
午前5時前に自然に起床。
前日張っていた股関節周りの筋肉はかなり回復しているが、ザックのストラップが食い込む肩周りは打撲のような痛みで少し腫れている。
今朝はザックの肩ストラップに関わるハーネスを調整して出発してみる。何日か試すうちにベストなポジションが見つかり、以後肩周りは随分と楽になった。
3日目となる本日は平塚宿から小田原宿まで。翌日に箱根越えを控えているため今日は距離が短め。よって少しは寄り道ができると踏んでいるが、小雨がぱらついて寒く、パッとしない天気。
平塚宿

お菊塚
夜の繁華街の真っ只中にある紅谷公園内に「お菊塚」がある。ご存知、怪談・番町皿屋敷で「1枚…2枚…」と皿を数えるあのお菊である。


お菊にまつわる話は色んなバリエーションがあるが、一番史実に近いのではないかと言われるものを紹介しよう。
元文5年(1740)、平塚宿の役人・真壁源右衛門の娘「菊」は、江戸の旗本・青山播磨守主膳の屋敷で行儀見習いとして奉公していた。そこで菊は家宝とされていた皿を紛失してしまい、断罪として打首となってしまった。
菊の遺体は長持ちに詰められて平塚に送られ、父源右衛門は馬入の渡しで娘の亡骸を引き取った。刑死人は墓を建てることが許されなかったため、源右衛門は栴檀の木を植えて墓標の代わりにしたという。
源右衛門は「もの言はぬ 晴れ着姿や 菫草」 「あるほどの 花投げ入れよ 菫草」とその悲しみを歌に詠んだ。
後日、紛失したとされた皿は発見されたという。濡れ衣だったというわけだ。家宝の皿を紛失したという理由で打ち首になってしまうこの時代、なんともはや…

平塚宿の江戸見附
JR平塚駅から西に600mほど進むと平塚宿の江戸側の見附があり、本陣・脇本陣の跡の解説板がある。ここからが平塚宿の中心部になるが今はなんてこと無い普通の商店街である。本陣跡の標柱などを眺めながら通過。

大磯宿
高来寺村と高麗山と高来神社
平塚宿を過ぎ、京方の見附から先は大磯に入る。このあたりは昔100石の寺領を持つ大寺院「高麗寺」があり、高麗寺村という一村を治めていた。
神仏習合の寺院であった高麗寺は明治の神仏分離令で廃寺となったが、寺領にあった山は「高麗山」、神社としては「高来神社」が残っている。それぞれ読み方は「高麗山」(こまやま)、「高来神社」(たかく神社)である。高麗山を「こうらい」と読まないのはいろいろと理由があるのだろうが興味深い。
歌川広重の「東海道五十三次 平塚 縄手道」にも高麗山が描かれている。
縄手道とはあぜ道のことである。高麗山の奥には富士山が描かれているが現在はもちろん見えない。江戸へ急ぐ飛脚と、空の駕籠を担いでのんびりと進む男二人が描かれている。

虎御前の化粧井戸
鎌倉時代の「曽我兄弟の仇討ち」で有名な兄・蘇我十郎祐成の愛人で遊女であった「虎御前」はこの周辺に住み、化粧の水をこの井戸から汲んだと言われる。


化粧坂の一里塚
松並木が続く旧東海道沿いに「化粧坂の一里塚」跡があり、何やら工事中だった。
大磯の一里塚とも呼ばれ、江戸から16里目の一里塚。

大磯の松並木
旧街道の道幅を残していると思われる松並木を進む。このあたりが広重の「大磯 虎ケ雨」で描かれている風景と思われる。
曇る空から大粒の雨が降っている。馬の背にも雨合羽がかけられ、左手に相模湾が見える。


大磯宿本陣跡
大磯宿には東から順に小島、尾上、石井の3つの本陣を有していた。現在はその名残はなく石柱の案内板が建つのみである。

湘南発祥の地
小田原の崇雪が西行法師の歌にちなんで「鴫立沢」に標石を建てた際、この地が中国湖南省の湘江の南側の景勝地「湘南」に似ていたことからこの文字を刻んだとされている。

鴫立庵
西行法師ゆかりの地として知られる大磯鴫立沢のほとりに建てらている鴫立庵は300年以上続く俳諧道場で、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場といわれている。
今も投句箱が設置されており、全国の俳句愛好家が作品を投句している。

明治記念大磯邸園
途中、広大な敷地を持つ「明治記念大磯邸園」があり、旧大隈重信別邸・旧古河別邸及び陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸が無料公開されていた。
寄ってみたのだがこれらの美しい日本家屋の邸内に靴を脱いで上がらせてもらって見学できるのでお勧めである。

国府本郷の一里塚
江戸より17里目の一里塚跡だが、実際は東へ200mほどのところにあったと言われる。

押切坂の一里塚
江戸より18里目の一里塚。写真の右手(奥側)が国道1号線で、このあたりの旧街道は国道と離れたりくっついたりと、海岸線に沿って並行している。


太平洋を望む
押切橋にて中村川を渡る。どこにでもある小さな橋であるが、江戸を出発してからここで初めてしっかりと「海」を見ることができた。
歌川広重の浮世絵にある通り旧東海道は海の側を通っているはずであるが、海が埋め立てられたり大きな建物や道路があったりで、なかなか海が見えなかったのである。
海無し県に住む僕にとって、やはり海が見えるとテンションが上がる。水泳が苦手であることを差し置いたとしてもだ。

西湘バイパスに並行して進む
このあたりの旧街道は国道1号線を通っているが、すぐ海岸線のそばを走る西湘バイパスに比べ、圧倒的に交通量は少なく、特に見るべき史跡も無い。
そのためずっと相模灘を眺めながら遠く伊豆半島を望むのんびりした行程。

途中、大きな駐車場で休憩しザックを背負いなおしていたら上から視線を感じた。
住宅の屋根の上から大きな犬が不審そうにじっと僕を眺めていた。

小田原宿
小八幡の一里塚
このあたりは旧東海道は国道1号線となっているが、「小八幡の一里塚」の解説板を見逃してボーっと通り過ぎてしまう痛恨のエラー。
124個あったと言われる東海道の一里塚で、ここだけを写真に収められなかった。
江戸より19里目の一里塚で、松が植えられていたらしい。
酒匂川
酒匂川は広重の浮世絵にも描かれたように人足による徒歩渡しが行われていたが、冬期の水量が少ない際は仮橋が架けられた。もともとは舟渡であったが、延宝2年(1674)に江戸防御のために徒歩渡しに改められた。
日本武尊が東征の際にこの川に神酒を注ぎ、竜神に必勝を祈願したということから酒匂川と名付けられた。神話に出てくるところを歩いているのか、と思うとワクワクしてくる。

東海道五捨三次之内 「小田原 酒匂川」歌川広重
「小田原 酒匂川」をよくみてみると、正面に箱根の山々と小田原城、宿場の家並みが描かれ、川渡しは籠ごと大人数で運ばれたり、少人数で蓮台に乗って運ばれたりする旅人の姿も見える。
正面遠くに箱根の山々、対岸には裸の人足がたむろしている。

二子山
酒匂橋から二子山が見える。写真中央ほどの相似形の山がそれである。
小田原方面から元箱根に向かう際には、国道1号はこの山の北側(右側)を、箱根旧道は南側(左側)を通ることとなる。二子山は「エヴァンゲリオン」のヤシマ作戦で初号機が第6使徒を迎撃した第二要塞の所在地として描かれている。作中では山の片方が蒸発するのだ。
あんなところまで歩くのか、と思うが、旅も三日目になると「まぁ歩いてりゃそのうち着くだろう」と距離や焦りの感覚は麻痺してくる。

二宮金次郎表彰の地
酒匂橋を渡り終えて、酒匂川岸の方に少しだけ戻った場所が昔の川渡しの場所である。
ここには「二宮金次郎表彰の地碑」がある。
二宮金次郎(天明7年(1787)生まれ)の生家は酒匂川の側にあった。度重なる酒匂川の氾濫で、金次郎は5歳のときに一家離散するほどの悲惨な貧困を経験する。
叔父方の家で立派な百姓になれるようにしつけられた金次郎は20歳のときに独立し、自分の田を開墾すると同時に武家に奉公しながら田畑を買い戻して24歳の頃には、一町歩(約1ヘクタール)の地主に戻った。
ちなみに「百姓」とは農民だけを意味するものではなく、わらじを編んだり菜種油を絞ったり狩りをしたり、農業の他に様々な仕事をしていた民をいうそうだ。

この「表彰の地碑」には以下のように書かれている。引用しよう。
小田原藩主大久保忠真は、大阪城代・京都所司代の重責を果たして 文政元年(一八一八)幕府の老中に任ぜられ江戸に向かう途中領民の代表を集めて親孝行な者など十三名を表彰した 時に忠真三十八歳 金治郎三十二歳であった
その場所がこのあたりの酒匂川堤防下の河原と伝えられる
この表彰によって金治郎(後に金次郎・尊徳)は自他を振り替え忠真の厚い信頼を得て桜町や小田原をはじめ 全国六百余の農村の復興や藩などの財政再建に貢献した
金次郎は、文政4年(1821)に小田原藩家老の服部十郎兵衛の家計を立て直したことが評価され、翌年の文政5年には、大久保忠真に小田原藩の分家・宇津家が治める下野桜町領(現在の栃木県真岡市)復興を命じられた。
その後、嘉永6年(1853)には幕府から日光神領の復興を命じられ、今市(現・日光市今市)に滞在して領内の村々を巡回し、用水路を作り、荒地を開墾して着々と復興を果たしたが4年目にしてついに病に倒れ、安政3年(1856)、70歳の生涯を閉じた。
二宮金次郎の墓は日光市今市の我が家のすぐ裏手の報徳二宮神社の中にある。こういったわけで今市と小田原は姉妹都市提携したのだろうが、幼い頃から身近に感じていた二宮金次郎と我が地元のゆかりをこのような所で感じるのも旅の面白さなのだろう。
新田義貞の首塚
旧東海道からほんの少し外れたところに新田義貞の首塚と呼ばれる場所がある。
新田義貞は鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した武将で、北条氏率いる鎌倉幕府を滅亡させたことで有名である。その後は後醍醐天皇の建武政権下で活躍し、南朝側の総大将として足利尊氏と戦ったが、建延元3年/建武5年(1338)に越前国(福井県)で戦死した。東海道上にはこの先にも新田義貞ゆかりの場所がいくつかある。
この首塚であるが、越前で戦士した新田義貞の首を故郷の上野国(群馬県)に葬ろうとした家臣がこのあたりで病に倒れ、やむなくこの地に首塚を建立したと言われているが、京都や茨城県龍ケ崎市にも首塚や墓があり、実際のところは不明である。

小田原宿
小田原宿は小田原城の城下町として発展し、東海道最大の難所と言われる箱根を控えたいへんに賑わった。歴史小説などを読んでいても、小田原に泊まって次の日に箱根を越えて三島まで行くというのはよく出てくる行程である。
本陣と脇本陣が4軒ずつあり東海道中で最多で、旅籠の数も江戸時代後期には95軒を数えた。

小田原の一里塚跡
「山王原の一里塚」とも呼ばれ、江戸より20里目の一里塚である。

清水金左衛門本陣跡
小田原宿に4軒あった本陣のうちの筆頭、清水金左衛門本陣跡。清水金左衛門家は江戸時代小田原宿の全体を掌握していた。
明治天皇は、明治元年(1868)10月8日の御東行の際を初めとして5回ここに滞在したと記録されている。

小田原城
小田原城は北条氏の進出後に拡張され、その守りの堅さで上杉謙信や武田信玄らを退けた。天正18年(1590)、豊臣秀吉に攻められたことで北条氏は小田原城を明け渡し、領地は徳川家康に与えられ、西方からの攻めに対する防御として大久保氏や稲葉氏などの譜代大名が小田原城に入った。
小田原城は江戸時代の複数回の地震や明治時代の取り壊しなどで場内の建造物はほとんど取り壊されている。
現在の天守は昭和35年(1960)年頃に再建されたコンクリート製のもので、日本100名城に選出されている。


関東大震災で崩れた石垣
大正12年(1923)の関東大震災で小田原城の石垣は大きく倒壊してしまった。現在もそのままの状態で残されており、地震の破壊力が想像される。

報徳二宮神社
明治27年(1894)4月の創建。日光市今市の二宮神社は明治26年(1893)に起工され、明治30年(1897)に創建とされているため、ほぼ同時期に発起人たちによって創建が試みられたのであろう。
今市の二宮神社は、明治14年(1881)頃に今市町平ケ崎の根本源庫により神社創建を試みたが支障があって認められず、明治25年(1892)になって静岡県報徳社の松島吉平による協力によってようやく賛意が得られ、如来寺の社地を譲渡される形で竣工に至った。

小田原駅前
本日の宿は小田原駅前の「小田原ターミナルホテル」シングル¥6,050円。
小田原駅は旧東海道から1km以上離れていが、ここまで来ないと「ホテル」というものは周囲にはない。15分もルート上から外れて歩くのは心理的に結構辛い。民泊などは東海道上にあるそうだが、僕はそれ系が苦手なので仕方がない。
しかし駅前はお店の種類が豊富で、この日の夕食は海鮮丼生ビールと海鮮丼を堪能。うまし。


旅の出発前には箱根周辺の週間天気予報が芳しい天気でなく、最悪雨の中の箱根越えも覚悟していたが、予報はがらりと変わり、明日は晴天だそうだ。
非常に楽しみである。

コメント