東海道五十三次 Day04 「小田原-箱根-三島」(1)

 本日は小田原を出発して箱根を越え、三島に至る予定である。この道中は見どころが多く、東海道最大の難所かつもっとも楽しい行程であった。
 一度に紹介すると長くなってしまうため、2回に分けての紹介とする。

箱根八里

 作曲:瀧廉太郎、作詞:鳥居忱とりいまことの唱歌「箱根八里」の冒頭「箱根の山は 天下の嶮」で広く知られる箱根峠は、箱根山を東西に越える東海道最大の難所と言われている。
 そのルートを詳しくご存じの現代人は実は少ないと思われ、大抵の人は「箱根駅伝」の5区、6区の山越え、山下りを想像するのではないだろうか。そうではないのだ。
 小田原から箱根に至る道は大きく分けて4通りある。
 1つ目は、二子山の北側、小涌谷や彫刻の森美術館の側などを経て芦ノ湖にたどり着く国道1号線。箱根駅伝のコースである「観光地としてのオーソドックスな箱根」。
 2つ目は箱根新道。箱根町の湯本から箱根峠までを結ぶ国道1号のバイパスで全線自動車専用道路のため125cc以下のバイク通行禁止。当然人は歩けない。
 3つ目は、江戸時代の旧東海道や箱根新道と離れたり合流したりする、上記の二つの道に比べて古いそれである「神奈川県道732号線」。徒歩で箱根峠を越える人は何度かこの道に合流することになる。
そして4つ目の今回ご紹介する旧東海道は、箱根入口で三枚橋を渡り、二子山の南側、石畳の道などを経て芦ノ湖に至る道である。その道中にはよくテレビで出てくるお土産屋等はおろか、コンビニ等も一切無く、道中、クルマは通れないか、通れたとしても殆ど見かけない。そして今回は2月の平日ということもあり、徒歩の人に至っては一人も見かけなかった。
 その道程は標高10mの小田原宿から846mの箱根峠を越え、標高25mの三島宿までの8里、すなわち32kmと言われる道のりである。

小田原宿ー三島宿
小田原宿ー三島宿の標高差

小田原宿

 早朝6時、小田原駅前のホテルを出発し、周辺で唯一営業していた「すき家」で朝食を済ませる。日の出は6:30過ぎのため道はまだ暗い。1kmほど歩いて小田原城の横を通り、旧東海道の御幸の浜みゆきのはま交差点に戻り、昨日の続きからとなる。

小田原駅前

モハ202号

 箱根口ガレージにブルーの可愛らしい電車が置かれている。これは昭和10年(1935)から昭和31年(1956)まで小田原駅-板橋駅間の国道1号線上を走り「チンチン電車」の愛称で当時の人々に親しまれた箱根登山鉄道の「町内電車」である。

箱根登山鉄道 モハ202

二子山

 旧東海道は国道1号線と合流したり離れたりを繰り返し、早川と箱根登山鉄道に挟まれる形で箱根に向かっていく。

遠くに二子山が

風祭の一里塚跡

 日本橋より21里目の一里塚。現在は地蔵と石造り道祖神が安置されている。

風祭の一里塚

箱根

三枚橋

 国道一号線を左折し三枚橋を渡る。左折せずに真っ直ぐ行く1号線が観光地としての箱根に向かう道である。
 まもなく道は急に斜度を上げ始める。旧道は細く、車も殆ど通らない。

三枚橋と二子山

特務機関NERV

 特務機関NERVのクルマが停まっている(!)。アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」は1995年に放送されたが、劇中の舞台は当時の20年後の2015年の世界である。当時は「あと20年もすると世界はこんな風になっているのかな」と思ったものだ。

ネルフ

正眼寺

 しょうげんじ。「曽我兄弟の敵討ち」の曽我兄弟の地蔵尊、曽我兄弟供養塔がある。境内は広く散策できるようになっており、なんと足湯もある。温泉地箱根らしい。

正眼寺

 本堂のすぐ横には大きな石造地蔵が安置されている。これは小田原城主稲葉氏の菩薩寺である長興山紹太寺にあったもので、正眼寺の地蔵が焼失した際にその代わりに招かれて置かれているそうだ。ユーモラスな顔立ちである。知り合いに似ている人がいるような…。

正眼寺の地蔵

湯本茶屋の一里塚

 江戸より22里目の一里塚跡。この辺りはたくさんの古い道祖神が祀られている。旅の安全を祈願して祀られたものだろう。

湯本茶屋の一里塚跡の碑

石畳入口

 写真の右手から細い道に入る。ここが旧街道の名残である。車道でも狭いことがお解りいただけるだろうか。この車道は現代では生活道路であって、観光道路ではないのだ。

箱根旧道
箱根旧道

馬の水飲み場

 馬の立場があった。昔の旅人たちはここで少し休憩し、長い箱根の道に差し掛かったのだろう。

馬の水飲み場

石畳

 石畳が敷かれている。ここはほんの数百メートルで現道に合流する「石畳初心者用の体験版」のような道だが、登ったり下ったりを繰り返す。

石畳の道
石畳の道

 葛原坂など、ほとんど誰も通らない坂道をいくつか登り、箱根新道に一瞬だけ合流する。二子山はもう直ぐ目の前に見える。旧道にはいくつかの神社や寺などの見どころがあるため、ヒーヒー言って坂を登る際に気分転換になってよい。

鎖雲寺

 歌舞伎「箱根霊験記いざりの仇討」の主人公、勝五郎・初花の比翼塚があるそうだが、悩んだ末に素通りしてしまった。歌舞伎に多少なりとも知識があったなら寄ってみたくなるのだろうが、先は長いので。

女転し坂・割石坂

 それぞれ解説があり、女転し坂は旅の女性が落馬して亡くなった坂、割石坂は曽我兄弟が敵討ちに赴く際、刀の切れ味を試そうと叩き切った巨石があるという謂れがある。坂は関東大震災で崩れてしまい土木工事によって現在の形になったということだが、確かに、昔は名がつくような急坂であっただろうが現在はそれほど険しい斜度ではない。

女転し坂
割石坂

接待茶屋跡

 車道から見え隠れしながら石畳の山道を進むと「接待茶屋」跡がある。現在は坂がずいぶんとなだらかになっているが、昔の坂は激烈で、ここで旅人にお茶、馬に飼い葉が施されたという。箱根路を往来する人のためにこのような茶屋がいくつか置かれていたそうである。なんと親切な。
 不思議なのは「旅人に茶や飼い葉を施さなくてはならないほどの激烈な坂」にある茶屋がどのような方法で日々仕入れを行っていたのか、ということだった。
 現在は建物は無く、だれも何も施してくれないので、ここでザックを置いて休憩。「箱根路のうつりかわり」説明板を読む。

箱根路のうつりかわり

大澤坂、羊腸の小径

 大澤坂登り三町余とされ、昔の石畳道がもっともよく残されている。「昼なお暗し杉の並木 羊腸の小径は苔滑らか」を地でいく石畳道にはあちこちに解説板がある。
 雨の日にはぬかるんで膝まで没するほどと言われた旧東海道。そこで昔々は毎年道の上に箱根竹を敷いたが、この作業を担う近隣の助郷にとっては非常に苦役だったと言われる。しかし竹では滑ってしまうため、延宝8年(1680)に1,400両もの大金を投じて石畳が敷かれたのだ。
 現在も残るこれらの石畳道ははっきり言ってかなり歩きにくい。しかし当時の土木技術ではこれが最適解だったのだろう。
 徳川家康や天皇、雄藩の大名、歴史上の人物がまさにこの坂をよっこらよっこら通って行った。ロマンである。やはりこの石畳を通らずして東海道を歩いたとは言えないだろう。

箱根の石畳

 写真でもよく分かる通り、気を抜くと滑る。今は登りだから滑っても手がつけるが、箱根から三島宿に向かう下りでは下手するとしこたま尾骶骨を強打するかもしれない。
 疲れているが慎重に。

箱根の石畳

畑宿

 畑宿(はたじゅく)に入る。このあたりに来ると標高も高くなり、日陰には所々に雪が残っている。

畑宿

 湯本ー箱根町の東海道東坂のほぼ真ん中に位置し、参勤交代の大名たちがひと休みした「本陣茗荷屋跡」などが残る。
 「宿」と言ってもここは正式な宿場ではなく、「間の宿」である。間の宿とは五十三次に数えられる正式な宿場ではないが、宿場間が長かったり険しかったりする場所の中間に設けられたものであり、宿泊はできなかった。東海道にはいくつか同様なものがある。

茶屋本陣跡

 「茗荷屋」を名乗る畑宿の本陣跡。参勤交代の大名や公家の休憩所として利用され、明治天皇も休憩されている。大正元年(1912)の全村火災の折に建物は焼失したが、庭園は当時の姿を残している。幕末にはアメリカ総領事のハリス・タウゼントが休憩した。箱根関所で一悶着あって不機嫌だったハリスは、ここで日本に着任して初めて見る日本式庭園を鑑賞してご威厳になったと言われている。

畑宿

 車道と分かれ、森の中に道は続く。

畑宿

畑宿の一里塚

 石畳道を進むと畑宿の一里塚がある。江戸より23里目の一里塚。両塚は復元されたものである。直径9メートル円形に石を積み上げ土を盛り、左右にそれぞれモミとケヤキが植えられた。この道幅がリアルな東海道の道幅なのだ。

畑宿の一里塚

 西海子坂

 西海子坂さいかちざかは「壁立するが如き」「踏み間違えると千尋の谷に落ちる」と言われた急坂。

江戸時代の石畳

 約220メートル続くそんな西海子坂の動画を撮っておいた。

箱根宿

橿木坂(かしのきざか)

 橿木坂かしのきざかは写真ではうまく説明できないが、見上げるほどの階段になっており、個人的にはここが一番きつかった思い出がある。江戸時代にはあまりの苦しさに「樫の木の坂を越ゆれば苦しくてどんぐりほどの涙こぼるる」と歌われていた。ここを歩いた方は「わかる、わかるよ、こぼるるよ」と思うことだろう。
 「箱根七曲り」という坂をご存じの方もいらっしゃるだろうが、箱根七曲りは橿木坂があまりにも険しいため、関東大震災の後、大正時代につづら折りの坂道としたものである。箱根七曲りは550cc未満のオートバイは4月1日~11月30日までの土日祝日の8時~15時までは通行が制限されているが、つづら折りにしてもそんな規制がされるほどの急坂を直登するのである。きつくない訳がない。

橿木坂

猿滑坂

 ザックを背負う背中を汗でびっしょりにしながら登り切ると「見晴らし茶屋兎月」の看板がある。小田原、相模灘が一望できる景勝地で飲食も可能らしいが、橿木坂を越えたと思いきや旧東海道から少し外れて車道まで登っていかなくてはならないということで素通り。クルマの人が行く場所だろう。
 その先には猿滑坂さるすべりざかがある。新編相模国風土記稿には「ことに危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」と書かれているが、今は階段も整備されており歩きやすい。

猿滑坂

甘酒茶屋

甘酒茶屋

 坂もなだらかになってきたところで「甘酒茶屋」がある。スターバックスにも2回位しか行ったことのない僕もここで小休止。力餅(焼餅)と甘酒を注文する。
 ここが旧東海道中で二子山の南端に一番近い場所になる。
 藁葺き屋根の店内はかなり薄暗く、薪で火が焚かれいるためほんのりと煙い。中ではバスでやってきた外国人の団体が飛脚の説明を聞いていたため狭く、寒かったが屋外で飲食。徒歩で来たお客さんには「徒歩観光記念御芳名帳」が渡され、自分の住所氏名を書く栄誉が与えられる。行く機会があったら2026年2月18日を見ていただきたい。親近感が湧くことだろう。

甘酒茶屋

 赤穂浪士四十七士の神崎与五郎(神崎則休)は元禄14(1701)年、敵の吉良上野介を探るために江戸へ急ぐ途中、立ち寄った甘酒茶屋で馬喰の丑五郎に言いがかりをつけられた。与五郎は「討ち入り」という大事の前であるということで我慢を重ね、詫び証文を書いて去った。その後、与五郎が四十七士の1人であったことを知った丑五郎は深く後悔し、出家して神崎与五郎を弔ったと伝わる。


 左手に車道が見え隠れしながら山道を進む。道はまさに登山道のそれであり、たまに「熊注意」の看板もある。甘酒茶屋で聞いた所、熊はめったに聞かないがイノシシとはけっこう遭遇するとのことだった。どちらもお断りである。

箱根旧街道

 車道を横断してまた森の中へ。クルマに乗った人たちは、森から出てきて反対側の森に入っていく徒歩の僕をみてギョッとしていた。
 「元箱根まで40分」と書いてあるのを見て勇気をもらう。

箱根旧街道

 石畳の道をゆっくりと登っていく。普通の坂道ならなんてことない道なのだが、石畳の道は石に合わせて歩幅を調整するため、体力を削られるのだ。
 この坂を越えると芦ノ湖が眼下に見える。

箱根旧街道

東海道五捨三次之内 「箱根 湖水図」歌川広重

 かなりデフォルメされた山と色彩の歌川広重の箱根。左手に富士山、茶色の二子山、そして芦ノ湖が、右手には折り重なった山々と、傘を被って箱根町に下っていく大名行列が描かれている。

東海道五捨三次之内 「箱根 湖水図」歌川広重
東海道五捨三次之内 「箱根 湖水図」歌川広重

箱根神社大鳥居

  芦ノ湖が陽光にきらめいて見えたと思ったら杉並木となり、開けた場所に鳥居が見えた。
  着いた!箱根だ!

箱根神社大鳥居

 箱根神社は旧街道から見るとずいぶん北にあり、とても寄り道ができる距離ではない。今日はこのまま三島宿まで行かなくてはならないのだ。
 芦ノ湖畔のセブンイレブンでおにぎりを買ったが、さすがに観光地箱根は(比較的)混んでいた。とくに脚を止めずに先を急ぐ。

箱根神社大鳥居

葭原久保の一里塚

 芦ノ湖の海賊船やお土産ショップが並ぶ舗装路から外れて杉並木に入る。江戸より24里目の一里塚。

箱根宿

旧東海道箱根杉並木

 今市に住む僕にとっては杉並木は見慣れたものであるが、こちらの杉並木は元和4年(1618)幕命によって川越藩主の松平正綱が植えたもので、今も400本余りが現存している。かつてはもっとたくさんの杉があったが、明治37年(1907)に湯本から芦ノ湖に至る新道を工事する際、不足した工事費を捻出するため杉並木と松の1,000本余りが伐採、売却されてしまった。
 ちなみに日光街道の杉並木は家康の33回忌にあたる慶安元年(1648)にやはり松平正綱によって日光東照宮に寄進された。これは箱根杉並木より30年後のことで、当時は16,000本程あったといわれている。この日光杉並木は台風等の災害や立ち枯れで減ったが、今も約12,500本が日光・例幣使・会津西街道にそびえ立っている。

箱根の杉並木

箱根関所

 箱根関所にたどり着く。この建物は当時の技術や道具を用いておよそ150年の時を経て完全復元されたが、なんとこの時は修復工事中。甚だ興醒めだが仕方ない。
 門の入口に券売所があって通り過ぎるだけでもお金がかかるのかと思ったが、箱根関所の資料館に入るための料金らしい。

箱根関所

 箱根関所では小田原藩によって旅人の往来が監視された。徳川幕府は箱根山を江戸防備のために重要視し、「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まった。関所破りは磔という重い刑罰だった。

箱根駅伝往路ゴール地点

旧東海道沿いに「箱根駅伝ミュージアム」があり、そこを右折すると箱根駅伝の往路ゴール地点(復路スタート地点)がある。

箱根駅伝

 マラソン愛好家としては「やはりここは走って通り抜けなければなるまい」と思い、ザックを下ろして近くの方にカメラのシャッターをお願いしたが、その人は日本人かと思いきやアジア系の外国人だった。話しかけた手前、仕方ないので英語でシャッターを押してくださいとお願いした。
 外国人は箱根駅伝のゴールなんて知る訳が無いので、非常に微妙なアングルの写真になってしまった。これが日本人なら、カメラを構える場所も説明不要で理解してくれただろう。もっと正面から撮ってほしかったのだが、拙い英語力で外国人にあれこれ指図するのも不躾かと思い諦める。

箱根駅伝 往路ゴール

連続する石畳の坂道

 箱根駅伝ミュージアムを過ぎるととたんに観光客はほぼゼロになる。ザックを背負い直して車道から別れ、また石畳の森の山道に入る。
 箱根宿が本日の最高標高かと思いきやそうは甘くない。向坂、赤石坂、釜石坂、風越坂、狭石坂と、1kmの距離の中にいくつもの坂が待ち受けている。この辺りはまだ標高730m。箱根峠はまだ先で、標高846mまで稼がなければならないのだ。

箱根旧道

 今回はここまで。
 次回は小田原ー三島宿の続きで、箱根峠を越え、下りの西坂を進む。

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