

前回の続きで、旅の4日目の「小田原-箱根-三島」の後半について書く。
箱根峠
観光客が多い箱根宿を離れ、えっちらおっちら石畳の坂を登って箱根峠に向かう。これらの坂は江戸時代の浮世絵ではゴロゴロとした石と一面の茅、そして伊豆の国とを分ける標柱が描かれているのみで荒涼とした山道だが、現在もそれはほとんど変わっていない。

本日の最高標高である箱根峠に到着。相模と伊豆の国境にあたり、ここから三島までを「箱根路西坂」という。神奈川県から静岡県に入った訳が、県境の標識は無い。ここはクルマは通れない山の中で、そんなものを建てる意味がないのだろう。

三島宿まで12km。まだ長い。

三島宿
箱根峠を越えると静岡県に入り、三島市になる。三島宿は三嶋大社の門前町として古くから栄えた。
甲石坂
国道1号に合流するがすぐに別れ、甲石坂に向かう。500mほど続く下りの坂道の途中に、かつて豊臣秀吉ゆかりとされる兜石があったことから甲石坂と呼ばれた。路の左右は並木の代わりに箱根竹が生えている。箱根竹はキセルの煙管として使われ、石畳が敷かれる前の東海道はこの竹を敷いて悪路を歩きやすくしていたという。
しかし甲石坂は令和元年(2019)の東日本台風で大きく損壊されたため、完全に通行止めになっており、国道1号の歩道に迂回するよう誘導されていた。バリケードは厳重で、ちゃっかり入ってしまうことは不可能である。
国道1号から別れて400mくらい歩いてきたのでがっかりだが、来た道を国道1号まで戻らなくてはならない。

退屈な車道歩き。甲石坂は500mほどの距離だが車道は勾配を緩くするために大きく回り込み、1.5kmほどの距離となる。
甲石坂の出口側に着く。やはりこちら側も厳重にバリケードが施されている。

山中接待茶屋・山中の一里塚
すぐに石畳の山道に入る。石原坂と呼ばれる坂だ。ここには山中接待茶屋があり、旅人には粥、牛馬には飼葉が無料で施されたという。江戸時代中期に商人・加勢屋與兵衛によって興された茶屋は何度か中断され、篤志家である経営者(無料接待なので経営とは言わないだろうが)も複数回変わったが、昭和45年(1970)に廃されるまで長期に渡って箱根を往来する人馬の救済にあたった。
すぐ傍らにある一里塚は「山中の一里塚」。江戸から26里目の一里塚。南塚が残り、北塚は見当たらない。南塚の上にはアセビやツツジが植えられているがこれは昭和の前半に植えられたもので、「東海道宿村大概帳」には塚の上に木は無いと書かれている。その他「東海道分間延絵図」には北塚に木がなく、南塚には複数の低木が書かれているが種類は判別できない。
ちなみにこの一里塚と、一つ手前の葭原久保の一里塚の間には25里目の一里塚があるはずだが、不存在ということだ。

兜石
小田原攻めに向かう豊臣秀吉が兜を休めた岩と伝わる。もともとはここより手前の甲石坂に置かれていたが、国道1号線の拡幅工事の際、邪魔だったたのでここ石原坂に移された。

徳川有徳公遺蹟碑
徳川有徳とは江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の院号(死後の法号)である。ここにあった茶屋で吉宗が休憩した際に支払いを永楽銭で行ったため茶屋は「永楽茶屋」と呼ばれたという。
余談だが、旅を通して活躍したOLYMPUSのカメラレンズ「M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO」は、この周辺だけ極めて強く紫のフリンジが出ている。一体何だったのだろうか。

明治天皇御少休止跡
こんな単なる森の中でなぜ明治天皇が休んだのかと思ったら、昔はここから駿河湾が望めたということだ。駿河湾は進行方向のはるか三島宿より先にあり、本当かと信じがたい。

山中新田簡易トイレ
視界が開けたと思ったら簡易トイレが。ここは山中新田と呼ばれる場所である。箱根峠の公衆トイレから久しぶりのトイレで、待ちかねた人には天の配剤と思うことだろう。だが僕は特に待ちかめていないため、扉を開けるのはかなりの勇気がいる。便器から手が出てきて尻を撫でられるかもしれない。ヤバい。素通り。

すぐに国道一号線を横断して反対側にまた小枯木坂の石畳が。

江戸時代の石畳とは違い、上部が平らにされた現代的な「なんちゃって石畳」なので歩きやすいがかなりの下り坂である。杉の木立の間をのんびりと進む。

箱根西坂には江戸時代の絵図によると、細い水路を渡る9箇所の石橋が描かれていた。これらは長い年月で地中に埋もれてしまい、その場所は定かではなかった。しかし平成7年(1959)に行った発掘調査で、願合寺地区の一本杉石橋と村上石橋が発見された。
一本杉石橋は保存状態が良好であったため、以下のように修復されている。

雲助徳利の墓(松谷久四郎の墓)
石畳の下り坂を降りきったところに、盃と徳利が浮き彫りにされた「雲助徳利の墓」がある。下部には「久四郎」と彫られている。
「久四郎」とは松谷久四郎といい、一説には西国大名の剣道指南役だったが大酒飲みのために事件を起こして国外追放となり、箱根で雲助の仲間に入ったという。雲助とは、江戸時代に宿場や街道で駕籠かきや荷物の運搬をした職業をいう。
久四郎は剣術の覚えがあったので、困っている仲間や若者の面倒を見て仲間から慕われていた。さらに読み書きができたので、文字が読めない雲助たちの手紙を代筆したり、相談に乗ったりしているうちに雲助仲間から親分として慕われるようになり、やがて街道筋の百姓からも厚い信頼を受けるようになった。
久四郎は終生酒を愛し、酒を楽しみ、酒の中で一生を終えた。その死後、彼を慕う後輩の雲助や土地の人々の手によって墓が建てられたという。

当初、この徳利雲助の墓は山中の一里塚のあたりにあったそうだ。
山中城址
小田原防衛のため永禄年間(1560年代)に北条氏によって築城された。天正18年(1590)天下統一を目指す豊臣秀吉の小田原攻めで落城した。400年前の遺構は大きいようで、城内遺構は八坂神社も祀られ、障子堀や本丸遺構など大規模な遺構があるらしいがスルー。ちらりと案内を見たところ、1時間コースと2時間コースがあった。これは見学は無理だ。日が暮れてしまう。

富士見平の眺望
地図で見ると箱根スカイウォーク周辺の国道1号線大きなヘビのように何度も蛇行して道がついている。言うまでもなくそれは斜度を緩めるためなのだが、旧東海道はその道をショートカットで貫くように直線的に進んでいく。
富士山が大きく見える。「富士見平」の名は伊達ではない。この辺りは東海道を歩く旅人に広く知られた景勝地で、絵画や日記などにも多く記録された。僕もとても気持ちが良く、写真を見返すと富士山の写真ばかりである。
ただし松尾芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で箱根を越え、富士見平を通ったときには濃霧で富士山は見えず、「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」と負け惜しみ(?)のような句を詠んだ。

笹原の一里塚
御覧の通りクルマも通れない石畳の道の南側の高台に笹原の一里塚がある。江戸より27里目の一里塚で、江戸時代の記録には松が植えられていたと記されているが現在は椎が植えられている。これは明治時代に新たに植えられたものと考えられる。


こわめし坂
笹原の一里塚を過ぎて間もなく、石畳の道から車道を横切ると待ち構える「こわめし坂」。箱根西坂で最大の難所と言われ、その名の由来は「余りの急勾配のため、背負った生米が汗と熱気で蒸されて強飯になった」という言い伝えから。昔の人はよくそういう例え話が思いつくなと感心する。
なるほど、下る僕は「急だね!」と思いながら歩くだけだが、京方面からこの坂を見上げるときに思うであろう絶望感は想像ができる。

こわめし坂を見上げる。

遠く三島の町並みを見下ろしながらこわめし坂を歩く。下の写真右手に、急坂すぎて見切れる坂が…

このように、旧東海道はクルマが通るのには不都合な急坂が多く現れる。現代において、こんな狭い急坂で通勤渋滞に巻き込まれたら困るの当然だ。新たに山や谷を掘削して現代の道を造っていくのは当然の流れなのだろう。
松雲寺
寺本陣だった松雲寺は生麦事件の島田久光や徳川慶喜も休息した。境内には明治天皇が腰掛けて富士山を眺めたという御腰掛石もある。

さっそく僕も御腰掛石に座って富士山を眺めて休憩。んー、気持ちいい!

遠く正面に、町並みの上の方にキラキラ輝く雲海のようなものが見える。ずっと遠くから見え隠れしていたのだがこの辺りになって一層目立つ。
「雲海が出るほど高い山があるのかな」と思って道行く方に尋ねてみたら、あれは相模湾なんだそうだ。目の錯覚で自分より標高が高いところにあるように見えただけで、相模湾の海面に太陽が反射してキラキラと見えていたのだ。

臼転坂(うすころげざか)
臼転坂に入る。古い道なのであちこちに石仏、石碑が置かれている。写真は馬頭観世音。道行く牛馬の守護神であり、旅人の安全を願って建てられたものだ。

錦田の一里塚
錦田の一里塚。両塚を残し、ヒノキが植えられている。
江戸より28里目の一里塚で、大正11年(1922)国指定市史跡となっている。

江戸時代末期の天保14年(1843)に編纂された「東海道宿村大概帳」には南塚に榎、北塚に松と書かれている。
東海道を歩くと静岡県内に一番長く滞在するが、その静岡県の中でも両塚が元の形のまま残されているのはここと富士川町の岩渕の一里塚のみとなっている。

この辺りの歩道はほとんど以下のようになっている。2026年4月から自転車の交通ルールが大きく変わったが、この旅の時はまだ歩道を自転車が走っているときである。
たまにガタガタと振動しながら自転車が通り過ぎていく。不快ではないのだろうか。

今井坂
今井坂をすぎると道が平らになり、三島の市街地に入る。股関節周りの筋肉がパンパンに張っているので、途中のコンビニでプロテインドリンクを飲みながらストレッチ。実に久しぶりのコンビニだった。

三島宿は南へ行けば天城越えをして伊豆下田に至る下田街道、そして東西に東海道が伸びる交通の要所であった。
三嶋大社
三嶋大社に寄って参拝、御朱印を頂く。
三嶋大社は伊豆国の一宮として源頼朝をはじめとした有力武将や多くの参拝者から崇敬された。

東海道五捨三次之内 「三島 朝霧」歌川広重
歌川広重の絵は三嶋大社の鳥居と早朝の早立ちの旅人が描かれている。衣にくるまる馬上の旅人と、腕を組んでいる駕籠の中の旅人はどちらも眠そうである。霧の中におぼろげに浮かぶ鳥居や灯籠、町並みは、木版画特有のボカシの技術で表現されている。

たたり石
たたり石。かつては旧東海道の中央で往来の人々の交通整理をしていた石。そのことから、糸のもつれを防ぐ「絡垜(たたり)」が語源だったのだが、のちに撤去しようとすると災いが起きたという伝承から「祟り」に転じたとされている。
歌川広重の絵に描かれていないので江戸時代には移動されたのかと思ったら、たたり石の移動は大正3年(1914)の道路改修の時なんだそうだ。

神門は慶応3年(1867)竣功。三島市指定文化財。

本殿、幣殿、拝殿は国の重要文化財であるが、僕が行った時は本殿が修復工事中で、斜めからしか参拝できなかった。残念。

ちなみに、三島宿には樋口本陣、道を挟んで世古本陣があった。三嶋大社には樋口本陣の茶室「不二亭」が移築され現存しているということだが、僕がそれを知ったのは翌日に樋口本陣前を通過した時のことであり、よって不二亭なるものは見ることは出来なかった。疲れで行動に余裕がなかったせいもあるだろう。
それでも三島市は僕が東京から歩いてきて思うところ、非常に歴史民俗の保存に理解があり予算と手間隙かけて旅人に有意義な情報を発信してくれている。例えば箱根西坂、つまり三島宿側を説明した案内板やパンフレットも多く、旅立つ前に三島市役所に問い合わせたところ、多くの紙資料を郵送で送っていただいた。感謝感激である。
そういった理由もあって、本来はケチな僕はなるべくこの親切な三島市にお金を落とそうと、紹介できなかったが色んなところに寄って、少しだけだがお金を使った。
我が日光市は旅人にとってどうなのだろう。旅人は日光の歴史を知って帰ってくれるのだろうか。少し心配である。
ホテルセレクトイン三島
16時頃、三島宿にたどり着く。本日のお宿はセレクトイン三島。シングル5,866円。

東海道上にあるのでスムーズにチェックインできるのがありがたいが、近くに開店している居酒屋的なものが見当たらない。うなぎが有名らしいがこんな夕方に気の利いた店は開いているはずがない。仕方なくと言っては何だが、ホテルから歩いてすぐのはま寿司で夕食と晩酌。コンビニも無いためにマックスバリュまで歩いて赤ワインを一本とナッツを買いもとめ、部屋で晩酌の続き。テニスボールを使って念入りに腰、尻周りの筋肉をほぐし、ワインを一本空けたところでベッドに潜り込む。
今日は非常に疲れた。天下の劍の名に一切の誇張無し。
明日は三島宿から静岡県富士市の吉原宿に向かう。予報は晴れ。

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