旅の日記を見返してみると、この日の朝に起床した時に、ザックを背負う肩の痛みと回復しない疲れについて書かれていた。道中の記録にも「疲れた」とある。
もちろん日々、毎日疲れてホテルにチェックインするのだが今思い返すと疲れのピークはこの日だったような気がする。

三島宿
静岡県に入るとテレビの番組名も知らないものが多くなり、天気予報もCMもニュースも地名がわからないのでチンプンカンプンになる。大体において、箱根まではなんとか地名も分かるがそこから先になると自分が日本のどのあたりにいるのかもよく分からなくなってくる。
朝6:45、三島宿を出発。今回のホテルは旧東海道上にあり、三島宿のド真ん中にある。

東西に走る旧東海道上の交差点。この辺りには三島宿にあった2軒の本陣が東海道を挟んで置かれていた。三島宿の中心部だったのだろう。
西に向かって右手に世古本陣跡、左手に樋口本陣跡の案内板が置かれている。赤穂浪士の大高源吾は三島宿の雲助に因縁をつけられ口論になったが、世古本陣の主の世古六太夫が仲裁に入り、大事を控えた大高は詫び証文と酒手2分を渡したという。

三島宿の時の鐘
細い源兵衛川を渡ると時の鐘がある。寛永年間(1624~1643)に設置された時の鐘は三島宿に明け六つ、暮れ六つの時を知らせた。三島八景の一つにも数えられている。

広小路踏切
伊豆箱根鉄道の駿豆線を横断する。電車にはあまり興味がないのだが、全然見たことのない電車を見ると何故かシャッターを切りたくなる。

伏見の一里塚
京都に向かって右手に玉井寺の一里塚、左手に宝池寺の一里塚が対になっており、合わせて伏見の一里塚という。江戸から29里目の一里塚である。
玉出寺の一里塚
右手の玉井寺の一里塚は金龍山玉井寺の横にある。原型を残している。
玉井寺山門の「金龍山」の字は高層・白隠慧鶴の遺墨である。白隠は「駿河には過ぎたるものが二つあり富士のお山と原の白隠」と言われ、500年に一人の名僧と呼ばれた。

宝池寺の一里塚
道を挟んで反対側には宝池寺の一里塚がある。復元である。

八幡神社
治承4年(1180)源頼朝の平家追討の挙兵を知った義経は奥州平泉より馳せ参じ、兄弟はこの神社で対面して平家打倒を誓いあった。

令和5年に石鳥居がリニューアルされたが、古い石鳥居はこのように背が低くなって傍らに飾られている。「開運鳥居」と命名され、日頃触れない鳥居の上部を撫でてみては、と書かれていた。撫でるための踏み台まで設置されている。僕も躊躇なく撫でてみる。

太鼓橋。元々の橋は左右の川の流れに架けられていたのだろうが、新しい石橋はこんな感じで可愛らしくコンクリート橋の上に置かれている。

本殿。八幡神社の創立は不明。祭神は、譽田別命(応神天皇)、相殿には比売神、母の息長足姫命(神功皇后)の三神。

頼朝、義経が面会したとされる対面石。昔の写真より周囲がこざっぱりしている。

八幡神社を後にして旧東海道を進む。松並木が残っている。

智方神社
黄瀬川を渡る手前に智方神社がある。後醍醐天皇の皇子で、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての僧侶・武将であった護良親王は鎌倉で斬首され、従者がその御首を奪って京都に持ち帰る際、黄瀬川の洪水のため通行不能となりやむなくここに埋めたと言われる。

護良親王の首が埋められた場所には目印としてクスノキが植えられた。後にその場所に智方神社が創建されたという。下の写真はそのクスノキ。

沼津
従是西 沼津藩領 傍示石
黄瀬川(写真右手のように木瀬川とも)を渡るとまもなく「従是西 沼津藩領」の標石がある。しっかりしているので最近復元されたものかと思いきや、安永7年(1778)初代沼津藩主の水野出羽守忠友によって設置されたものだという。

平作地蔵
沼津の宿内に入る手前に「平作地蔵」がある。
浄瑠璃「伊賀越道中双六」に登場する沼津の平作ゆかりの地蔵。

この物語は、寛永11年(1634)備前岡山藩池田の家中、渡辺数馬が、弟を殺した河合又五郎に敵討ちをした史実を元に作られた。数馬は姉婿である剣客荒木又右衛門の助けをかりて、河合又五郎を伊賀上野城下の鍵屋の辻で討ち取った。
この「鍵屋の辻の決闘」は「赤穂浪士の討ち入り」、「曾我兄弟の仇討ち」に並ぶ日本三大仇討ちの一つと言われている。東海道を歩き始めた初日に寄った港区高輪の泉岳寺では赤穂浪士の墓所を、4日目の箱根では曽我兄弟ゆかりの場所を巡ったが、図らずも東海道を歩いていたら日本三大敵討ちゆかりの場所を巡っていた。
さて、この「鍵屋の辻の決闘」は浄瑠璃の物語では史実からずいぶんとかけ離れた話になっている。
長い物語なので以下にリンクを貼った。
文化デジタルライブラリー「伊賀越道中双六~沼津の段」
うむ、全然違う。物語で涙を誘う平作や十兵衛は話を膨らませるための架空の人物だと思われる。調べてみるとこの地蔵尊は、寛永年間に書かれた東海道分間延絵図では「黒瀬地蔵」として描かれており、子育て延命地蔵である。その後、明治の廃仏毀釈運動により黒瀬地蔵は荒れ地に長年放置されていたため、地元の人が見かねて明治40年頃に小堂を建てて安置したそうだ。その際に浄瑠璃からヒントを得て「平作地蔵」と名付けたのではないだろうか。

自らを犠牲にしても子のために尽くす平作の人物像から、現在は延命子育地蔵として信仰を集めているそうだ。
沼津の一里塚(日枝の一里塚)
江戸より30里目の一里塚で、一里塚公園内に縮小復元されている。

この沼津の一里塚とその手前の伏見一里塚の距離は1里に満たず短いが、沼津宿内に一里塚を作るのを避けたためこの場所に塚が設けられたという。とは言っても、東海道中の宿内に一里塚がある宿場はいくつかあるのでここだけが特別なのだろう。

傍らには古墳時代に勾玉を研磨したとされる「玉砥石」も保存されている。

旧東海道 川廓通り
川廓町は旧東海道にあり、東の左手を狩野川に、北の背後は沼津城に接した町だった。当時は狩野川に舟運が開かれていて、このあたりは船着き場として宿場町、城下町の中心地となっていた。

歌川広重は沼津を日暮れの時間として描いている。広重の東海道図の中ではこの沼津が唯一「月」が描かれているものになる。
夕暮れに重い脚を引きずる子連れの親子と天狗の面を背負った修験者が狩野川沿いを歩いている。もう沼津宿は眼の前だ。

沼津宿
JR沼津駅前の通りから少し外れて沼津宿に入る。沼津藩5万石の城下町として栄え、本陣は高田、間宮、清水の3つを有していた。今は標石が置かれているだけである。かつての中心地だったこの辺りは再開発され、よくある地方のちょっと寂れた町並みである。

話はずれるが、東京から歩いてきて、最初はFC東京の小旗をよく見かけた。川崎に入るとフロンターレになり、横浜FCになり(マリノスの方は見かけなかった)、ベルマーレになった。ここ沼津にはアスクラロ沼津があるはずだが一枚のポスターも見かけず、代わりにアニメの女の子のポスターがあちこちに貼られていた。これは「ラブライブ!サンシャイン!!」というキャラクターだそうで、僕はその方面に疎いのでよくわからないが、何でも沼津がその舞台なんだそうである。ふーんなるほど。でもアスクラロはちょっと可哀想。
間宮本陣跡
西本陣であった間宮家と、東本陣であった清水家の本陣跡の標石が道を挟むような形でおかれている。特に寄るべき場所はないので宿内は素通り。三島市が広く観光に注力しているのに対し、ここ沼津市は残念ながら東海道ウォーカーにとって魅力に乏しい町並みである。

松長の一里塚
特徴も無く見るべき史跡もない真っすぐな旧街道を進む。途中に江戸より31里目の松長の一里塚の碑。大諏訪の一里塚とも。

右手にはずっと大きく富士山が見えているが、電柱と電線が邪魔して写真を撮る気になれない。
本物に出会う
沼津でホンモノとすれ違った。天狗の面を背負っていても何ら不思議ではない。歳は僕と同年代である。大きなザックを背負った僕と、修験僧の出で立ちの彼は、お互いにしっかり目礼を交わす。あちら様の格好はひと目で只者ではないと分かるが、彼から見ても僕はしっかり目礼を交わすほどの旅人に見えたのだろか。
あの服装であの靴で、京都から江戸まで歩くのだろうか。着替えは、宿泊先はどうするのだろうか。
沼津で出会った唯一の見どころだった。

「ドーーン!ドオオーーーーン!」と大きな音
退屈な道中だが、右手の富士山の方角の遠くから「ドーーーーン!」というくぐもった大きな音が何度も聞こえる。「山鳴り」という言葉は知っているが、これのことだろうか。
もう2時間以上たまにそんな音が聞こえてくるので、植木に水を上げていた方に「この音はなんですか?」と尋ねてみると、「確かにドーンとなっているのは分かるけど、長年住んでいても気にしたことなんてなかった、何だかはわからない」とのことだった。
なるほど、線路の側に住んでいる人がいちいち電車が通過する音なんて気にしない、みたいなことか。
しかし気になって観光協会に電話して尋ねてみると、おそらく風向きによって聞こえる御殿場の自衛隊基地の演習の音ではないか、とのことだった。
聞けば確かに、大砲の音である。
原宿
原宿は昔も今も小さな宿で、旧東海道は国道1号線の300mほど南側を平行に通っている。お寺や神社はたくさんあるが、コンビニや食事する場所は本当に見つからない。
歴史民俗に理解がある方がこの辺にお住まいなのだろう、お手製の原宿の案内板を多数見かけた。ありがたいことである。

白隠禅師誕生地の碑
臨済禅中興の祖、白隠慧鶴禅師は「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」と歌われたほどの名僧で、貞享2年12月25日(1686年1月19日)、この地で生まれた

白隠禅師が生まれた時に使用した「産湯の井戸」がこの奥に今も湧き出ているが、飲めはしないということだ。

原宿 渡邉本陣跡
渡邉家は源頼朝の弟(義経の兄)である阿野全成の末裔で、代々「平左衛門」と名乗り問屋、年寄、名主を兼ねた。阿野全成は頼朝の挙兵に際していち早く参陣した勇猛な武将であったが、鎌倉幕府成立後に謀反の罪で捉えられ、2代将軍頼家の命を受けた八田知家によって栃木県の茂木で誅殺された。

原の一里塚跡
江戸より32里目の一里塚跡で、一本松の一里塚ともいう。
こういったものを個人の方が善意で作ってくれているのをとてもありがたいと思う。


ちなみにこの辺りから先は「桃里」という地名になる。元和元年(1615)に遠州から移住した鈴木助兵衛によって新田が開発されたため当初は「助兵衛新田」と言われていたが、助兵衛という地名はあんまりだという地元住民の嘆願が実り、明治11年(1908)に「桃里」に改名されている。
富士市へ入る
富士市に入る。市章は富士山をモチーフにされている。
旧東海道は現在は県道380号線となっているが、歩道は狭く、至近距離をトラックがガンガン走り抜けていくので怖い。

原宿は結構前に過ぎたが、歌川広重は「原宿」と題しながらもこのあたりの浮島ヶ原を描いている。右手に描かれた山は愛鷹山。この山については下部で説明する。
朝日に、雪の富士山がうっすらとモルゲンロートに描かれている。

六王子神社
六王子神社には伝説があるが、物語は例によって仔細が違う。ここでは一般的なものを引用する。

生贄川とも呼ばれた和田川と沼川の合流地点、三股淵には大蛇が住んでいて、毎年の祭には少女が生贄として捧げられていた。あるとき京都へ向かって旅する下総の7人の神女がその祭礼のための生贄として捕えられてしまった。そしてくじ引きで、最も若い「阿字(おあじ)」が人身御供に選ばれた。
残った6人の神女は上京を諦め下総に戻ることを決めたが、おあじを置いてきたことを後悔し、近くの浮島沼に入水してしまった。
その一方、おあじは浅間大神の神力により大蛇が鎮まったため難を逃れた。解放されたおあじは仲間を追いかけたが、神女らが近くの沼で入水したことを知り、失意からおあじも自死してしまう。
村人はこの神女達を哀れみ、おあじを氏神として阿字神社を、また神女6人に対しても柏原の地で六王子神社を建立して祀った。

六王子神社の境内でザックを下ろし、近くのコンビニで買った昼食をゆっくり食べ、ソックスを変えてボーーーーっと20分ほど休憩。この旅の中で、この日この場所の休憩が一番長かったかもしれない。それほど疲労困憊だったのだ。
間宿 柏原
間宿の柏原。茶屋が軒を連ねる町並みに本陣もあった。歴史的なもの、そして正式な宿場でない間の宿の案内板に潤沢な予算が割り当てられないのは理解できる。でもこのように、旅行者に有意義な情報が設置されている。
さあ、我が日光市はどうだろう。我々は原宿や柏原宿のように、日光街道を旅する旅行者を個人としても歓迎出来ているのだろうか。

立圓寺
日蓮宗の立圓寺。境内に入ると「ゲラティック号の錨」と「望嶽碑」がある。

ゲラティック号 遭難誌
富士市の海岸に打ち上げられたゲラティック号の錨。
昭和54年(1979)10月19日、清水港より救援米を運ぶゲラティック号は途中、台風20号による強風と高浪により立圓寺南方の柏原海岸に直立のまま座礁し、救助を求める二人の船員も命を落とした。
船体は六ヶ月間を要して解体処理され、遭難者の冥福を祈り碑が建てられた。

望嶽碑
文化5年(1808年)、尾張藩の典医、柴田景浩がここから眺める富士山の美しさを称賛し建立した石碑。この辺りは電柱電線のお陰で雄大な富士山の写真を撮ることをためらっていたが、ここからの富士山は極めて秀麗だ。


愛鷹山
「愛鷹山」、この漢字が読める人は、富士山周辺に住んでいる人を除くとそれほど多くないのではないか。正解は「あしたかやま」。大抵の人はアニメ「もののけ姫」のなかの有名なセリフ「わが名はアシタカ!東の果てよりこの地に来た!」を連想するだろうが、その関連性はよくわからない。
富士山の南側に位置する愛鷹山はいくつかの峰を合わせて「愛鷹山塊」とされ、旧東海道を歩く人には富士山の前立てのように長い日数お付き合いする。

開墾 増田平四郎の像
増田平四郎は原宿の人で、浮島沼の開墾に生涯を捧げ、天保の大飢饉や度重なる水害からの復興を目指して大規模な土木工事を行った。

沼田新田の一里塚
沼田新田の一里塚跡はかなり分かりにくく、沼津市歴史民俗資料館に尋ねても「わからない」と言われてしまった。
増田平四郎像から約50メートル程進むと左側に「富士マリンプール」を案内する標識があり、そのたもとに沼田新田の一里塚跡の石碑が置かれている。

江戸より33里目の一里塚。このあたりは海岸線に近く、元吉原と言われる。

吉原
吉原宿は江戸時代の初期、2度の大津波で壊滅的な被害を被り、その度、元吉原から中吉原(寛永16年(1639))、そして新吉原(延宝8年(1680年))と言われる現在の吉原宿まで内陸部に移動してきた。
元吉原の川合橋は「東海道中膝栗毛」にでてくる「かしわ橋」のことで、昔は富士山が正面に見える絶景ポイントだった。

現在はこのように複数の高圧電線や大きな建物が視界を妨げる。非常に残念だ。

旧東海道は国道1号線の高架をくぐると大きく右に曲がり始め、古い家並みが続く。
元吉原を過ぎて、この辺りは中吉原と言われる。

左富士神社
左富士神社は伝統的に悪王子神社として信仰されてきた。江戸時代の初期、このあたりは多くの樹木が茂り、天狗が住む「悪王子の森」と呼ばれた鬱蒼とした森だった。
しかし寛永16年(1639)、一度目の津波の被害で吉原宿(元吉原)がここに移動すると(中吉原宿)、状況は一変し、この神社には新たに鳥居や本殿が新築されて賑わった。
延宝8年(1680)に二度目の大津波がこの周辺を襲い、吉原宿はさらに内陸部の現在地に移動したが、その際にも悪王子の森は水難を免れ多くの町民を救ったと言われる。
明治11年(1878)に「左富士神社」に改められた。

敷地内には依田橋の一里塚が縮小(本当に縮小されて)復元されている。


左富士
道は大きく北に曲がり、富士山が左手に見える。東海道中で富士山が左に見えるのは、ここと茅ヶ崎の南湖だけである。

歌川広重は吉原宿の題材に左富士を選んでいる。曲がりくねった道はまず左へ、そして画面奥で右に。そして左側に富士山が描かれている。おそらく上の写真と下の図がほぼ一緒の場所だろう。
絵では子ども3人を乗せた男性、先に駄馬と旅人が見え、子どもは富士山を眺めている。

平家越碑
和田川に架かる平家越橋と道標。
源氏が挙兵した治承4年(1180)10月、源頼朝率いる源氏軍と平維盛率いる平家軍が対峙した。 荒々しさで有名な源氏軍にすっかり恐れおののいた平家軍は合戦の前夜、一斉に飛び立った水鳥の羽音を源氏の夜襲と勘違いし、慌てて戦わずに逃げ去ってしまったという場所である。


吉原宿
吉原宿に入る。天保14年(1843)の東海道宿存大概帳によると、宿内家数653軒、本陣2、脇本陣3、旅籠60軒を備えていた。
この辺で食事をと思ったが、今やここはシャッター街であり、どのような業種であっても営業している店を探すほうが難しいほどである。

間宿 本市場
特に見るべきものない吉原宿を離れて先に進み、間宿の本市場に入る。農業の神を祀る米之宮浅間神社の門前に市が立ったことからこの名がつけられた。

本市場の一里塚
小さな公園内に「本市場の一里塚」跡碑がある。江戸より35里目。

スーパーホテルJR富士駅本館
15時頃、本日の宿に到着。スーパーホテルJR富士駅本館は東海道から離れ、JR富士駅の南側にある。その距離は800mほど。
1泊6,120円でなんと朝食付きであるが、翌朝も出発が早いので朝食は食べられなかった。
きれいな施設でロフトベッドがあり、所狭しと荷物を置かなくてよいので助かる。
何と言っても大浴場が素晴らしかった。久しぶりに脚を伸ばしての入浴。湯が身体に染み込んでくるように心地よい。


ホテルの側にはコンビニも飲食店も無いので、ホテルの自転車を借りて富士駅の北口へ行って見たが時間はまだ15:30、昼飲みの時間である。唯一開店していたチェーン店の海鮮居酒屋で夕食を取った。

体力的に辛い一日だったが、この日を無事乗り切ったことで、「東海道完歩、いけるかも」と自信もついた。
明日は東海道3大難所と言われる薩埵峠を越える。

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