東海道五十三次 Day10 「新居-白須賀-二川-吉田」

東海道五十三次 Day10 「新居-白須賀-二川-吉田」

 旅は10日目。この日の予定距離は20km程度と、この旅で一番歩かない日である。
 これには理由がある。江戸時代は各宿場に旅籠があったため歩けるだけ歩いてたどり着いた宿場で投宿すればよいが、現代は旧宿場町にホテルが無いことが多い。本日の目的地は豊橋市の吉田宿で、本来であればもっと歩いても良いのだが、この先はずっとホテルがないのだ。その為この日は20km歩いて泊まり、次の日に30km歩くという予定にした。

 前日、友人のTくん宅で心のこもったおもてなしを受け体力が全回復した僕。今朝はのんびりと起き、朝食に魚を焼いてもらうなどとご馳走になり、Tくんのクルマで新居関所まで送ってもらった。
 新潟に住んでいた20年以上前、僕たちは旗や太鼓やサッカーボールを持って、あちらこちらを旅した。そんなTくんとこんな時に浜松で酒を酌み交わす日が来るなんて、あの時は思いもしなかった。
 本当にお世話になりました。
 またどこかで会おう!

 ここから昨日の旅の続きである。

新居宿

 「新居」の地名は元は「荒井」や荒江、荒堰などと書かれ、遠州灘からの波が荒かったことに由来しているという。
 新居宿は新居関所や今切の渡しを控えて発展し、本陣3と旅籠26軒を擁した。

新居関所

 正式名称は「今切関所」。慶長5年(1600)に幕府の管轄として設置され、入り鉄砲に出女を厳しく取り締まった。その後元禄15年(1702)からは吉田藩の管轄となる。

新居関所

 安政2年(1855)に建てられた面番所が現存しており、全国で唯一の関所の建造物として国の特別史跡となっている。

新居関所

東海道五捨三次之内 「新居 渡舟ノ図」歌川広重

 歌川広重は新居の今切の渡しの様子を描いている。中央は参勤交代の大名を乗せた渡し船で、幔幕まんまくと呼ばれる仕切りのための幕が張られている。後続の舟にはあくびをする者や背中を丸めて眠る者が描かれる。
夕刻の図で、向かう先には新居関所がある。

東海道五捨三次之内 「新居 渡舟ノ図」歌川広重
東海道五捨三次之内 「新居 渡舟ノ図」歌川広重

新居宿 飯田武兵衛本陣

 小浜藩、桑名藩、岸和田藩など70もの家が利用した飯田本陣。明治元年(1868)岩倉具視を従えた明治天皇の東幸ではここが宿泊地になった。

新居宿 飯田武兵衛本陣

疋田八郎兵衛本陣跡

 徳川御三家を初めとする120家が利用した疋田本陣。標石のみが残る。

疋田八郎兵衛本陣跡

新居宿の町並み

 新居宿には昔を感じさせる町並みはそれほどないが、お馴染みの道幅に標石が残り親切な案内板もある。

新居宿の町並み

新居の一里塚跡

 江戸より69里目の一里塚で標石がある。

新居の一里塚跡

明治天皇御野点所阯 

  明治元年(1868)の明治天皇の東幸の際、ここで野点を行った。

明治天皇御野点所阯

白須賀宿

 本陣1、脇本陣1、旅籠27軒と小さい宿場。当初は元町と呼ばれた浜辺に宿場があったが、津波による被害を受けたため現在地に移転された。

白須賀宿

内藤家長屋門

 ここ湖西市白須賀にある「内宮神明神社ないくうしんめいじんじゃ」は天照皇大神を祀り、幕府から朱印領4石を寄進を受けた。徳川八代将軍吉宗以降の朱印状の写しが保管されており、内藤家は代々内宮神明神社の宮司を勤めた。

内藤家長屋門

白須賀の一里塚・高札場跡

 元町にある白須賀の一里塚と白須賀宿の高札場跡。白須賀宿はこの先の潮見坂を登った先にあるのに、なぜこんな手前に高札場を設置したのだろうか。
 前述したが元々の白須賀宿はこの辺りにあった。しかし宝永4年(1707)の地震と大津波により元の白須賀宿は大きな被害を受けたため、翌年に潮見坂の坂上に宿場を移転したので「高札場の跡」がここに残っているのだ。

白須賀の一里塚・高札場跡

潮見坂

 海沿いを通ってきた旧東海道は進路を北に取り、高台の内陸部に入って行く。

潮見坂

 ここが潮見坂だ。「潮見坂」の由来は京都方面から江戸へ向かう際、初めて太平洋が見えたことから名付けられた。ここから先、内陸を通る旧東海道は三河湾や伊勢湾を望むことはあっても太平洋は見えなかったのだろう。

潮見坂

 潮見坂は500mほど続く急勾配。高度をあげて見晴らしが良くなる。上と下の写真の人物でその高低差がわかるだろうか。

潮見坂

潮見坂公園

 潮見坂の上には潮見坂公園があり、遠州灘を見下ろすことができる。織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に凱旋する際、徳川家康が茶亭を設けてもてなした場所だという。
 明治天皇も江戸に向かう際にこの地で休憩され、御遺蹟記念碑もある。

潮見坂公園

 潮見坂からの一望。誰しもが写真を撮るだろうし、古の人たちも一句詠んだり絵を描いたりしただろう。東海道一の景勝地として有名で、浮世絵だけでなく数々の紀行文にもその名が見られる。

潮見坂公園

東海道五捨三次之内 「白須賀 汐見阪図」歌川広重

 歌川広重は「汐見阪図」として潮見坂上からの景色を描いている。松並木の中を江戸に向かう大名行列が進んでいる。

東海道五捨三次之内 「白須賀 汐見阪図」歌川広重
東海道五捨三次之内 「白須賀 汐見阪図」歌川広重

鷲津停車場 往還 道標

 「往還」とは行き来すること、往来のことを言う。明治45年(1912)に設置されたこの鷲津停車場往還道標は現在のJR鷲津駅へ向かう道の道標ということだ。土地勘がない僕はこのすぐ先に鷲津駅があるのかと思ったら、駅はここより北東に6km以上離れている。
 鷲津駅の開業は明治21年(1888)9月1日。東海道本線の路線ルート選定に当たり当初は白須賀宿近辺に駅を設置しようとしたが、「潮見坂は蒸気機関車では登れない」ということで現在の鷲津駅を通る路線ルートが採用された。新居を出発した汽車は白須賀を避け、鷲津を経て二川を通ったことになる。当時の白須賀の人々はどうにか手を尽くして白須賀に駅を設けたかったであろうことは想像に難くない。

鷲津停車場往還

白須賀宿の町並み

 宝永4年(1707)の津波により白須賀宿はこの場所に移転した。屈曲した「曲尺手かねんて(かなんて、とも)」を過ぎると白須賀宿の中心地になるが、古い建物はそれほど多くはない。

白須賀宿の町並み

白須賀宿 本陣跡

 大村庄左衛門が務めた本陣の跡。標柱が残る。

白須賀宿 本陣跡

火防樹の槇

 東海道を旅していると横浜市を過ぎたあたりから写真のような葉形の樹を多く見かけた。日光市に住む僕にはあまり馴染みのない樹である。

火防樹の槇

 これはまきの樹だそうだ。槇は庭の目隠しとして植えられたのはもちろん、火に強いため火事の際の延焼を防ぐという意味があるそうだ。
 ここ白須賀宿は当初は海沿いに宿場が開かれたが、津波の被害にあって現在の高台の潮見坂の上に移転した経緯がある。しかし今度は冬期の西風が強く、火災が発生すると西風に煽られて炎はたちまち燃え広がって大火となった。槇は延焼を防ぐために植えられたということだ。

火防樹の槇

白須賀宿 高札場跡

 高札場跡で足元に標柱が残る。この辺りを猿ヶ馬場と呼び、柏餅で有名な茶屋があった。

白須賀宿 高札場跡

東海道五捨三次之内 「二川 猿ヶ馬場」歌川広重

 歌川広重は二川宿の題材として小松原にあった「猿ヶ馬場」の柏餅を商う名物茶店を描いている。「二川」というが、猿ヶ馬場は白須賀宿にほど近い場所である。広重は二川を題材にするのに画題にも景色にも恵まれずに苦しんでいたらしい。
 この茶店の年寄の婆が猿に似ていたため「猿が婆の勝和餅」と呼ばれ有名だった。ひどい話である。
 旅する3人の女性は瞽女ごぜで、「盲御前めくらごぜん」が訛ったものである。瞽女は集団で三味線を奏でながら、民謡を唄って各地を巡業した盲目の女性旅芸人である。
 瞽女は徒弟制をとり、仲間や弟子に対する掟はかなり厳しいものだった。駿府や信州松本・飯田、越後長岡の各藩は瞽女屋敷を設けて保護したが、掟を破った瞽女は放逐され、縄張り以外の場所を放浪したという。

東海道五捨三次之内 「二川 猿ヶ馬場」歌川広重
東海道五捨三次之内 「二川 猿ヶ馬場」歌川広重

静岡県から愛知県へ

 猿ケ馬場から少し歩くと愛知県に入る。旅の4日目に箱根から三島に入った以来、7日間も静岡県内を歩いて来た。駿河、遠江を過ぎて三河に入ることになる。「おお!」と思う。

境橋

 境川に架けられた境橋を渡る。境川は三河と遠江の国境である。往時、境橋は長さ8間の板橋だった。

境橋

一里山の一里塚

 国道1号線に合流してすぐに祠がある。これが「一里山の一里塚」だ。「細谷の一里塚」ともいわれ江戸より71里目の一里塚。祠は扉が閉じられているが中には秋葉神社、津島神社、地蔵が祀られているという。

一里山の一里塚

 北側のみ塚の痕跡が残されている。南塚があった場所は国道一号線として崩され、車道になっている。

一里山の一里塚

コオロギ屋

 コオロギの直売所なるものがある。かなり目を引く佇まいである。
 誰が何の目的でコオロギを購入するのだろう。

コオロギ屋

キャベツ畑

 一里山の一里塚を過ぎるとこの辺りは見渡す限り、遠くまでキャベツ畑が続いている。
 もともと国道1号線歩きは退屈なのだが、この区間、「一里山の一里塚」から「二川の一里塚」までの4kmの国道1号線歩きはこの旅で1、2を争う退屈な道のりだった。旧東海道の歴史を彷彿させる古い建物や標柱などは何もなく、ただひたすらのキャベツ畑。気の利いた人ならここで一句ひねるのだろうが、僕は無学な旅人なのでキャベツの写真を撮って進む。

キャベツ畑

 キャベツの写真を撮って進む。

キャベツ畑

 キャベツの写真を撮って進む。

キャベツ畑

 このくらい、キャベツ畑が続くのだ。というかキャベツ畑しか無いのだ。コンビニはおろか自動販売機さえ無い。
 ちなみに安政2年(1855)に書かれた「江戸道中記」には「夜道可慎(夜道は慎むべし)」と書かれた物騒な道中であった。

二川宿

 国道1号線から外れ、意図的に道が曲げられた曲尺手(かねんて・かなんて)を通過して二川宿に入る。旧東海道らしい風情が残る町並みである。
 本陣や、江戸時代に大成功した商家「駒屋」とその分家である「西駒屋」「東駒屋」など、小さな宿場であるが見どころ十分である。

二川宿

二川の一里塚跡

 江戸より72里目の一里塚で標石がある。

二川の一里塚跡

二川宿の町並み

 古い建物にはのれんが掛かっており、表札には屋号が掛けられている。キャベツ畑歩きから比べると心が和む。

二川宿の町並み

二川宿 脇本陣

 松坂家が務めた脇本陣。

二川宿 脇本陣

二川宿 本陣

 東海道では「二川」と、この先の「草津」だけに本陣の遺構が残されている。馬場家が務めた二川宿の本陣は表門、母屋、玄関棟、土蔵が残る貴重なものである。内部が資料館になっていて見事な裏庭も見学することもできるがこの時は開館していなかった。
 僕が訪れる場所は時刻、季節、曜日が複雑に絡み合い、大抵の歴史的建造物はクローズしている。

二川宿 本陣

飯村の一里塚跡

 モンベル豊橋店の前で国道1号線と合流する。合流地点には飯村の一里塚がある。江戸より73里目。

飯村の一里塚跡

寿泉院

 目を引く三重塔がある。臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は鶴松山。三重塔内には薬師瑠璃光如来像がある。

寿泉院

豊鉄市内線

 歩道橋を渡りふと下を見ると路面電車の駅がある。これは豊橋鉄道の豊鉄市内線の「東八町駅」である。
 この辺りは東海道中で特に賑わった場所だったという。ここで国道1号線を外れ吉田宿内に入る。

豊鉄市内線

吉田宿

 吉田宿は東海道五十三次の中でもかなりの賑わいを見せた宿場町で、「吉田通ればニ階から招く、しかも鹿の子かのこの振袖が」と飯盛女(遊女)の賑やかな様子が詠われるほどだった。本陣2、脇本陣1軒、旅籠65軒を擁したが、太平洋戦争中の昭和20年(1945)6月19日深夜から20日未明にかけ行われた豊橋空襲により市街地の多くが殲滅に近いほどに焼失したため、当時の面影は全く無い。

 遡ること明治2年(1869)の版籍奉還以前、この地は「吉田藩」となっていた。しかし明治政府は「吉田という名称を変えるので、古い地名から2、3の適当なものを挙げるように」と通達した。挙げられた地名は「豊橋、関屋、今橋」であり、その中から明治2年6月19日、豊橋に改称された。これは吉田藩は関ヶ原の合戦以前より徳川家を支えた譜代大名として幕府の要職を勤めており、さらには戊辰戦争での新政府軍東征では藩主の松平信古のぶひさが優柔不断でどちら方に付くのか判断が遅れたためと言われている。信古は新政府軍が迫ると上洛して降伏し、のちに大河内へと改姓した。その後、明治39年(1906)に市制施行により豊橋市となった。

豊橋市道路元標

 鍛冶町、曲尺手町、呉服町、大手町と吉田城に縁がある地名が続き、大手通と旧東海道の交点に「豊橋市道路元標」がある。道路元標は大正8年(1919)に制定された旧道路法施行令によって設置が義務付けられたものである。
 豊橋は太平洋戦争で大規模な空襲を受けて町がほぼ壊滅したと前述したが、ということはこの道路元標は燃える町並みをこの地で見守っていたということか。

豊橋市道路元標

吉田宿 本陣跡

 清須屋与右衛門が務めた本陣跡で標柱がある。手前の東隣には江戸屋新右衛門の本陣があった。

吉田宿 本陣跡

吉田宿 脇本陣跡

 桝屋鈴木庄七郎が務めた。ここも標柱しか残っていない。

吉田宿 脇本陣跡

豊橋ビジネスホテル

 本日のホテルは豊橋ビジネスホテル。シングル1泊6,000円で、ウェルカムドリンクや朝食も付いているという親切価格だ。
 しかしチェックインはこの手のホテルには珍しく16時からだったため、14時に到着してしまった僕は2時間も豊橋の町中をうろうろ歩く羽目になった。とは言っても空いている飲食店もないので(大抵の店はもう準備中だ)コンビニでビールを買って近くのベンチに座ってちびちびと飲む。

豊橋ビジネスホテル
豊橋ビジネスホテル

愛知のみそカツ

 今夜の夕食は何にしようかと豊橋駅前を歩いていたら食堂があった。愛知県に来たならみそカツを食せねばなるまい。ビールを2本とこってりした味噌ソースでとんかつを頂く。うまし。
 味噌汁も赤いぎゃー。赤だしというのか?

愛知のみそカツ

 今日の歩行距離は24km。いつもと比べて短い距離だが、スタートから「今日はすぐに着いちゃうな」などと舐めていたため、最後の10kmはとても長く感じた。毎日毎日何キロ歩こうが、最後の10kmはいつでもキツイものだ。

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