
旅は12日目、天気予報は曇りのち晴れ。本日は岡崎宿から熱田神宮の門前町、宮宿まで歩く。
この辺りは現在の愛知県だが、昔の行政区で言うと三河国から尾張国をまたぐ行程である。三河国までを前半、尾張国からを後半として書く。
岡崎宿
朝、日の出とともに出発する。前夜の火事騒ぎは誤報ということで、エレベーターホールには以下のような紙が張り出されていた。

岡崎宿二十七曲り
岡崎城下である岡崎宿は城の防備のために「二十七曲り」と呼ばれる屈曲した道になっていた。もちろん現在の道は国道1号線として真っ直ぐに作り変えられているが、細い二十七曲りの旧道を辿るのはなかなかの困難さである。以下はGPSデータだ。何度も曲がる角を間違えていることがわかる。改めて見るとなんと遠回りをしているのだろう。
ちなみに旧東海道からは建物のせいで岡崎城は見えない。

本陣跡
岡崎宿は小さな藩であったが矢作川の舟運が盛んで、駿府に次ぐ賑わいを見せた。伝馬町1丁目角にある西本陣跡、伝馬町2丁目交差点付近の東本陣跡など、本陣と脇本陣が3軒ずつ備えられた。

二十七曲りの道標
二十七曲りの角には道標が置かれている。古いものもあるが殆どは近年に観光客向けに建てられたものである。
しかし道標の曲がり角と「ちゃんと歩ける東海道」に記された曲がり角は少し違いがある。

岡崎信用金庫資料館
大正6年(1917)に岡崎銀行本店として建てられたルネッサンス様式の建造物で、現在は資料館として開放されているということだ。国の登録有形文化財に指定されている。

八帖往還通り
古くから続く八丁味噌の老舗が道を挟んで向かい合う。ほんのりと味噌の香りがする。八丁味噌とは八丁村(八帖村とも)で造られることからその名がついた。
まるや八丁味噌は延元2年(1337)創業、カクキュー八丁味噌は正保2年(1645)の創業。

カクキューの当主は代々「早川久右衛門」を名乗り、「久」の字を四角で囲んだロゴマークが有名である。

江戸時代以降、大田家と早川家がつくる八丁味噌は今も岡崎を代表する商品である。矢作川の舟運が盛んであったことから原材料の大豆や塩の仕入れ、完成品の出荷にも便利であり、矢作川の伏流水や気候も上質な味噌の醸造に有利だった。
矢作橋
矢作橋を渡る。地名の読み方は難しく、知らないとなかなか「矢作」を「やはぎ」とは読めないが、お笑いコンビ「おぎやはぎ」のお陰で矢作の読み方は以前より認知されているのかもしれない。
矢作川の川幅は広く豊富な水量を備えていたため、舟運が盛んで岡崎は商業の町として栄えた。日吉丸(豊臣秀吉)と蜂須賀小六はこの橋の袂で出会ったといわれている。
昔から浮世絵では様々なアングルでこの橋が描かれた。

東海道五捨三次之内 「岡崎 矢矧之橋」歌川広重
歌川広重は矢作橋と、遠景に本宮山と徳川家康の居城でもあった岡崎城を描いている。矢作橋は当時374mほどの長さで東海道で一番長い橋であった。
橋の上には大名行列が進んでいる。

橋を渡った場所から振り返ってみる。広重の絵と近いアングルのはずだが岡崎城は見えない。もっと晴れていれば見えるのかな?

矢作の一里塚(推定)
矢作の一里塚は勝運寺の辺りにあったと言われている。江戸より82里目。

尾崎の一里塚
東海道の「と」の字もない道が続くが、道路沿いにポツリポツリと松並木があるためここで間違いないと判断できる。途中、熊野神社の参道入口に尾崎の一里塚跡。江戸より83里目。

永安寺 雲龍の松
一般的に松は垂直に伸びる。東海道には松並木が多いが、写真のように横に幹や枝を伸ばしたものは珍しい。
この辺りは江戸時代、大浜茶屋村と呼ばれ刈谷藩が治めていた。村は東海道の宿場町の助郷役(宿場に定められた数の人馬だけでは足りない時の助っ人)を命じられたが、村の名主「柴田助太夫」は村の窮状を管理する刈谷藩に願い出た。助太夫は死罪になってしまうが、後に大浜茶屋村の助郷免除が認められた。村では名主が代替わりするたびに助太夫の悲しい一件を説明し、村の助郷免除は幕末まで続いて認められた。
村では助太夫に感謝し、彼の住んだ邸宅跡に永安寺を建立して菩提を弔った。

ちなみに旧・日光市のガストさんの近くにも立派なヒメコマツがありますよ。↓
これもすごい。

池鯉鮒宿
「池鯉鮒」と書いて読める人は日本にどれくらいいるだろうか。
現在は知立市であるこの辺りは江戸時代、「池鯉鮒」と書かれた。池鯉鮒・知立、読み方はどちらも「ちりゅう」である。
この地の知立明神の池に多くの鯉や鮒が飼ってあったことから「池鯉鮒」の字が当てられたという。
来迎寺の一里塚
江戸より84里目で、両塚を残している。
↓は南塚。

↓こちらが北塚。塚木はどちらもクロマツ。

知立の松並木
岡崎から知立の間の旧街道は相変わらずの二車線道路でセンターラインが無いところもある。そして今も残されている松の並木が旧街道の風情を残している。
昔は1kmほどの長さがあった知立の松並木は住宅の造成によりどんどん短くなり、さらには昭和34年(1959)の伊勢湾台風ではなんと並木の7割が倒木した。
現在見られる松並木は昭和45年(1970)に新たに植樹されたものである。

並木脇の歩道は地下に張り出された松の根によってかなり歪んでいる。これは致し方ないのだろうがボサッとしていると躓いてしまいそうだ。

国道419号線の高架をくぐると道の左手には幾つかのモニュメントや句碑、解説板が置かれているので足を止めて見学する。
人参だか大根だかを背負って舟に乗った猫に、鯉(鮒?)が話しかけている。これは地元の物語を表現したものだろうか。

馬市句碑・馬市之跡
モニュメントの中に「馬市句碑・万葉の歌碑」と題されたものがある。この辺りは昔から大きな馬市が開催されていたが、今はその牧歌的な風景は感じられない。


東海道五捨三次之内 「池鯉鮒 首夏馬市」歌川広重
江戸時代、知立のこの場所で毎年4月25日から10日間に渡って開かれた馬市はつとに有名で、広重は馬市の様子を描いている。ただし広重は7月にここを通過したため馬市を実際には見ていない。
市で売られる馬の群れが、馬主と博労とともに描かれている。中央の一本松は「談合松」と呼ばれ、その下では馬市に集まった群衆が値段交渉をしている。近くには食物を売りに行く行商人の姿も見える。

池鯉鮒宿内
国道1号線を横断してセンターラインさえない細い道を進む。ここからが池鯉鮒宿内となる。
池鯉鮒宿は本陣と脇本陣がそれぞれ一つ、旅籠35軒とされ、それほど大きくない宿場だった。

古い建物、思わず足を止めてしまう場所はそう多くはないが、今や裏道となってしまった旧東海道を進む。

池鯉鮒宿 本陣跡
旧街道から少し離れて永田家が務めた本陣跡がある。「少し離れて」と書いたが、この永田本陣は敷地が3千坪、建坪300坪とかなり広大で、ここから旧東海道に面する場所までが敷地だったのだろう。

知立古城阯
三河地方の有力者で代々知立神社の神官を務めた永見氏の居城だったが、桶狭間合戦のすぐ後に織田信長の軍に攻められ落城した。天正年間(1573~1592)、永見氏に代わって知立城を支配した刈谷城主・水野忠重によって御殿が建てられ将軍の上洛用として利用されていたが、元禄12年(1699fc)の大地震によって倒壊。その後再建されることはなかった。
今は広場となっており昔を偲ぶものは見当たらない。

敷地内には明治天皇御小休止所阯もある。明治天皇は明治23年(1890)4月1日の陸軍大演習を拝謁した際、この場所にあった明治用水水利組合事務所で休憩された。

総持寺
総持寺は天台寺門宗の寺院で池鯉鮒大明神(現・知立神社)の別当寺。明治5年(1872)の神仏分離令で総持寺の住職・神山亮円は知立神社の神官となり、無住となったことで廃寺となった。昭和2年(1927)、地元で再興を期待する声が上がり再興された。

於万之方誕生地碑
境内には徳川家康の側室で結城秀康の生母である長勝院(通称於古茶、於万)の誕生地碑がある。長勝院は池鯉鮒大明神の神官・永見吉英の娘であるため、別当寺であったこの地で生まれたのだ。

一ツ木の一里塚
国道1号線に合流してもくもくと歩くと歩道橋の下に一ツ木の一里塚跡。刈谷の一里塚とも。江戸より85里目。
一ツ木村にはその名の通り一本の大きな樹があったが。伐採されて刈谷城の太鼓楼門の門扉になった。

旧東海道は国道1号線を縫うように緩やかに蛇行している。国道1号線から一歩入ればそこは細い旧街道で、連子格子や長屋門を持つ旧家が多く残されている。

何度も言うが、これらを維持していくのはお金も手間暇もかかるだろう。思わず足を止めて眺めてしまう旧家だ。はたから見ると怪しい人になってしまうが。


今川町の交差点。なんてこと無い交差点だが、この日は令和8年2月26日。昨日からこの交差点は改良工事のために通行止めとなり、回り道を強いられる。

橋の下の天井の低い道を歩く。

境橋
地上に出ると間もなく境川が現れ、境橋が架かっている。ここが三河と尾張の国境になる。
江戸時代、この橋の中央から三河側(手前側)は土橋、尾張側は板橋で造られた継ぎ橋になっていた。質素倹約な三河国と派手好きな尾張国の気質を表していると言える。

烏丸光廣 狂歌碑
「うち渡す 尾張の国の境橋 これやにかわの 継目なるらん」
江戸時代前期の公卿であり歌人でもあった藤原朝臣光廣が詠んだこの歌は、古今夷曲集などの狂歌集にも多く掲載された。当時継ぎ橋として有名だった境橋の尾張の派手好みと三河の質素な気風の違いを表現し、国境を接着する「膠」と三河をかけている。

本日はここまでで約20kmと少し歩いた。目的地の宮宿まで残り半分である。
境橋を渡ると雲が一気に流れて青空が見えてきた。
つづく。

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