東海道五十三次 Day12 「岡崎-知立-鳴海-宮」(2)

東海道五十三次 Day12 「岡崎-知立-鳴海-宮」

 旅も12日目。岡崎から宮(熱田)までの旅の後編である。
 境橋を渡って尾張国に入った。

阿野の一里塚

 江戸より86里目で両塚を残す。国指定史跡となっている。

阿野の一里塚

間宿 有松

 国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている有松。
 江戸時代にタイムスリップしてきたかと思うほど、道の両側に古い建物が軒を連ねる。

間宿 有松

 有松は「有松紋」と呼ばれる絞り染めで有名だった。もともと有松やこの先の鳴海は耕地が少ない上、旅籠や茶屋などの収益にも限界があったため、尾張藩が絞り染めを副業として推奨したことが由来である。
 その後、有松を通る旅人たちが絞りの手拭いや浴衣を競って買い求める程有名になったため、北斎や広重を始めとする浮世絵の題材として度々描かれるようになった。

間宿 有松

 天明4年(1784)、有松村を襲った大火によって街並みはほとんど焼失してしまった。その為、再建の際には火事に強い漆喰を用いた塗籠造ぬりごめづくりを採用し、茅葺きだった屋根も瓦に変えられた。
 その堅固な造りによって有松は当時の建物が今も残り、服部、岡、小塚、竹田の各住宅が絞り問屋の様子を伝える建物として文化財に指定されている。

間宿 有松

 透き通った冬の晴れ空のもと、有松の街並みを楽しむ。
 主要な建物の前には案内板が整備され、古い建物からも比較的新しい建物からも観光客に向けたおもてなしの心が感じられる。とても居心地がよい。

間宿 有松

 屋号「笹加」の竹田家、「井桁屋」の服部家、築100年を超える旧商家で手打ち麺処を営む寿限無茶屋、山形屋など建物に、いちいち足を止めてカメラを向ける。

間宿 有松

 ご覧のとおり人はあまり歩いていなかったが、幸せな気分で街歩きを楽しんだ。

間宿 有松

 宿の中央ほどにある「絞会館」では国の指定伝統工芸品である有松絞、鳴海絞に関する資料が展示されている。

間宿 有松
間宿 有松
間宿 有松
間宿 有松

東海道五捨三次之内 「鳴海 名物有松紋」歌川広重

 広重は「鳴海」としているが描かれているのは有松の風景である。昔の繁栄の様子が偲ばれる。

東海道五捨三次之内 「鳴海 名物有松紋」歌川広重
東海道五捨三次之内 「鳴海 名物有松紋」歌川広

有松の一里塚

 間宿有松を抜けるとすぐに有松の一里塚。鎌砥橋の一里塚とも。大正13年(1924)に民間に払い下げられ塚は壊されてしまったが、平成24年(2012)に復元された。
 江戸より87里目。

有松の一里塚

鳴海宿

 文化3年(1806)建立の秋葉山常夜灯。ここが鳴海宿の江戸口(東口)で、宿内の防火を祈願して建立されたものである。。
 「鳴海」の名は近くに海があり潮騒が聞こえることに由来する。とは言っても、伊勢湾の北部分が大規模に埋め立てられる前の明治24年の地図を見ても海までは3kmほど離れている。昔はそれほど静かだったということだろうか。

鳴海宿秋葉山常夜灯

 鳴海宿の街並み。特に古い建物は残っていない。本陣1、脇本陣2、旅籠68軒で、尾張藩はここ鳴海と有松にのみ絞り染めの生産を許可して保護した。

鳴海宿

千代倉本陣跡

 解説板が置かれている。本陣の敷地678坪、建坪235坪、総畳数159畳。

鳴海宿本陣

丹下町常夜灯

 鳴海宿内には特に見るべきものがなく、たんたんと京口(西口)にたどり着く。寛政4年(1792)に地元篤志家の寄進により造られた。

鳴海宿丹下町常夜灯

笠寺の一里塚

 東塚を残す。西塚は大正時代に取り壊された。
 塚木は榎で江戸より88里目。

笠寺の一里塚

笠覆寺

 天林山笠覆寺りゅうふくじは真言宗の寺院で笠寺観音とも呼ばれる。

笠覆寺

 天平5年(733)頃、僧・善光が浜辺に打ち上げられた光を放つ霊木で十一面観音像を彫り、天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。

笠覆寺

玉照姫

 小松寺が荒廃して、観音像が雨ざらしになっているのを見た心優しい娘は自分が被っていた笠を観音様に掛けた。その功徳からか、後に娘は青年貴族・藤原兼平に見初められ、玉照姫として嫁に迎え入れられた。
 夫婦は出会いのきっかけとなった観音様に感謝してお堂を建ててお祀りした。このことから笠で覆う寺、すなわち笠覆寺という名に改められたという伝説がある。

笠覆寺 玉照姫

宮本武蔵之碑

 1620年代頃、宮本武蔵は尾張藩への仕官を目指してこの地に滞在した際、笠覆寺の宿坊であった東光院に逗留し、この時多くの弟子に剣術の指南をした。結局仕官は叶わなかったが、武蔵の百回忌(1744年)に門弟たちによって「新免武蔵守玄信之碑」が建てられた。 

笠覆寺 宮本武蔵之碑

人質交換の地碑

 今川・松平の連合軍は織田方の安祥城を攻め落とし、城主の織田信広を捕らえた。今川方は、以前に人質として織田方に連れ去られていた松平竹千代(のちの徳川家康)と織田信広を人質交換するよう要求し、交渉が成立した。双方は笠覆寺の境内で引き合わされ、竹千代は今川方の拠点である駿府へ送られることになった。

笠覆寺 人質交換之地碑

 旧東海道は国道1号線の下を並行して進む。道路が改修中のようで、こんな風に日本の大動脈が造られているんだと、土木建築のことは全くわからないが感心しきり。

国道1号線

伝馬町の一里塚

 伝馬街園として一里塚跡が整備されている。江戸より89里目。

伝馬町の一里塚

裁断橋

 大正時代まで熱田区内には精進川が流れ、この場所には裁断橋が架けられていたが今は全く川の名残も見えない。それもそのはず、精進川は昭和元年(1926)に埋め立てられてしまい、裁断橋も撤去されてしまったからである。
 以前は精進川を三途の川に見立て、閻魔大王が裁断する場から裁断橋の名がつけられたという説もあり、橋の袂には死者の衣服を奪い取る奪衣婆を祀った姥堂があった。

裁断橋

 昭和28年(1953)、裁断橋はこの場所に縮小復元されたが、名古屋市の文化財に指定されていた元の橋の欄干の擬宝珠(ぎぼし)の複製がこの場所に置かれている。その中の一つには、私財を投じて橋の架け替えを行った堀尾金助の母が刻んだ亡き子を偲ぶ文字が見える。
 天正18年(1590)の小田原城の北条攻めに従軍した堀尾金助は尾張の丹羽郡御供所村(現・愛知県丹羽郡大口町)の土豪出身で、18歳の若者であったが、戦場で病死したと言われている。
 これを悲しんだ母は、金助の菩提を弔うため、没後まもなく裁断橋の架け替えを行っている。その後、元和8年(1622)、金助の33回忌の年に二度目の架け替えを行った。この時に擬宝珠に一字一字丁寧に刻まれた銘文が以下である。

てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ちん、ほりをきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見さるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんしやう ふつし給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまて、此かきつけを見る人は念仏申給へや、卅三年のくやう也

「天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、逸岩世俊(金助の法名)と、後の世の又後まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也。」
裁断橋

宮宿

 宮宿は熱田神宮の門前町として栄え、東海道五十三次の中でも最大級の賑わいを誇った宿場である。宮からは越前路、美濃路、佐尾路の分岐や桑名までの七里の渡しを控え、お伊勢参りや参勤交代の大名の出入りも多く、本陣2、脇本陣1、旅籠は248軒を数えた。

熱田神宮

 熱田神宮は伊勢神宮に次ぐ大宮で、三種の神器の一つ「草薙の剣」を祀る。延喜式名神大社・勅祭社に列せられ、国家鎮護の神宮として尊崇を集める。
 熱田神宮の敷地は広大で幾つかの門があり、どこから入ればくまなく参拝できるのか悩んだ。歩いている地元の方に聞いてみたら、南門から入るのが良いだろうとのことだった。

熱田神宮南門

 強そうな雄鶏が出迎えてくれる。数人がスマホのカメラを向けていたので、御利益がある有名な雄鶏なのかもしれないと僕も一枚撮影。

熱田神宮

 それほど観光客も多くなくゆっくりと回って参拝。御朱印も頂いた。東海道中には数え切れないほどの神社仏閣があるため、旅を始める前からあらかじめ御朱印を頂く場所を決めておいた。ここまで三嶋大社、熱田神宮のニ箇所で頂いている。

熱田神宮

東海道五捨三次之内 「宮 熱田神事」歌川広重

広重は「熱田神事」として熱田神宮の夜の馬追いの神事を描いている。2頭の馬を追う二組の祭の男たちからは勇ましい掛け声が聞こえてくるようだ。

東海道五捨三次之内 「宮 熱田神事」歌川広重
東海道五捨三次之内 「宮 熱田神事」歌川

熱田の杜 ホテル深翠苑

 本日のお宿は熱田神宮の北側にあるホテル深翠苑。朝食付きで1泊7,500円。

熱田の杜 ホテル深翠苑

 ホテルを出て食事と飲酒活動をする場所を探す。

 ここでかなりびっくりした出来事があった。
 極めて高い格式を持つ熱田神宮のお膝元「熱田神宮前商店街」は現在、いずれの業種を問わず開店している店を見つけることが難しい。時計屋、靴屋、カラオケ店、トランプ屋(?)、長崎カステラ屋(?)、様々な業種の看板があるが、誇張ではなく9割の店が閉店している。神宮前商店街は昭和20~30年代に建設した店舗が多くかなり老朽化が目立つが、複数の店舗が連なる長屋形式なので1店舗単位の増改築は著しく困難なのだという。この状態では、観光客がお金を落とすことは頑張ろうとしても不可能である。やってないんだもん。
 ここは熱田神宮以外、昭和の都市開発の波に飲み込まれて江戸時代の面影を感じる場所は全く無い。マンション等の住宅がほとんどで、何なら「昭和の面影を残す」くらいなもので観光地としてあまりにもったいない。恐らく近いうちに再開発が行われるのだろう。
 当然人はまばらで、食事は自ずと「唯一開いていた」店舗を利用するしかなかった。

熱田神宮前商店街

 明日は七里の渡を越えて桑名、四日市に向かう。江戸時代、東海道は宮から桑名までは舟による移動が一般的だったが今は船渡しはない。
 仕方なく東海道五十三次には全く関係ない一般道を歩くことになるが、どの道を通っていけばよいのかを「唯一開いていた店舗」の主人に尋ねた所、「歩いて!? いや、そんなことは考えたことがないのでわからない」とのことだった。

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