が、東北・越後方面から江戸や日光へ向けての物資輸送路を確保することを喫緊の課題として開削されたことも述べたとおりである。
さて栃久保新道が開通していよいよ、幕府が会津藩より購入した400俵ほどの備蓄米が今市御蔵に運ばれることになった。宿駅側はウォーミングアップをして廻米輸送に備えていたことだろう。しかしこの時幕府により備蓄米を運ぶことを命じられたのは、なんと宿駅伝馬制度ではなく、街道沿いの仲附70人、馬427頭であったのだ。
「米」は幕府や藩が扱う荷の象徴とも言えるものである。その廻米の輸送に仲附が選ばれたということは、「緊急事態に即応できるシステムは仲附である」と、幕府が判断したことに他ならない。この頃にはすでに問屋継立ての手法は意義を失っていたのだ。
このようにして、会津西街道の宿駅と仲附の長年に渡る抗争は、思わぬ形で決着を迎えることとなった。
つづく。


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