東海道五十三次 Day08 「島田-金谷-日坂-掛川-袋井」(1)

東海道五十三次 Day08 「島田-金谷-日坂-掛川-袋井」

 旅も8日目。本日は静岡県島田市から磐田市、掛川市を抜けて袋井市まで歩く。もうずっと静岡県を歩いているように感じるが、確かに順調にいったとしても7日間は静岡県内を歩くことになるのだ。
 今回も見どころが多いため、2回に分けてアップロードする。

島田宿

 ルートイン島田駅前はバイキング形式の朝食が付いている。本日は30kmの行程なのでしっかり朝食を頂いて満腹になってから7時に出発。
 しかし、30kmと侮っていたらこの日の旅は箱根峠越えに匹敵するほどの歩き甲斐がある行程だった。

島田宿 ルートイン島田駅前

 この日は2026年2月22日。ひたすら歩くのみの旅で曜日の感覚は全く無いが、日曜日である。前日に「第1回 浜名湖と遠州東海道ウルトラウォーキング(105km)」が開始されており、愛知県豊橋市を10時に出発した参加者達は29時間の制限時間内のゴールを目指し、夜通し歩き続けてこの日の朝に島田にたどり着いていた。「朝っぱらから随分とくたびれきった人たちとすれ違うな」と思ったらこのせいだったのだ。
 僕も2017年、日光100kmウルトラマラソンを走ったので(10時間と少々でゴール)その辛さはよく分かる。一歩一歩進み続ければ必ずゴールに近づいている。頑張って!

大井川

 島田宿と言えば大井川だ。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」は有名な馬子唄である。
 大井川は年間の大半は徒歩で渡れるが、上流で大雨が続くと南アルプスの険しい山岳地帯からさまざまな支流が一つになって大井川へ合流して川幅目一杯に濁流が流れ込み、その危険性から数日の間「川止め」となった。江戸幕府は軍事的に要衝である河川に橋を架けることを禁じたが、そもそもこの大井川は河床が砂礫層で、当時の技術では深く杭を打つことが出来ずに架橋は不可能だったと言われる。

 大井川に近くなると、旧東海道沿いには「島田宿大井川川越遺跡」が再現され、川越しの料金所である「川会所かわかいしょ」や、人足の待合所「番宿」などの風景が再現されている。

島田宿大井川川越遺跡

 川会所では川札が販売され、料金は川の水量によって決まった。旅人は川札を購入し、1から10まで通し番号が付された番宿に待機している川越し人足にそれを渡して肩車や蓮台などで渡河した。

島田宿大井川川越遺跡

 これらの建物は中に入ることができる。オラオラ系の川越し人足がいるので一礼。おじゃまします。

島田宿大井川川越遺跡

 なんとまぁ悪い人相なこと…。水量、水勢、川幅の全てが東海道で最大の大井川を渡すには、これくらいの荒くれ者でないと務まらなかったのだろう。
 川越人足は幼少の頃から厳しい修行によって高度な渡渉技術を学んだ専門家の集団であり、現役で活躍し、ある程度の歳を取ると引退して川渡しの受付や荷物の確認、後進の育成にも携わった。

島田宿大井川川越遺跡

 川越しの様子。胸まで川に浸かって肩車や蓮台で川を渡る。幕末には島田宿と対岸の金谷宿で合わせて1,000人を超える川越人足がいたというから、両宿の繁栄が想像できる。

島田宿大井川川越遺跡

 建物の中には当時の炊事場の様子も再現されている。

島田宿大井川川越遺跡

 仲間の宿。各番宿の代表や年寄が集まり、相談などの会合や親睦の場として利用された。

島田宿大井川川越遺跡

 札場。一日の川越しが終了すると、川越人足たちはここで手持ちの川札を換金した。役人は布袋寅泰氏がモデルだと思われる。ベビベビベイビ。

島田宿大井川川越遺跡

大井川橋

 明治4年(1870)に川越人足による川渡しが廃止になると、舟での渡しが始まった。明治期には何度か木橋が架けられたが、前述の通り砂礫質による河床に深く杭を打つことが難しく、木橋は増水により何度か流失している。
 ようやくしっかりした橋が架けられたのは昭和3年(1928)、川越人足による渡しの場所から500mほど上流に完成したトラス式の鉄橋で、これがすなわち現在も残る大井川橋である。約80年も前に架けられたこの鉄橋は平成15年度選奨土木遺産となっている。
 この長い橋よ!

島田宿 大井川橋

 橋梁の長さはなんと1,026メートル。この橋は歩道が極めて狭く、ゆっくり歩くと15分以上かかる。なぜゆっくり歩くのかというと、僕は高所恐怖症だからである。スピードが上げられないのだ。

島田宿 大井川橋

 高所恐怖症の僕にとって、この大井川橋の歩道は生きてきた中で有数の恐怖だった。なるべく下を見ないように、狭い歩道の欄干に触れる程度に両手を広げてまっすぐ前を見て歩く。対岸の特徴がない山々をなるべく瞬きの回数を抑えてじっと見据え、深く深呼吸しながら歩みを進める。時折強い風が吹く。クルマが通ると橋は揺れる。昭和3年製の古い橋は大丈夫なのだろうか。
 川を見る時は立ち止まり、首だけを横にひねる。初期のアイボのような動きである。橋の上ではスマートフォンやカメラの操作はできない。高所恐怖症の方は解ってくれるだろうが、スマホを出すと橋の下に落としてしまう気がするのだ。
 すると、向こう側からウルトラウォークの参加者が同様の格好で歩いてくる。僕達は互いに理解し合う。ああ、あなたもそうなのですね、と。
 僕達は近づくと、お互いがいい塩梅の距離をおいて立ち止まり、ゆっくり慎重に片側の欄干を掴む。「怖いですね」「僕は怖すぎて吐き気がしています」などと挨拶を交わし、すれ違い、我々はまた両手を広げて離れていく。

島田宿 大井川橋

 何度かそれを繰り返して大井川橋を進んでいくと、なんと向かい側から学生の乗った自転車がかっ飛ばしてくる。もたもたと端によって欄干を掴もうとする僕のすぐ横を、自転車は風を切って通り過ぎていく。僕はウエスタン・ラリアットをぶちかましたい位の極めて強い憤りを感じたが、へっぴり腰で欄干に掴まっていて動けないので、口を固く結んで嵐が通り過ぎるのを待つ。

東海道五捨三次之内 「嶋田 大井川駿岸」歌川広重

 歌川広重は島田宿に大井川の渡しの東岸の様子を描いている。川の中州には人が跨った馬がいるが、馬はそのまま大井川を渡れるのだろうか。

東海道五捨三次之内 「嶋田 大井川駿岸」歌川広重
東海道五捨三次之内 「嶋田 大井川駿岸」歌川広重

蓬莱橋

 島田市にはもう一つの有名な橋として「蓬莱橋」がある。蓬莱橋はやはり大井川に架かっており、全長897.4メートル、通行幅2.4メートルの木造歩道橋で、「世界一の長さを誇る木造歩道橋」としてギネス認定されている。
 しかし残念ながら蓬莱橋は東海道から大きく離れており、とても興味深かったが今回は断念している。
 ただし、写真で見る蓬莱橋は欄干が膝の高さ位しか無いのに全長は約900メートルもあるという。多分僕は行っても渡れないだろう。

金谷宿

 恐怖の大井川橋を渡り終えるとそこは金谷宿になる。金谷宿は東に大井川、西に小夜の中山を控えて本陣3、脇本陣1、旅籠51軒と大いに賑わった。江戸方面から大井川を越えた旅人たちは金谷宿で無事を祝い、「水祝い」として酒を飲んだという。

遠江国

 大井川を渡ると遠州に入る。えんしゅう、とはよく聞くが、恥ずかしながら「遠江国」はさらりと読まずに流していた。「とおみ」と心のなかで読んでいた気がする。
 みなさんはご存知だと思うが、「遠江国」は「とおとうみのくに」と読む。

東海道五捨三次之内 「金谷 大井川遠岸」歌川広重

 広重は島田宿に続いて金谷宿でも大井川の川渡しを描いている。島田の絵は川と川原だけだが金谷では山が描かれている。しかし遠景の山は周囲に山の形に該当するものは無いという。近景のカラフルな山は「小夜の中山」と思われる。

東海道五捨三次之内 「金谷 大井川遠岸」歌川広重
東海道五捨三次之内 「金谷 大井川遠岸」歌川広重

仲田源蔵の像

 金谷宿に入るとすぐに「仲田源蔵」の石像がある。仲田源蔵は天保13年(1842)金谷に生まれた。明治3年に大井川の渡しが廃止されると多くの川越人足たちは職を終われ、腕っぷしだけで仕事をしてきた人足たちは潰しがきかず新しい職を見つけるのも困難で、時に危ないことを口走る人足も多かったという。
 そんな時、仲田源蔵は大量に失業した川越人足たちの救済を訴え、当時固く禁止されていた明治政府への直訴のために東京に出向いた。仲田源蔵はすぐに逮捕されてしまうが、それがきっかけで川越人足の困窮の状況が明らかになった。
 明治政府は困窮した川越人足たち一戸あたりに10両の資金と300haの開墾地を下賜したが、開墾地の一つである静岡県の牧之原台地は道もない原生林で、生まれてこの方鍬など持ったことのない人足たちの多くは開墾を諦め、10両の資金を元手に商売を始めるなどした。牧之原の入植者は100戸だったが、残ったのは33戸のみだったという。
 そして入植者たちはそこで茶葉を作り始めた。静岡県が有名なお茶の産地になった理由の一つに、大井川の渡しが廃止されたことが挙げられるのだ。

仲田源蔵の像

 宿の入口には我々観光客用に金谷宿の様子を説明する案内板がある。立ち止まって熟読。

金谷宿川越場跡

 金谷宿の町並み。のどかな朝の風景である。

金谷宿

金谷宿 佐塚屋本陣跡

 金谷宿に3軒あった本陣の一つ。佐塚佐治右衛門が務めた。

金谷宿 佐塚屋本陣跡

金谷坂

 本陣跡を過ぎると道は上り坂になる。JR金谷駅の手前を左折して急な上り坂を進むと、なんと石畳道が!
 丸い石は歩きにくく、ぼさっとしていると捻挫も怖い。ずっと先まで続く見上げるような急坂を一歩一歩進む。

東海道金谷坂

 約450mほどつづく急な坂を登りきる。その標高差は80mほどになる。ここは箱根峠と同じく旅人が歩きやすいようにと幕府によって石畳が敷かれたが、その後すべてコンクリートに舗装された。平成3年(1991)に金谷町民600名によって石畳が復元された。

東海道金谷坂

菊川坂

 はぁはぁ息を切らせて金谷坂を登ると、今度は約600mつづく下りの菊川坂が始まる。ウルトラウォーキングの人たちとすれ違うが、一様に疲れ切っている。互いに会釈し、今後の道程について情報交換をする。菊川坂は金谷坂と比べ、背が高い樹木が無いので道が明るく石畳も乾燥している。

菊川坂

 歩きにくいが風情が残る菊川坂。下り600m中の160mは江戸時代の石畳が残っており、標高100m程下る急坂だ。斜度は所によっては20%を超えるだろう。

菊川坂

間宿 菊川

 菊川宿に到着。間宿あいのしゅくで小夜の中山を控えて茶屋本陣もあった。間宿であるため原則として旅人の宿泊は認められなかったが、大井川は一度増水すると数日間川止めとなり、金谷宿では旅人が収容しきれないことも多かった。そのため川止めの際には特別に宿泊が認められていたという。
 現在の菊川宿は前後を急勾配の坂に挟まれているが、のどかな宿内はほとんどクルマも通らずのんびりと舗装路を歩く。

間宿 菊川宿

菊石

 菊の花のような模様のある菊石。この地区の川から多く見つかったことで、その川は菊川と名付けられ、菊川宿という地名も生まれた。

間宿 菊川宿

小夜の中山

 菊川宿をすぎると「小夜の中山」に入る。読み方は「さよのなかやま」。東海道の三大難所といえば「箱根峠」「鈴鹿峠」の他に、「薩埵峠」と「小夜の中山」のどちらかが上げられる。
 僕個人の感想ではこれは「小夜の中山」に軍配を上げる。小夜の中山の東の入り口である「青木坂」は当時のメモを見返しても「凄まじい激坂!」と書かれている。標高差100m~150mを昇り、そして降りを何度も繰り返すと掛川市に入り、見渡す限り一面の茶畑が現れる。

小夜の中山

 前述の通り、この周辺の茶栽培の発展は舟での大井川の渡しが始まったことにより失職した川越し人足の開拓による明治以降のことである。
 横浜開港により重要な輸出品目となった茶。山の斜面を利用した見渡す限りの茶畑は、旧幕臣や川越人足たちの労働力により切り拓かれたものだった。

小夜の中山

 下の写真でおわかりいただけるだろうか。遠くの山に描かれた文字を。「茶」である。

小夜の中山

佐夜鹿の一里塚

 現・掛川市にあった4つの一里塚の中で、現存するのはこの佐夜鹿の一里塚のみで、江戸より56里目。
 ところで佐夜鹿、小夜の中山、どちらも「さよ」と読むのになぜ漢字は違うのだろうか。平安時代前期の古今和歌集では「さや」と読まれたが、時代が下るに連れ「さよ」と読まれるようになったという「小夜」あるいは「佐夜」。不思議である。

小夜の中山の一里塚

 この日出発したときには大井川のことは頭にあったが、難所・小夜の中山のことはよく知らず、ここに来てからその歴史の深さと難所っぷりに心が踊った。
 写真もたくさん撮っていたのでこの日の疲れ方と楽しさが今も鮮やかに思い起こされる。
 後編は次回に。

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