東海道五十三次 Day11 「吉田-御油-赤坂-藤川-岡崎」(1)

東海道五十三次 Day11 「吉田-御油-赤坂-藤川-岡崎」

 朝自然に目覚めると朝食の時間が近い。本日の予定は吉田宿を出発し、御油、赤坂、藤川を経て岡崎宿に着く32km程度の予定なので、慌てて早朝に出発しなくても大丈夫なのだが天気予報は一日中雨である。本日の写真はそういった理由で雨模様のそれである。

吉田宿

豊橋ビジネスホテル

 豊橋ビジネスホテルというシンプルな名前のこの宿はウェルカムドリンクとしてアルコール飲料を含む飲み物をいただける上、朝食まで付いて6,000円というリーズナブルなお値段である。愛知と言えばモーニング。

 お腹が一杯になったところで折りたたみ傘を出して出発。雨が降っているが冬の時期の服装は雨具を兼ねていることも多いため、しっかりとした本降りでなければ傘で十分だろうと判断した。

東海道五捨三次之内 「吉田 豊川ノ橋」歌川広重

 左手に描かれた旧東海道の吉田大橋は現在の場所ではなく下流側の「豊橋」の辺りに架かっていた。修繕中の吉田城からは職人が足場から手をかざして橋の方を眺めている。豊橋を渡って先に進むが吉田城はビルや樹木に阻まれて見られなかった。

東海道五捨三次之内 「吉田 豊川ノ橋」歌川広重
東海道五捨三次之内 「吉田 豊川ノ橋」歌川広重

下地の一里塚

 標石がある。江戸より74里目。

ヤマサン

 元禄16年(1703)創業と320年以上続くヤマサン。現在はこの建物の道を挟んで反対側に大きな倉庫と本社機能があるが江戸時代は大豆や菜種の搾油業で財を成した。

 国道1号線と並行して西側を通る県道496号線が旧東海道である。「高橋」という橋を渡るが歩道が無いので生きた心地がしない。

 途中で橋下に降りられるところがあったので下側に回ってみた。おそらく旧道と思われる道にコンクリート製の小さな橋が架かっている。流れる小川は善光寺川という。元々はこの橋が使われていたのだろう。

 橋の名は「万石橋まんこくばし」というらしいが、橋名板に書かれた川の名前は「善光寺川」ではなく「悪水路」。恐ろしい謂れでもあるのだろうか。躊躇したが渡らざるを得ない。

菟足神社と子だか橋

 万石橋を渡るとすぐに子だか橋の碑がある。菟足神社うたりじんじゃにまつわる悲話が語られている。

「子だが橋」

子断(こだん)が橋ともいわれ、明治時代には『小田橋』と書いてあった。
およそ一千年前 菟足神社には人身御供ひとみごくうがあり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があったと伝えられている。
ある年のこと、贄狩りにえがりに奉仕する平井村の人の前を若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。見ればわが子である。
「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。
それからこの橋の事を、こだが橋と呼ぶようになったということである。
現在、菟足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われている。

豊川市教育委員会から引用

 今から千年ほど前といえば平安時代の話だろうか。今とは時代が違うとは言え無茶苦茶な話だと思うが、注目すべきは「現在、十二羽の雀を贄に替えて」という一文である。現在も生贄を捧げているのだろうか。

 秦の始皇帝は日本に不老長寿の薬があると信じ徐福を派遣した。一行はこの地に定住し「はた」氏を名乗り、その末裔が白鳳15年(686)年、この神社を創建したという。

伊奈の一里塚

 ここも標石のみ。江戸より75里目。

 雨は降ったり止んだりを繰り返す。旧東海道はこんな感じの寂しい道である。

国府の秋葉山常夜灯

 名鉄名古屋本線の国府こう駅の側に寛政12年(1800)年建立の立派な秋葉山常夜灯。国府こう村の火伏せの守護神。

大社神社

 大社神社は三河国府の総鎮守。境内を取り巻く白い土塀は、相良城主であった田沼意次が老中であった期間に置かれた田沼陣屋から移築されたものである。
 徳川14代将軍家茂いえもちは長州征伐の際、戦勝を祈願し短刀を奉納した。

 ちなみに田沼意次は栃木県佐野市の田沼町にそのルーツがあり、意次の先祖は鎌倉時代に田沼町を治めていたということだ。

御油の一里塚

 江戸より76里目。標柱が残る。

ベルツ博士の妻「花」の実家跡

 明治時代に日本近代医学の基礎を築いたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツの妻となった花(荒井花子)の実家の跡だそうだが、今は砂利の駐車場である。
 花は元治元年(1864)11月18日に生まれた。父・熊吉は御油から江戸に出て妻・荒井ソデの婿養子に入り荒井を名乗ったが、花が4歳のときに熊吉とともに実家の御油に帰った。
 しかし花が7歳のときに熊吉が突然他界したため、花は東京の母を頼って東海道を一人で歩いて帰ったという。
 大人の僕でもかなり大変な旅である。7歳の女の子が一人で、僕が今まで歩いてきた道を逆に辿って東京に向かったとは。

御油宿

 御油宿に入る。御油は吉田城の城下町であった吉田宿の堅苦しさを避け、また姫街道の追分もあったために賑わい、全盛期には4軒の本陣(うち2軒は天保4年(1833)の火事で焼失)と62の旅籠を擁した。特に飯盛女(遊女)が盛んで旅人を相手に半ば強引な客引きが行われたという。

本陣跡

 約100年に渡って味噌、醤油の製造販売を行うイチビキの場所に御油の本陣があった。鈴木半左衛門が務めた。

東海道五捨三次之内 「御油 旅人留女」歌川広重

 広重は御油の夕暮れ時を描いている。今夜の宿を探す旅人と強引な柔道技で客引きをしている宿の留女。男性がとても苦しそうなのがユーモラスで面白い。側を通る若い女性と宿の中の留女がこの勝負の行方を見守っている。個人的に歌川広重の東海道五拾三次の中でお気に入りの一枚で、御油宿の風景が見てみたかった。

東海道五捨三次之内 「御油 旅人留女」歌川広重
東海道五捨三次之内 「御油 旅人留女」歌川広重

 御油宿の町並み。広重が描いた場所はどのあたりだったのだろうか。所々に古い建物が残っており歩いていても気持ちが良い。

御油の松並木

 江戸幕府が開かれた直後の慶長9年(1604)に大久保長安によって植樹された。大久保は全国の都市計画や交通網の整備などを行って江戸幕府の財政基盤を支えた代官頭だった。
 東海道中膝栗毛では喜多八と弥次郎兵衛が宿の婆に「悪い狐が出て人を化かす」と脅かされた松並木として登場する。

 600m余り続く松並木は今もなお松の古樹が壮観である。

赤坂宿

 御油宿から1.5kmほどで赤坂宿に到着。宿場間の距離は東海道の中で最短である。松尾芭蕉は御油を出てからあっという間に赤坂宿に着いてしまう様子を「夏の月 御油より出でて 赤坂や」と詠んだ。
 赤坂宿は多くの旅籠が立ち並び、御油と並んで遊興の宿だった。本陣3、脇本陣1、旅籠62軒とこれも御油と同様の規模である。

高札場

 赤坂宿内は現在も幾つか古い建物が残り、観光客に向けた解説板も多い。これはポケットパーク内にある復元された高札場。

旅籠 大橋屋(鯉屋)

 現存する建物は文化6年(1809)赤坂宿の大火の後に建てられたものと伝わる。現在は見学可能な施設ということだが僕が通った時には閉まっていた。
 この建物はなんと平成27年(2015)までは宿屋として営業していたそうだ。泊まってみたかった。

東海道五捨三次之内 「赤坂 旅舎招婦ノ図」歌川広重

 広重は赤坂にあった旅籠「清州屋」をモデルとして描いている。左側にはくつろぐ客と食事を運ぶ女中、挨拶する按摩。奥の階段の下には行灯が並べてある。右側には布団が積み上げられた横で化粧する飯盛女。
 絵の中にあるソテツの木は浄泉寺の本堂前に移植されている。 

東海道五捨三次之内 「赤坂 旅舎招婦ノ図」歌川広重
東海道五捨三次之内 「赤坂 旅舎招婦ノ図」歌川広重

長沢の一里塚

 標柱のみ残る。江戸より77里目。

長沢村道路元標

 豊川市立長沢小学校の横を歩いていたら、ふと目に止まった石柱が。学校敷地内なので勝手に入って見ることはできないが明らかに道路元標の形をしている。これは帰宅してから調べたところ「長沢村道路元標」ということだ。

本宿

 赤坂宿を過ぎてしばらく行くと国道1号線に合流する。そこからしばらくは見るべきものは何もない退屈な車道歩きになる。雨も強くなったり弱くなったりしながら間断なく振り続けている。
 途中から左折し旧道に入る。ここからが本宿もとじゅくである。本宿は赤坂宿と藤川宿の間宿あいのしゅくにあたり、法蔵寺の門前町として形成された。

 道標に従って旧道に入る。

 旧街道の面影を残す細い道。古い建物も幾つか見られる。

法蔵寺

 二村山法蔵寺は浄土宗西山深草羽の寺院で大宝元年(701)行基による開基と伝わる古刹。徳川家康が幼少のころに手習いや漢籍などの学問に励んだと伝えられ、桶狭間の合戦の後には守護不入の特権を与えられた。徳川幕府の庇護も厚く江戸時代を通じて門前では下馬とされた。

御草紙掛松

 参道口には家康ゆかりとされる御草紙掛松おんそうしかけまつがある。聞き慣れない言葉だが、平たく言えば「家康公が勉強した紙を引っ掛けた松」ということである。
 松は虫害により幾度か枯れてしまい、現在のものは4代目として平成18年に植えられたものである。

近藤勇首塚

 新撰組隊長の近藤勇のものと伝わる首塚。近藤勇は明治元年(1868)、中山道板橋宿(東京都板橋区)の板橋刑場で斬首され、その後首は板橋に数日晒された後に京都へ送られて三条大橋西詰で晒し首にされた。そして晒されてから三日目に首は何者かに寄って持ち去られ、今現在も行方は不明である。
 言い伝えでは首は近藤が生前に敬っていた京都新京極裏寺町の法蔵寺称空義天しょうくうぎてん大和尚に託された。しかし和尚は徳川家ゆかりの三河の法蔵寺に転勤していたため、ここ法蔵寺に運ばれて埋められたという。

 首塚と言われる場所では実際に昭和33年(1958)に発掘調査が行われた。調査では頭部の骨は出てこなかったが変わりに墓碑の台座が発見された。それが上の写真では右側に写っている石碑の台座部分で、11人の氏名と建立者1名、世話人2名、合計14名の名が刻まれている。
 これを見てみると、一番はじめに「土方歳三」の名が刻まれているがその他の名は戊辰戦争で土方とともに宇都宮戦を戦った伝習隊や回天隊の面々であり、新選組隊員の名は見られない。
 ここに刻まれた名前から調べると、土方歳三は慶応4年(1868)4月19日、宇都宮の戦いで負傷。回天隊の佐藤善ニ郎と太田政一郎もともに負傷、回天隊長の戸村静一郎は宇都宮で戦死している。土方ら負傷者は宇都宮から今市まで搬送され、24日に会津田島方面に出立している。名が刻まれた太田や佐藤もおそらく今市を訪れたのではないだろうか。

 ここで不思議なことがある。
 この台座には、今は摩耗で読めないが「慶応3年」と刻まれていたということである。近藤勇の処刑は慶応4年4月25日である。慶応3年の時点ではもちろん生存していたし、近藤の処刑より6日前には近藤の墓を建てた戸村静一郎の方が先に戦死していたのである。
 これらのつじつまの合わなさから「近藤勇の首塚」は懐疑的になっている。

松平一族、三方ヶ原戦死者の墓

 徳川家康の縁者や三方ヶ原みかたがはらの合戦の忠死者の墓。中には合戦の際、家康の身代わりとなり討たれた夏目次郎左衛門吉信の墓もある。
 三方ヶ原の戦いの家康像と言えば、あの有名な敗戦直後に描かせたと言われる「顰像」のことである。

 雨が強くなってきた。こんな雨の中、お参りに来た一人の女性。

日本レトルトフーズ

 雨が強いが、とても素晴らしい建物である。建物の景観を損なわないように配慮したと思われる控えめな社名版を見ると「日本レトルトフーズ」と書かれている。
 ああ、この奥ゆかしさよ。社風として歴史的なものに対する理解が溢れているのだろう。会社のサイトにもこの古い建物を維持する大変さなんて微塵も書かれていない。この奥には現代の品質管理をクリアする工場があるのだろうか。すごい。

本宿村道路元標

 大正時代に設置された本宿村の道路元標が現存する。

本宿の一里塚

 ここも標柱のみ。江戸より78里目の一里塚。

 雨は一向に止む気配はなく靴の中はすでにぐしょ濡れである。いくらゴアテックスと言えど靴の上部から何時間も降られ続けては浸水は防げない。名鉄名古屋本線と並行しながら歩き続けるがここ数時間トイレもコンビニも食堂も無い。休憩は民家の屋根付き駐車場の片隅を借りるなどして取る。

 今回も長くなってしまったので、次回続きを発表する。

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