
今日はJR静岡駅周辺の府中宿を出発して島田市の島田宿まで向かう。予定では約30kmほどの道のりとそれほど長距離ではないので日の出を待ってから発つのんびりした朝。
30km超の距離を「それほど長距離ではない」と思えるのも旅に慣れてきた証拠なのだろう。
府中宿
江戸時代、徳川家康は駿府城を築いてここにとどまり晩年を過ごした。近くには久能山があるが、「近く」とはクルマに乗る人の話であって徒歩では片道10km強、2時間以上を要するため今回は訪れていない。
江戸日本橋から数えて19番目の宿場町である府中宿は駿河国の国府が置かれた場所(駿府)であるため「府中」と呼ばれている。
ここのところ暖かく、フリースジャケットとウインドブレーカーだけで充分に寒さがしのげることが分かった。また生来の貧乏性ゆえ、未使用の使い捨て歯ブラシや使い捨てスリッパ、割りばしがもったいなくてリュックに押し込んでいたため出発時より荷物が多くなってしまった。我ながらなんと馬鹿なのだろう。
ここで荷物を整理し、ユニクロのダウンジャケットや一度も使っていない自撮り棒、スリッパなどの不要な荷物をコンビニから宅急便で自宅に送り返した。

札之辻址
札之辻址には府中の高札場があった。このあたりは江川町、呉服町、七間町と続く府中の中心部であり、現在もJR静岡駅の北側の繁華街である。
江戸時代の宿場町は敵の侵入を防ぐために道が鉤の手に曲げられていたが、現在は碁盤の目状に整備されている。こういった街並みで旧東海道を歩くときは、どこの角を曲がればよいのかかなり迷う。

以下の写真のように府中宿の旧街道沿いには潤沢に予算がかけられた案内板がたくさんあり、足を止めてじっくりと拝読。
しかし街並み自体は近代化されたそれであり、江戸時代や明治時代を感じる古い建造物は何もない。


梅屋町という通りの名は旅籠「梅屋」からきている。この梅屋は先日通り過ぎた由比宿の「正雪紺屋」に登場した「由比正雪」が立て籠もった旅籠である。正雪はここで自害して果てた。

府中の一里塚
江戸より45里目の一里塚。ただしこの場所は旧東海道から少し離れている。もともとあった古の東海道に一里塚が建てられたが、慶弔14年(1609)に新道が拓かれた。府中の一里塚は古いほうの東海道に建てられた一里塚の跡である。

明治天皇御小休所阯(弥勒緑地)
弥勒緑地という小さな公園内に明治天皇御小休所阯がある。これは明治天皇が明治元年(1868)と翌2年、当時の本陣であった「宮崎五郎左衛門宅」でご休憩されたことを記念する石碑である。

この公園内には由井正雪の墓の跡碑があるということだが通り過ぎてしまった。

安倍川餅「石部屋」
「石部屋」は文化元年(1804)創業の安倍川餅の老舗。徳川家康にきな粉をまぶして安倍川の砂金を模した「金な粉餅」を献上したところ縁起が良いと喜ばれ、家康が安倍川餅と命名した。
朝早い時間なので開店していない。

安倍川義夫之碑
元文3年(1738)、紀州の漁夫が仲間から集めた金を持って安倍川を渡る川越人夫を頼もうとしたが、料金が高いため自分の足で渡ることにした。しかし着物を脱ぐ際にその大切な金を落としてしまい、気付かずに渡河してしまった。それを見ていた人夫の一人、喜兵衛が財布を広い漁夫を追いかけたところ、宇津ノ谷峠で財布を紛失したことに気付いて引き返した漁夫に会って財布を渡すことができた。
漁夫は大喜びで感謝して喜兵衛に謝礼金を支払おうとするが、喜兵衛は「拾ったものを持ち主に返すのは当然のことだ」と頑として受け取らなかった。
困った漁夫は駿府の奉行所に事の顛末を伝え礼金を置いて行った。奉行所は喜兵衛を呼び出しその金を渡そうとしたが喜兵衛は受け取らないので、仕方なく奉行所は漁夫に礼金を返し、改めて奉行所から喜兵衛に褒美の金を渡した。
この碑は昭和4年(1929)、和歌山県(紀州)と静岡県の有志の募金によって建てられたものである。
難に臨まずんば忠臣の志を知らず
財に臨まずんば義士の心を知らず

安倍川橋
安倍川を渡る。大正時代に建設された安倍川橋はボーストリングトラス形式の橋としては日本最長(490m)で、国の登録有形文化財となっている。
そしてこの橋はクルマが通るたびにとにかく揺れる。地震かと思って立ち止まったくらいだ。

この年の冬は雨量が極端に少なく、テレビニュースでは日本各地で川や湖、ダムが干上がって取水制限がなされていると報道があった。そのため安倍川橋は非常に長い橋であるが、河はとにかく細くカラッカラである。
下流に見える立派な橋は国道1号線の駿河大橋。

東海道五捨三次之内 「府中 安倍川」歌川広重
歌川広重は府中の西にある安倍川の川渡しの様子を描いている。正面に見える山は賤機山で安倍川橋の上から現在もこのような形で見ることができる。

丸子宿
「丸子」はまれに「鞠子」とも書かれるように、読み方は「まりこ」である。
丸子の一里塚跡
江戸より46里目の一里塚。石柱のみが残る。

江戸方の見付跡を過ぎて丸子宿内に入る。丸子宿は本陣が1つと脇本陣が2つに旅籠24軒と小さな宿場であったが、京都方面から来て安倍川を渡す川越えの権利が与えられたため大雨が来て川止めになると宿内は大いに賑わったという。

古い建物はそれほどないが、観光客に向けた案内板は非常に多い。

丸子宿内。道幅も狭いままだ。

丸子宿本陣、脇本陣
宿内に固まって本陣や脇本陣、問屋場の跡がある。


丁子屋
歌川広重の東海道五十三次「丸子宿」で有名な丁子屋。創業慶長元年(1596)の自然薯のとろろ汁の老舗で、丸子宿の代名詞とも言えるだろう。
東海道を旅する現代人は大抵は府中宿を早朝に発つので、丁子屋に着いた頃(この時点で8時30分)にはまだ開店していないというのが定説である。

芭蕉句碑「梅わかな 丸子の宿のとろろ汁」がある。この程度の俳句なら僕でも何とかひねり出せるような気もするが…

東海道五捨三次之内 「丸子 名物茶屋」歌川広重
東海道中で余りにも有名な丸子のとろろ汁。僕が東海道の旅に出発する前にも多くの人がこの茶屋のことを口にした。歌川広重が描いたこの「名物茶屋」では茶屋の脇に生えている梅が蕾を付けており、のどかな春が感じられる。とろろ汁を掻き込む二人の旅人と、赤子を背負った女中がおかわりを運ぶ姿。裏山は通称「丸子富士」と呼ばれる240m峰。

丸子宿の高札場
丸子宿の上方(京都側)見付跡には高札場があり復元されている。
高札場とは今で言うと「町内掲示板」である。ただし現代のような緩いものではなく法令や禁令などが墨書きにされ、人目につきやすい場所に高札場を設けて民衆に周知させるためのものであり、設置方法や設置場所などは厳しく制限され勝手に移動などはできなかった。

丸子紅茶 日本の紅茶発祥の地
何やら茶畑がある。静岡といえば緑茶だ。本物の茶畑は生まれて初めてみたと思いきや…

「丸子紅茶」の看板が。ここ丸子は日本の紅茶の発祥の地なんだそうだ。
明治時代の初め、生糸とともに日本の輸出商品の主力であった茶葉を世界需要が多い紅茶にするこはできないかと、明治政府の命を受けた旧幕臣の多田元吉は、インドや中国から紅茶の製法を持ち帰り、試験的に製造を行った場所である。現在も丸子紅茶というブランドが受け継がれ、国産紅茶の歴史を知る上で重要な拠点となっている。

旧東海道は国道1号線に近づき、それを渡ったりまたもとに戻ったりを繰り返す。大きな国道は見るべきものが何もないため非常に退屈な旅を強いられる。
すると目の前に山の中に通じる不思議な建造物を発見。何をするために山中にあんなものを作ったのか不思議。

そこからすぐに国道一号線を横断歩道で渡ると、なんと金色に輝く巨大な観音様がおられる。観音様は宇津ノ谷峠の方を向いているが、誰が一体何のために…
退屈な国道歩きの中で不思議なものを立て続けに見た。


宇津ノ谷の一里塚
国道一号線の歩道橋のたもとにひっそりと石柱。江戸より47里目の一里塚だが、道は大きく造成されているため何の痕跡も残されていない。


道の駅宇津ノ谷峠を過ぎて国道一号線は立派なトンネルに入るが、旧東海道は右に折れ、山中に入る。

山間の道は寒々しく感じるが、路肩には梅や春の花が咲き始めている。

ようこそ宇津ノ谷へ、と立派な地図があるが、何がどうなってどこにつながるのかは全く理解できない。自分が歩く道はどこなんだろう…

間宿 宇津ノ谷
静岡市と藤枝市を結ぶ道は現代では先程の国道一号線の大きなトンネルである。
しかし古くは伊勢物語にも出てくる「蔦の細道」があり、西暦700年から1590年あたりまでの東海道はそれを指した。現在は自然豊かなハイキングコースとなっている。
今回僕が進む道は天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原攻めの際に拓いた宇津ノ谷峠である。蔦の細道は道幅が狭くて数万人と言われる大軍の進軍には向かないため、秀吉は蔦の細道の西側の峠道を拡幅したのだ。
他には明治時代に開削された「宇津ノ谷隧道(明治のトンネル)」もあり、これまた訪れる価値がありそうな古めかしいトンネルだが、今回は江戸時代に一番歩かれ参勤交代の大名も通過した道、宇津ノ谷峠越えを選択したのだ。

道は細く、間宿の宇津ノ谷の中心部に向かう。

山へと続く上り坂の両側には古い家々が並んでいる。

お羽織屋
小田原征伐に向かう豊臣秀吉はこの茶屋に立ち寄り馬の沓の取り換えを命じたが、主人は3つしか持ってこない。4つでは死を連想させるため、との主人の配慮に秀吉は喜び、小田原征伐の帰路に再度ここに立ち寄り褒美の羽織を与えた。今も実物が残っている。

急に斜度をあげ、フォトジェニックな町並みを進んでいく。

ここで舗装路と別れ、江戸時代の峠道に入っていく。完全に山道であるが、整備された歩きやすい道である。


路傍には馬頭観音の石仏が。馬頭観音の石仏は道中の安全を祈願する目的であるとともに、愛馬が転落などの不慮の事故で亡くなってしまった場所に建てられた。一頭につき一つの石仏であることがほとんどである。馬の寿命は20年~30年を超える。家族同然に過ごしてきた馬の冥福を祈って建てられたものだろうか。
ちなみに日光地方、今市から会津方面の道々には多くの馬頭観音石仏がある。これは江戸時代から明治時代にかけて荷物の運送業として活躍した仲附が施主になっているものが多い。

美しい里山を登る。

高度を上げる。宇津ノ谷はもう眼下に見える。

雁山の墓
山中に「雁山の墓」がある。山口素道に俳諧を学んだ雁山は甲府と駿河に庵を結んで自らの俳諧の地盤を築いた。雁山は享保12年(1727)頃に旅に出てそのまま行方不明になったため、駿河の文人たちが雁山の墓を建てて弔った。しかし雁山は実は生存しており、明和4年(1767)甲府で死去した。
江戸時代はもう少し山側のほうに道が通っており雁山の墓もそこにあったが、明治43年(1910)の集中豪雨で道が崩落したため、雁山の墓も現在地に移設復旧された。

地蔵堂跡
この大きな石垣は宇津ノ谷峠に地蔵堂を構えようと傾斜地を平らにするために造られた石垣である。江戸時代中頃に完成したとされ、二段構えの石垣は総高約7m、最大幅約12mもある。
「東海道分間延絵図」にもその姿は描かれている。

石垣の上に回り込むと、地蔵堂の台座も残っている。ここは歌舞伎「蔦紅葉宇都谷峠」で、盲目の文弥が殺された場所である。
文弥は盲目であったため、彼の将来を憂えた姉は遊女に身売りして100両を工面した。文弥はそれを持って座頭の官位取得のために京へ上る。盲目なうえに大金を持つ文弥に目を付けた盗人の仁三、かつての主人のためにどうしても100両を工面したい商人の伊丹屋十兵衛の3人が偶然丸子宿で同宿となったことから悲劇が始まる。「文弥殺し」の一場面である。

境内地には供養塔がある。旅の途中で行き倒れた人々を弔ったものか。

髭題目碑
南無妙法蓮華経のお題目が彫られている。側面には「為人馬安全」「天下太平五穀成就」、裏面には「天保六年(1835)霜月再興」と「備前国(岡山県)木綿屋門平」をはじめ、清水市から島田市辺りまでの願主の名が刻まれている。

坂下地蔵堂
峠を越えて坂下地蔵堂まで下りてきた。この辺りが蔦の細道と旧東海道の追分になる。
地蔵堂は創建年代は明らかではないが、元禄十13年(1700)に岡部宿の伊東七郎右衛門、平井喜兵衛、中野陣右衛門の三人によって再建された。
ここのお地蔵さまは、歩かなくなってしまった牛の鼻緒を引いて動かしたり、病で稲刈りができずに困っていた百姓を手助けしたという伝説から「鼻取地蔵」や「稲刈地蔵」と呼ばれている。祈願成就のお礼として鎌を奉納する風習があり、お堂の中には鎌が多数残されている。

ここから少し寄り道すると「明治のトンネル」に行けるが少し悩んでパス。しかし後に明治のトンネルについて調べると、行ってみてもよかったかなと少し後悔。
道は国道一号線に合流する。
東海道五捨三次之内 「岡部 宇津之山」歌川広重
歌川広重は岡部宿として、東海道の難所の一つであった宇津ノ谷峠と蔦の細道の追分を描いている。ということは宇津谷峠を越えた後に振り返っている構図か。左右に迫りくる山の間を細い峠道が通っている。

岡部宿
宇津ノ谷峠を越えると国道1号線に合流する。500mほど進み右に分岐して旧東海道に入ると岡部宿の看板が。
岡部宿は丸子宿と同様に小さな宿場だが、西の大井川、東の宇津ノ谷峠や安倍川を控えており、大雨で川止めになると数日の間、旅人で溢れかえったという。

岡部の一里塚
十石坂観音堂のそばには岡部の一里塚があったそうだが場所は未確定。江戸より48里目の一里塚。

旧東海道はこのように親切に道案内されている。

大旅籠柏屋
天保7年(1836)の建物が残り、歴史資料館として当時の旅籠の様子や暮らしぶりを伝えている。

岡部宿本陣跡
内野家が務めた本陣の敷地跡に表御門と塀が復元されたものである。

県道208号線と並行して進む旧街道沿いには古い家並みが続いている

鬼島の一里塚
スカッと通り過ぎてしまったこの旅の中で1、2を争う寂しい一里塚の杭。江戸より49里目。

須加神社の大クス
樹齢500年を超える巨大なクスノキ。

鐙ヶ渕と観音堂
この辺りは元々は葉梨川の渕で、その形が馬の鐙に似ていたため鐙ヶ渕と呼ばれていた。伝説によれば徳川家康は戦勝祈願のためにここに愛用の鎧を沈めたという。
蛇柳如意輪観音は恵心僧都の作とされ、子宝や安産に霊験があり参拝者が絶えなかったという。

公園内を横切るこの道が旧東海道。松の木も往時のものである。暖かい日で、数人の親子連れが公園でピクニックをしていた。

藤枝宿
藤枝宿は田中城4万石の城下町として栄えた。田中城は別名「亀城」とも呼ばれ、徳川家康の死因とされている鯛の天婦羅はここで食べたもの。
当時は本陣2軒、問屋場2軒、旅籠37軒と、2kmに渡る宿場町は大きな規模を誇った。しかし残念ながらここも特に見るべき古いものは無い。
成田不動
藤枝宿の江戸側の入り口で、領主番所跡の標石がある。

よくある地方の街並みで、午後12:30を過ぎたころだがコンビニも開いている飲食店もみつからない。この通りの名は「さわやか通り」ということで思い出したが、できれば静岡ローカルファミレスである「さわやか」にも行ってみたいと思ったが近くにはないらしい。

気を付けていないと見過ごしてしまう。ひっそりと本陣跡の案内。

東海道五捨三次之内 「藤枝 人馬継立」歌川広重
画題に人馬継立とあるように、広重は藤枝宿の問屋の様子を描いている。手ぬぐいで汗を拭いたり煙草を吸う雲助や馬に荷物をくくりつける者もいる。人馬継立は他のどの宿場でも見られる光景であるはずだが、広重は藤枝宿の題材が見つからなかったのだろうか。
継立とは江戸時代に公用の荷を宿場間のリレー方式で運んだシステムである。各宿場には決まった数の馬や人足を常に用意しておくように定められ、その対価は無料か極めて低廉であったため宿場にとっては重荷であったが、見返りとして認められる商用の荷物の運搬(駄賃稼ぎ)や旅籠の経営、年貢の免除などによって宿場は潤った。

志太の一里塚と秋葉神社
江戸より50里目の一里塚と秋葉神社の石祠、常夜灯。塚は明治10年頃(1877)まで残っていたが、その後は宅地造成により姿を消した 。

古東海道跡
瀬戸の山越えと言われる中世からの古東海道の跡。新しく東海道が拓かれた後も大井川が洪水になるとこの瀬戸山の上を越える道を通っていた。

鞘堂
明治天皇小休止跡の碑と天保4年(1833)の秋葉山常夜灯が置かれている。

上青島の一里塚
日本橋から51里目の一里塚跡。昭和57年に発掘調査が行われた際には丸い石積みのの一里塚跡が見つかった。この辺りは松並木が残っている。

島田宿
島田宿に入る。島田宿は大井川を控えて川越宿場として発展した。
宿場が整備されて間もない慶長9年(1604)には大井川の氾濫により宿場は壊滅状態になった。駿府城主の徳川頼宜は島田宿の周囲に土手を築き、元和2年(1616)に復興した。
写真はじっと動かないシラサギとのどかな島田宿。

文金高島田と島田髷
花嫁の和風の正装時に結われる「文金高島田」は島田女郎の島田髷が元になっている。由緒については諸説あるが、島田出身の遊女、大磯の虎御前が結っていたと伝えられている。島田市では毎年9月第3日曜日に「島田髷祭」が開催され、由緒ある島田髷に結った女性たちが街を歩くそうだ。
島田の一里塚
標石のみ残る。江戸より51里目。絵図には北側の塚しか描かれていない。

江戸時代は3つの本陣と48軒の旅籠を持つ大きな宿場町だったが、現在アーケード街の島田宿内は静かだった。

本陣
島田宿の3つの本陣は京都側からそれぞれ上、中、下本陣と呼ばれ、村松家、大久保家、置塩家が務めた。

ルートイン島田駅前
本日のお宿はルートイン島田駅前。シングル6,500円でなんと朝食までついている。
特筆すべきは大浴場があるということだ。ここで足を伸ばしてゆっくり入浴してから食事に出かける。


例によってまだ明るい時間はやっている店が少ないため、やはり昼飲みができる居酒屋になってしまう。しかしここが余りにひどい。
汚れたグラスに泡が半分のジョッキビールと…

前日切った残りと思われる冷やしトマト。皮が乾いて反り返っている。

ほとんど水にさらされていない辛い玉ねぎと乾燥した薬味、焦げた餃子など、一日の疲れを癒すにはあまりに悲しい夕食になってしまった。

この旅が始まって以来の一番悲しい夕食で、僕はオーダーした中でまだ調理の手が付けられていないものをキャンセルしてすぐに金を支払って店を出た。宿は島田駅に近いが大きな繁華街ではない。全体的に静かな街並みだ。
仕方がないので日が暮れたらまともな店に行こうと思って部屋でちびちび飲んでいたら出かけるのが面倒になって寝てしまった。
明日は大井川を渡り、難所と言われる小夜の中山の峠を越えて静岡県袋井市の袋井宿に向かう。

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