肩に食い込むザックの重みのその後
8kg弱のザックの重みが肩に食い込む痛さは旅の2日目くらいから気になっていたが、日々それがとても辛かった。
毎日宿が近くなる頃には子どもをおんぶするようにザックを抱えあげ、肩にかかる負担を減らして痛みを和らげようとしていた。
その対策として旅の2日目、平塚宿に入る手前のドラッグストアで高級湿布を買い求めた。朝、これを貼って日々歩いてきたのだが、当然そこは蒸れてかぶれ、肩は真っ赤に腫れあがった。肌荒れしたのだ。
今朝そこに湿布を貼ると、痛く熱くしみる。ザックを背負うとその熱さというかビリビリとしみる感じがブーストされるので、慌ててシップを外してゴミ箱に捨てた。
吉原宿を発つ
旅は6日目、本日は静岡県富士市の吉原宿を発ち、静岡市で薩埵峠を越えて府中宿に至る予定。
昨日ホテルに向かう際、JRの跨線橋「富士大橋」を北から南に歩いてJR富士駅の南口に至ったが、これはおそらく歩行者が歩くことが想定されていない跨線橋で、狭い路側帯を歩いているとかなり近い距離をクルマやトラックが通るので怖かった。今朝は少し遠回りになるがGoogleマップの言う通りの地下歩道を歩いて北口に至り、旧東海道に戻る。
天気は薄曇りで2月にしては温かい。

本日は長い移動距離になるため夜明け前の6時過ぎに出発。写真はようやく白んできた空。

特に何もない住宅地沿いを進んでいくと秋葉山常夜灯と道標がある。静岡県に入ってから常夜灯は秋葉山のものがほぼ全てだ。秋葉山信仰は静岡県浜松市の秋葉山(標高866m)を神体山とし、火伏せの神として全国的に広がった山岳信仰である。日光市では火伏せの神というと愛宕山(京都市)信仰が多いように思う。

「左 東海道」の道標。おそらくこの道標はもう少し先にあったものを移動してきたものだろう。

ずっと先の山の頂上がとても不思議な形をしている。

富士川の渡し
明治11年(1878)の明治天皇巡幸の際の少休止跡。
明治11年の巡幸では明治天皇は東京を発ち、中山道、北陸道の日本海側を経由して京都に至り、帰路に東海道を通って東京に帰っている。
この先には富士川の渡しがあるが、明治天皇は富士川を渡った後にここで休息されたということだ。

富士川橋の手前に水神社がある。境内には富士川渡船場跡の碑、「富士山道」と刻まれた道標が移されている。これは宝暦8年(1758)に東海道を外れて富士山に向かう登山者のために造られた。江戸時代に発行された登山案内図にもこの碑が描かれており、富士山を目指す者にとって重要な目標となっていた。

富士川が見えてくる。富士川の渡しは対岸の岩淵村が一切を掌握し、渡し賃は一人6文だった。
トラス式の古い橋、富士川橋から右手の上流(北側)を見る。観覧車は東名高速道路EXPASA富士川ICの観覧車だ。本来はこの上流側に大きく富士山が見えるらしいが、あいにくこの日は曇り空で富士山がみつからない。

岩淵村小休本陣 常盤家
富士川橋を渡って対岸の河岸段丘の急坂を登ると常盤家の黒門。常盤家は岩淵村の名主と渡船名主を勤めた旧家である。
ここはいわゆる間宿のひとつなのだろう。小休本陣では休憩を原則とし、宿泊することは幕府から禁止されていた。訪れた時間が早かったため(登校する小学生がたくさんいた)開門されていなかったが週末は中を拝観させてもらえるということだ。

岩淵の一里塚
両塚を残す岩淵の一里塚。日本橋より37里目。


箱根を越えたあたりから本当にたくさんのみかんの木があちこちにあり、熟れた実は地面に落ちている有り様だ。登校する小中学生がこのみかんを取る気配はなく見向きもしないし、「みかん盗るな禁止」的な注意書きもない。
いや、本当にあちらこちらにたくさんのみかんだ。これは渋柿みたいに食べたらエライことになるものなのだろうか…。

蒲原
ゆったりと蛇行する細い道をこまかく上り下りして蒲原に入る。このように蛇行しているのは地形上の問題で、山を切り崩すような大規模土木工事ができない時代に人間が歩きやすいところに道を作った名残なのだろう。現代ではこの道を貫くように東名高速が走り、それをくぐったり跨道橋で越えたりしながら先を進む。
蒲原の一里塚
江戸から38里目の一里塚。最初の一里塚は元禄12年(1699)の大津波で流失し、宿場の移転に伴いここに新しく作られた。現在は稲荷社が祀られている。

蒲原宿
おなじみの鉤の手になった木戸の跡から蒲原宿に入る。旧家屋が並びとても美しい。
蒲原宿は京都から江戸に向かう旅人にとって、富士川の渡河を控える宿場として賑わった。富士川が大水によって川止めになると、数日の間旅人は蒲原宿に滞在せざるを得なかった。

歌川広重の「蒲原 夜之雪」。温暖な蒲原宿に雪が積もることは滅多にないが、広重は深々と積もる雪、民家、旅人を描いている。また、蒲原にはここに該当する景色は無いとも言われる。傑作と言われるこの絵だが、なぜ雪を描いたのか、ここはどこなのか、不思議な一枚である。

問屋渡邊家
渡邊家が問屋を務めた3階建ての土蔵。4本の柱が上部に行くに従って内側にすぼまっており、このために耐震性に優れていると言われる。棟札から天保9年(1838)に上棟されたことが判明している。
渡邊家は材木を扱っていたことから「木屋」と呼ばれた。

旧商家の佐野屋
旧商家の佐野屋の跡。外壁は火災の延焼を防ぐ目的でを土と漆喰で塗り込められた塗家造になっており、白い漆喰がかまぼこ型に交差して盛られたなまこ壁も美しい。

旅籠 和泉屋
天保年間に建築された古い建物で上旅籠だった和泉屋の跡。看板掛けや2階の手すりは当時のままである。昼間はお休み処として中に入ることができるらしいが、やはりまだ朝なので閉まっている。

蒲原宿本陣跡
蒲原宿の本陣を務めた平岡家。東海道中膝栗毛ではこの本陣に大名行列の一行が滞在しており、本陣内は配膳の真っ最中でドタバタしていた。喜多さんはこの中に紛れ込み、行列の一行のような素振りをして配膳を持ってこさせ、たらふく食べた後に余った飯を手拭いに包んで外で待つ彌次さんに持っていく。彌次さんは喜んでこれを食べるが、手拭いを見るやいなや「てめえの金玉や何かを洗った手拭いなんかに飯を包んで来やがって、ペッペッ、ああ気分が悪くなった」と文句を言う。


本陣前から眺める蒲原宿の町並み。右が本陣、左が和泉屋。
この道幅、クルマはすれ違えるがセンターラインは引けないし歩道もない、これこそが江戸時代の宿場町の道幅そのものなのだ。
古い家屋が今も良い状態で多く残る。こういった宿場町を歩くのは気分が良い。

五十嵐歯科医院
国登録有形文化財、明治期に伝統的な町家として建築された五十嵐邸。町家とは、日本の都市部や街道沿いで発展してきた「店舗併設の都市型木造住宅」を言う。
大正3年(1914)に当時の当主・五十嵐準氏が歯科医院を開業するにあたり町家を洋風に改築したが、邸内は純和風の造りだという。

約1.2kmほどの小さな宿場、蒲原はこのように有形文化財に指定されている建物も多く、たとえ文化財に指定されていなくても住民の手によってクラシカルな街の景観が保たれている。
由比
蒲原宿から由比宿は4kmほどとかなり近い。あちらこちらに名物の「桜えび」の看板がある。
由比の一里塚
由比の一里塚はご覧の通り完全に崩されて碑しか残っていない。江戸より39里目。

本陣公園(由比宿本陣跡)
江戸時代、由比宿には本陣1軒と脇本陣1軒、旅篭屋が32軒あった。
本陣は今川義元の家臣である由比家が代々務め、その敷地は1,300坪もあった。現在は本陣公園として整備され、江戸時代のものが復元されている。

正雪紺屋
慶安の変の首謀者、由比正雪の生家。正雪は代々染物屋を営む家に生まれたが家業は継がず楠木流軍学を教えて名声をあげた。正雪は慶安4年(1651)江戸幕府の転覆を図り丸橋忠弥・金井半兵衛らと反乱未遂事件を首謀した。同年7月、江戸で密告をうけた町奉行が牢人丸橋忠弥を逮捕して尋問したところ、正雪を首謀者とする駿河国久能山(静岡市)乗取り、江戸や・上方での騒乱などによる幕府の転覆計画を自白。同月26日、正雪は駿府で捕縛されそうになると自死して果てた。
正雪紺屋は江戸初期から400年以上の歴史を誇る染物屋で、昔ながらの道具や藍甕などを見学できる。

入上地蔵堂
旧東海道から左手に少し外れると、由比川の手前に入上地蔵堂がある。江戸時代の由比川はここに仮橋が架けられており、増水の際は橋を外して徒渡しとなった。地蔵は水難者の供養を目的とする川守地蔵である。

稲葉家 せがい造りと下り懸魚
蒲原宿と由比宿は今も住民がお住まいの古民家が数多く残されており本当に楽しい。
稲葉家の住宅は「せがい造り」「下り懸魚」と呼ばれる造りで、長く伸ばした軒先を支えるために、腕木と呼ばれる横木で支える構造をいう。その腕木が風雨で腐食しないように装飾を加えたものが下り懸魚というそうだ。
これらの古い町並みを維持していくのは相当にお金もかかることだろう。自分は何もできないが感謝しか無い。

和瀬川の小さな石橋を渡ると「おもちゃのはら」の看板が。東海道とは何の関係もないが、思わず写真に収めたくなる可愛らしさである。

何の目印も無いので非常にわかりにくいが、県道370号から右に分かれて1本山側を通る県道396号線に向かう小径が旧東海道だ。

細い道は100m余りほどしかないがかなり狭い。

一本下の道にJR由比駅が見える。由比を象徴する「由比桜えび通り」のアーチは由比駅前にあるので見ることはできない。

間宿 西倉沢村
間宿である西倉沢は薩埵峠越えを控える旅人のために茶屋が軒を連ねた。
西倉沢の道幅は江戸時代と変わらず、立ち並ぶ古い家並みは極めて美しい。

名主の館 小池亭
長年名主を務めた小池氏の母屋。武田家の家臣として代々「文右衛門」を襲名した。
国登録有形文化財で、中を見学することもできる。

鞍佐里神社
日本武尊が東征の途中、薩埵峠で敵の焼き打ちの野火に囲まれた際、自ら鞍の下に入って難を逃れたが鞍は燃え尽きてしまった故事から鞍去(くらさり)と言われるようになったと伝わる。草薙の剣伝説の一つだろう。
鞍去が後に倉沢と転訛したともいわれている。

脇本陣 柏屋
明治天皇の東幸の際に休憩所として使われた。

西倉沢の一里塚
江戸より40里目の一里塚。

望嶽亭 藤屋
富士山の眺望が良いことから望嶽亭と呼ばれた。「望嶽亭」の名は室町時代末期、すでに名所図会にもその名を残しており多くの文人墨客が好んで休憩を取った。
幕末、山岡鉄舟は徳川慶喜の名代として西郷隆盛との会談のために駿府に向けて急いでいたが、夜の薩埵峠を闇に乗じての山行中、見張りの薩摩藩兵たちに見つかってしまった。
鉄舟はもと来た道を走って引き返し、この望嶽亭に匿われて難を逃れた。鉄舟はその際にフランス製のピストルを残し、海路で探索を振り切ったという。

薩埵峠
望嶽亭の前で右に登る坂道が薩埵峠の始まり。
薩埵峠はもともとは海の干潮の時を見計らって海岸沿いを通った危険な道が通されていたが、明暦元年(1655)第4代将軍・徳川家綱の就任(襲職)を祝うために来日した朝鮮通信使のために山を切り拓いて通した街道である。
ちなみにこの時の朝鮮通信使は江戸で将軍に謁見した後、日光東照宮にも参詣している。

急な斜度の坂はあっという間に高度を上げ、振り返ると駿河湾と富士山が一望できる。
ここで新潟在住時代に一緒にあちこち旅をした旧友のTくんと合流。フェイスブックで僕の旅の様子をチェックしてくれていたのだ。彼は現在、浜松市在住で、世界を飛び回って活躍する実業家である。Tくんはこの日の残り20kmを一緒に歩いてくれる。
現代はホテルのチェックイン、チェックアウト、食事をする際のオーダーも機械化されていることが多い。そのため実に6日ぶりに人とまともに会話した。
「もっとボロボロになってるのかと思ったが元気そうでよかった」と言われたが、彼はホームレスのような出で立ちを想像していたのだろうか。毎日洗濯もして風呂も入っています。

何度も振り返って、薩埵峠からの絶景を楽しむ。海沿いを国道一号線が通っている。西倉沢、そしてこの薩埵峠はこの日のメインディッシュである。

東海道五捨三次之内 「由比 薩埵嶺」歌川広重
「此所富士山鮮やかに見えて、東海道第一の風景なるべし」。名所記の一文である。
広重は広々とした駿河湾と雪の富士山、そして左上に断崖の上から恐る恐る絶景を眺める旅人を描いている。

山の斜面にはみかん畑とびわ畑が広がっており、収穫した作物を運搬するモノレールが設置されている。乗ってみたい。

モノレール。

高度を上げ、薩埵峠の頂上に。眼下に見えるのは富士由比バイパス国道1号線。高所恐怖症なのでけっこう怖い。

Tくんと記念の1枚。なんとここまでは逆方面からクルマで来られる車道が整備されているらしい。駐車場には観光客の姿がちらほら。我々は山道を進む。

山の神遺跡
ここにあった山の神は大正14年(1925)西倉沢の鞍佐里神社に遷座している。

階段状に整備された下り坂を進む。道中、薩埵峠の歴史が書かれた案内板を眺める。

興津
薩埵峠を下り切ると墓地に出る。素晴らしい景色かと墓地との対比は彼岸と此岸の境目のような不思議な雰囲気であった。
ここはもう興津。軒先や倉庫の片隅に青島みかんが山のように盛られ、「ご自由にお食べください」ともある。
このあたりは平坦な住宅街を大きく迂回するように旧東海道が続いている。なぜかと思ったら、古い地図をみるとこの辺りは小山になっており、それを迂回する道だったことが想像できる。

興津川の川越遺跡
興津川は江戸時代は徒歩渡しで、両岸にあった「川会所」で「越し札」を購入し蓮台または肩車で川越えした。水深が4尺5寸を超えると川止めになった。
現在は「浦安橋」が架橋されているが、歩道が狭くて肩身狭く興津川を渡る。Tくんは身長190cmあるためもっと肩身狭くして歩いている。

歌川広重は興津川を渡る力士を描いている。力士達を乗せる馬も駕籠かきも不平不満がありそうな顔をしている。左手に山、右手に駿河湾が見えるということは京都から江戸方面を見た構図だろう。
先ほど「川会所で越し札を購入する」と言ったが、料金は季節や雨量による川の深さで決まるのが普通である。ということは渡す対象が女性でも力士でも料金は同じだったのだろうか。それは馬も不満を言うだろう。

興津の一里塚
江戸より41里目の一里塚の跡。標石のみ。

興津宿
本陣と脇本陣を2つずつ備えた興津宿は、興津川越えや薩埵峠越えを控えた宿場で賑わった。現在興津宿はのどかな住宅街に変貌を遂げており、幾つかの寺はあるが特に見るべきものは無い。

興津宿 東本陣跡・西本陣跡
50メートルの間隔を置いて東本陣と西本陣がある。東本陣は市川新左衛門、西本陣は手塚十右衛門が務めた。


清見寺
興津宿の高台に臨済宗の清見寺がある。幼少時の徳川家康は今川氏の人質として駿府にいた頃、清見寺の太原雪斎より教育を受けた。その時の手習いの間が今も残る。
東海道を往来した朝鮮通信使の宿泊施設としても使われ、書蹟や絵画など貴重な歴史資料が保存されている。

無縁さんの碑
この辺りには「細井の松原」と呼ばれた松並木があった。太平洋戦争末期の昭和19年(1944)、輸入が途絶えた石油の代替燃料にするために松の根を掘り起こして松根油が製造されたが、その樹の伐採の際に多数の人骨が出土した。人骨は住民によって葬られたがその供養のために平成13年(2001)に建てられたものである。
ちなみに松根油は航空用ガソリンの代替物としての利用が期待されたが、精製技術や原料不足、収率の悪さから実用化されなかった。

昼食
何度も言うが旧東海道はもはや裏道なので、食堂を見つけるのもなかなか困難な場所もある。途中見つけた定食屋さんで生シラス丼を食べる。Tくんに奢ってもらってしまった。ごちそうさまでした。

辻の一里塚
さらりと素通りしてしまって慌てて戻って探した辻の一里塚。東海道と郡家湊道の辻にあるものである。江戸より42番めの一里塚。

江尻宿
興津宿からわずか5kmほどに江尻宿がある。本陣2、脇本陣3を備え、旅籠が軒を連ねた当時の宿場町は清水銀座と呼ばれる商店街になっている。江尻は現在は静岡市だが合併前は清水市で、清水港の港町だった。

画題に「三保の望遠」とあるように、広重は駿河湾と画面奥に伊豆半島、画面の真ん中に三保の松原と風景絶佳を描いている。

江尻宿寺尾本陣跡
寺尾與右衛門が務めた。明治天皇は明治元年10月、翌2年3月の行幸の際にはここを行在所とされ、寺尾家の宿帳には春日局、吉良上野介、朝鮮通信使などの名前が見えるそうだ。
江尻宿は古い建物の殆どが消失したため碑が残るのみである。

草薙の一里塚
江尻宿を離れて進むと草薙の一里塚。江戸より43里目で、となりには草薙の高札場があった。

長沼の一里塚
府中宿が近くなってきたところで長沼の一里塚跡碑。江戸より44里目。今はゴミ捨て場か。

視線
まもなく府中宿。視線を感じると思ったら2階から人が見ていた。

府中宿
府中と言えば徳川家康の駿府城だろう。家康は駿府城を築いて将軍職を秀忠に譲り、この地で大御所政治を展開した。府中宿は東海道で最大規模の宿場町となり、碁盤の目のように整った道路はところどころ鈎の手状に曲げられている。
江戸幕府最後の将軍、慶喜もこの地で晩年を過ごしている。
駿府城は訪れていない。小田原城もそうだが、近年新しく復元された城にはそれほど興味がないのだ。観光はまたの機会に。

本日のお宿は「アパホテル静岡駅北」、シングル5,500円。繁華街の中にあり、シャワーを浴びた後Tくんと食事に出かけた。身体に気を使っているT君だが、しっかりお酒に付き合わせてしまった。すまぬ。
中心市街地は清水エスパルス関連のポスターや自販機だらけだ。


本日はフルマラソンの距離を歩いた。薩埵峠も越えたし、良い景色にも恵まれた。
明日は府中宿から島田宿まで、約30km強の道のりだ。

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