
小夜の中山
小夜の中山の続きから始める。
馬頭観世音
蛇身鳥伝説で、朝廷から派遣された武将・三位良政の愛馬を葬った場所とされる。

蛇身鳥伝説
蛇身鳥伝説は菊川宿から小夜の中山を舞台とした伝説である。
桓武天皇(在位781~806)の頃。
菊川に平内という猟師がいた。平内は、妻と、娘の月小夜と、息子の八太郎と四人で平穏な暮らしをしていた。しかし、息子と娘は平内の殺生に心を痛めていた。
八太郎はどうにか平内に殺生をやめさせようと、熊の皮を被って平内を驚かせようと思い立ち、猟に向かう平内の後を追った。
平内は山中で熊を見つけると、素早く弓を構えて矢を放った。矢は熊の皮を被った八太郎に突き刺さり、八太郎はどさりと倒れた。
平内が熊に近寄ると、そこには被り物が取れた息子八太郎が息絶えていた。
平内は涙を流し自らの行いを悔いた。
平内が亡骸を抱いて菊川に帰ると、 妻は変わり果てた八太郎の姿を見て狂ったように泣き叫び、 そのまま家を飛び出して菊川の淵に身を投げてしまった。
それからというもの、菊川や小夜の中山のあたりに頭は鳥で、体は蛇、広げた翼は鋭い刀のようになっている世にも恐ろしい怪鳥が人々を襲うようになった。
里人が困っていると、朝廷の命令で三位良政と屈強な家来がやってきた。
そして苦闘の末、見事に怪鳥を討ち取った。
静岡では4月下旬から「一番茶」と呼ばれるシーズン最初の茶摘みが行われる。今はまだ2月なのでお手入れの最中だろうか。美しい茶畑である。

夜泣石
昔々、「お石」という妊婦が小夜の中山を越える途中、大きな丸石の側で陣痛を起こした。そこに通りがかった男が介抱しようとしたが、お石が金を持っていることがわかるとお石を殺して金を奪って逃げ去った。妊婦は腹を割かれたが、その切り口から生まれた赤ん坊を助けるため、必死の母の魂はかたわらの石に乗り移って泣き声をあげた。その泣き声に気付いた近くにある久延寺の和尚は赤ん坊を拾い上げ、お乳の代わりに水飴で育てた。しかし丸石は夜毎に泣いたため、里の者はその石を「夜泣石」と呼んで恐れたが、通りがかった弘法大使が石に南無阿弥陀仏と彫って念仏を唱えると石は泣かなくなったという。その後、赤ん坊は立派に成長して母の仇を討った、という物語である。

東海道五捨三次之内 「佐夜ノ中山」歌川広重
歌川広重は「日坂」で小夜の中山の急坂と夜泣石を描いている。丸石の右側に何か書かれているように見えるが判読できない。小夜の中山峠の道の真ん中に置かれていた夜泣石は、明治天皇巡幸の際に近くの久延寺に移されたという。

夜泣石跡の前の旧東海道。広重が描いた急坂である。

「沓掛坂」と「二の曲り」
間もなく道は「沓掛坂」を下り始め、「二の曲り」と呼ばれるちょっと見たことのないレベルの激坂に差し掛かる。軽自動車は登れるのだろうか、自転車のブレーキは効くのだろうか、というくらいの坂で、下の写真では御覧の通りあまりの斜度に道が途切れて見える。

写真でこの高度差が伝わるだろうか。小夜の中山峠もここで間もなく終わるが、峠の入口も出口も凄まじい激坂で、こんな道を見たのは間違いなく人生初の経験と言えるだろう。

金谷宿から金谷坂を標高120mほど登り、さらに菊川坂で120m下って菊川宿に至った。そこからまた青木坂で標高150m登り、この沓掛坂で180mほど下る小夜の中山。
こんな急坂の小夜の中山峠に車道を拓くことが困難であることは想像に固くなく、明治13年(1880)には小夜の中山を迂回する「中山新道」が開削され、有料道路として利用された。これが現在の国道一号線の原型となった。
日坂宿
坂がなだらかになり、国道一号線の高架をくぐると間もなく日坂宿に入る。
日坂宿は本陣と脇本陣が1つ、旅籠33軒の小さな宿場であったが小夜の中山を控えて賑わった。現在も当時の面影の残る建物が立ち並ぶ静かな宿で、その建物の多くは中にお邪魔して見学することができる。

日坂宿 本陣
片岡家が務めた日坂宿の本陣跡で、門のみが残る。

日坂宿 問屋「藤文」
日坂宿の最後の問屋を務めた伊藤文七邸。日坂宿の古い建物は近年まで実際に住居として使われていたのでしっかり手入れがされている。

扉が開いており、中を見学することができる。なんとも贅沢な経験。

2月下旬なのでひな祭りが飾られている。よくわからないがとても古そうなものだ。
靴を脱いで上がらせていただくことも出来る。

旅籠 萬屋
木賃宿であった萬屋。「木賃」とは、食事を調理するための薪の代金(木銭)を意味する。江戸時代に宿賃を安価に済ませたい庶民や旅人に利用された食事の提供がない宿泊施設で、利用客は自分で食材を持ち込み、煮炊きのための薪代を宿に支払って自炊した。

「木賃宿」と言ってもこの美しい内装。ただし江戸時代は板間で、特別な場合に畳が敷かれたという。日坂宿は嘉永年間に大火災に遭っており、萬屋の土間下からも当時の焼土がみられるそうだ。

旅籠 川坂屋
川坂屋は身分の高い武士も利用した旅籠で、廃藩後も明治30年(1870)まで旅籠として経営された。ふすまには山岡鉄舟らの書が残されており実際に見ることもできるらしいが、先を急ぐために玄関口までしか入らなかった。大きなザックを背負って歩く旅人はどうしても遠慮してしまう。ザックを置くにも靴紐を解くにも時間がかかるし、案内をしてくれる方に迷惑かなと思ってしまうのだ。

非常に美しい邸内。今度は観光で訪れてみたい宿場である。

高札場
日坂宿の高札場。現存するのは「高さ2間、長さ2間、横7尺」という記録に基づき再建されたものである。

高札場を過ぎると名残り惜しくも日坂宿とお別れである。日坂宿は観光客に対する親切さに溢れ、短い時間であったがとても居心地が良く過ごすことができた。
興味があるところはつい長居をしたくなるが、先を急がなければならないのが残念である。いつの日か再訪したい場所になった。
伊達方の一里塚
伊達方の一里塚跡で碑が置かれている。江戸より57里目。

葛川の一里塚
この区間は特に見るべきものもなく、のんびり歩いて葛川の一里塚。江戸より58里目の一里塚。

掛川宿
掛川宿には掛川城があった。今川氏によって築城され、天正18年(1590)には豊臣秀吉の命により直臣の山内一豊が入城した。山内一豊は司馬遼太郎の小説「功名が辻」で有名である。安政元年(1854)、東海地方一帯を襲った安政東海地震により城の大半の建物が倒壊した。江戸時代に修復された二の丸御殿は国の重要文化財に指定されているが、天守は平成になってから復元されたものである。
新町七曲り
掛川城の防衛のために、新町七曲りと言われる枡形の道形になっている。地図とにらめっこしながら曲がる角を確認して進む。

掛川宿内に入る。旧東海道は古いアーケードが道の両側にある「昔ながら」のシャッター通りとなっている。今朝島田宿を出発してから、金谷宿を過ぎると菊川、日坂宿にはコンビニや飲食店は一軒もない。お昼になってJR掛川駅を擁する掛川宿に到着したことは幸運である。
さて、昼飯は掛川宿内でなにか食べようと蕎麦屋に寄った。テーブルは空いていたが、応対してくれた女性に「自分一人です」と伝えると女性は厨房の年配の店主の顔を伺った。すると店主は「一人?あぁダメダメ!」と小さな声で女性に拒否の意思を伝えたため、僕は女性に「すみませんちょっと満席で…」と断られた。次に入ったお店では忙しかったためか僕は店員に気づいてもらえず、ちょっと中に進んで「すみません、大丈夫ですか?」と店員に声をかけてみたら「あ、ちょっと待ってて!」と嫌なものを見てしまったような顔をされたので僕は涙をこらえて店外にでた。
仕方ないのでコンビニでおにぎりとサンドイッチを買って昼食を済ませようとしたら、小さな手拭きももらえず、ありがとうございましたも言ってもらえなかった。
日坂宿とは打って変わって「俺がこの街に何かしたか?」と思ってしまうような掛川のホスピタリティには幻滅しており、このシャッター通りもむべなるかな、といった感じである。今後いつか東海道をクルマ等で旅する時にはここは素通りしようと決めている。

そういったわけで掛川宿の城趾、本陣跡等には一切足を止めておらず、したがって写真もない。
東海道五捨三次之内 「掛川 秋葉山遠望」歌川広重
歌川広重は掛川宿の西端の大池橋を描いている。現在の大池橋はこれといった特徴がない橋だが、当時は長さ約52m、幅5.7mの土橋だったという。
「遠州のからっ風」と言われるようにこの辺りは強風が吹くので凧あげが盛んだった。絵の中にも高く上がってフレームアウトした凧や糸が切れて飛んでいく凧が描かれている。
遠景に描かれた山は秋葉山。火防の神・秋葉大権現が鎮座しており、橋の上には巡礼者の姿も描かれている。この巡礼者のために街道筋には秋葉山常夜灯が多く設置されている。

十九首塚
東海道からやや離れて十九首塚に向かう。
藤原秀郷が将門の乱を平定した際、将門と配下の者19人の首を検め、ここに葬ったと伝わる。

大池の一里塚
蓮祐寺の門前に碑がある。江戸より59里目で、松の木が植えられていた。

曽我鶴酒造
曽我鶴酒造は慶応3年(1867)創業の老舗酒蔵だったが平成12年(2000)あたりで休眠状態になった。風情がある建物が今も残る。

江戸と京都の中間、仲道寺
仲道寺は曹洞宗の寺である。寺名は江戸と京都のちょうど中間にあることから名付けられたという。そうか、この旅もいよいよ中間地点に差し掛かったのか!
この周辺はと排水が悪いうえに垂木川が氾濫して冠水しやすく、長雨が続くと渡渉渡しや舟渡し、川越人足が雇われることもあったそうだ。

間宿、原川の松並木
間宿であった原川。現在静岡県道253号線となっている旧東海道は田んぼのど真ん中を進むのどかな道である。宿場の名残はない。

ECOPA
川の向こう側にエコパスタジアムが見える。ここで清水エスパルス戦を観たい時には東京から8日歩けばたどり着けます。なんて有用な情報だ!

久津部の一里塚
久津部の一里塚は可愛らしく縮小復元されている。江戸より60里目。

その向かい側には「どまん中東小学校」というなかなかのネーミングな小学校が。と思ったら正式名称は「袋井東小学校」であった。

七ツ森神社
小夜の中山の蛇身鳥退治に朝廷より派遣された7人の武士は、返り討ちに遭いこの場所に葬られたという。昔の絵図では7つの塚が描かれており、その中で一番大きな塚の上に神社が築かれたらしい。現在は平らで、塚の形跡は見られない。

境内には大きなブナ科の巨木、すだ椎がある。その外周は6mを超える。

袋井宿
袋井宿は東の掛川宿と西の見付宿の間が長すぎたため、宿駅制度が開始されてから15年後の元和2年(1616)に開かれた宿場である。江戸日本橋から数えても京都三条大橋から数えても27番目の宿場町。本陣は3軒、旅籠が50軒あった。

袋井宿場公園
旧東海道は緩やかに蛇行しながら袋井宿の中心部に入る。袋井宿はあちらこちらに観光客向けの案内板があるので足を止めて見学する。宿場町だった当時の建物や料理が再現され、「どまん中茶屋」では囲炉裏を囲んでお茶を出してくれるサービスもある。この日は2月でも暑かったため、僕は茶屋で水を一杯頂いてすぐに歩き始めた。

東海道五捨三次之内 「袋井 出茶屋ノ図」歌川広重
画題は「出茶屋ノ図」。出茶屋とは街道沿いの簡素な休憩所のことで、旅人はこのような場所で休憩し、足を休め喉の渇きを癒した。現代のコンビニエスストアのようなものだろうか。
場所は袋井宿の江戸側(東側)付近で、傍示杭が描かれている。

袋井宿 東本陣跡
袋井宿に3軒あった本陣の一つで「壱番御本陣」と呼ばれ、田代八郎左衛門が問屋と宿役人を兼ねた。現在は袋井宿東本陣公園として整備され、冠木門が再現されている。
本陣は大名や高貴なものが利用するものであるが、宿泊費はまちまちで、建坪数百坪の大きな建物を常に休憩や宿泊できるように備えておくのは大変な苦労だった。皿や箸、キセルなど、貸したものはほとんど返ってこないような藩も多かったという。
各宿場の本陣は享保年間(1716~1736)のころから経営が苦しくなり、田代家は明治維新後に本陣を廃業し伝馬所(問屋場)の元締めとなるが、郵便事業が開始されるとその取次所になり、東本陣跡は最初の袋井郵便局となった。

袋井プリンセスホテル
本日のお宿は袋井プリンセスホテル。旧東海道から300mほど北側にある。シングル7,800円。

オーソドックスなビジネスホテル。なぜ「プリンセス」なのか、名の由来を知りたい。

チェックインの時刻はちょうど15時。シャワーを浴びてコインランドリーに洗濯物を放り込み、近くのバーミヤンで昼飲み&夕食。
島田宿を出発してから、長く怖い大井川橋を渡り、東海道三大難所に偽りなしの小夜の中山を越え、とても疲れた一日だった。ちなみにザックを背負う痛みは皮が一皮むけ、ちょっとしたカサブタになっているが日記には「痛い、辛い」とは書かれていない。写真を撮ったくらいだから何か思うところはあったのだろうが、慣れてきたのだろうか。

旅もいよいよ半分を過ぎたという。さて、明日は長い距離を歩くので早朝からの出発である。冬季オリンピックのダイジェスト版を見ながらちびちび呑んで早めの入眠。

コメント