東海道五十三次 Day02 「神奈川-保土ヶ谷-戸塚-藤沢-平塚」

 昨日は酒を飲んで(毎日飲んでいるが)22時には就寝し、ぐっすり眠って朝5時頃に自然に目が覚めた。2月中旬の日の出時刻は6:30くらいなので、ゆっくりシャワーを浴びて身支度を整えた。
 慣れないホテル暮らしが続くためひょっとすると眠れないかもしれないと心配していたがそれは杞憂だった。ホテルに忘れ物をするのも怖いので、出発前にもう一度狭い部屋をぐるりと見回して確認。
 普通の朝の体力が10とすると、一日30数km歩くとそれが4になる。今日の朝は体力が9くらいまでしか回復してないような気がする。疲れを引きずっているのだ。


 2日目の本日は神奈川宿から保土ヶ谷、戸塚、藤沢を経て平塚宿までを歩く。

東海道五十三次 神奈川ー平塚

旧東海道の標識

 以前にも触れたが、旧東海道はもはや裏道である。大正時代から昭和初期にかけて京都大阪と東京をつなぐ国道1号線ができていく際、旧東海道は急勾配や道幅が6m程度しかなかった上に住居や神社寺院、店が道の両端に立ち並んでいたため、これらを避け、野山を切り拓いて新しく道を造成した。
 そのため旧東海道は現在も変わらず幅6m程度のクルマがようやくすれ違える程度の道なのである。
 そんな東海道を歩く人々のために、各自治体は写真のような標識を設置してくれている。
 これはありがたいのだが、市町村によってそれらのデザインが変わり、設置場所も地面だったり標識だったり、電柱の目より上の高さだったり、予算や熱意の関係上そんなものは元々無い市町村もある。
 さらに具合が悪いことに旧東海道は裏道のため市町村の境界標識が無いことがほとんどなので、知らず知らずに新しい自治体に入り、そして東海道標識も変わるのだ。
 「今は間違いなく旧東海道を歩いているな」と思うだけにとどめ、標識を過剰に頼りにしてはならない。

旧東海道の印

保土ヶ谷宿

 この地はもともと保土ヶ谷、新町、帷子かたびらの三宿だったが慶長2年(1597)に一駅にまとめられたという。

旧帷子橋跡

 帷子かたびら橋は現在の場所とは違い、戦前までは現在の天王町駅前公園の場所にあって保土ヶ谷宿の入口となっていた。歌川広重の「東海道五十三次之内保土ヶ谷」にも描かれ、歌や俳句にも詠まれたが昭和31年に河川改修とともに場所を移された。

旧帷子橋跡
旧帷子橋跡

東海道五捨三次之内 「保土ヶ谷 新町橋」歌川広重

 歌川広重は新町に入る「新町橋」、現在で言うところの帷子橋を描いている。橋の上に描かれているのは虚無僧と駕籠、反対側からは大名行列の先頭が江戸に向けて歩いてくる。

東海道五捨三次之内 「保土ヶ谷 新町橋」歌川広重
東海道五捨三次之内 「保土ヶ谷 新町橋」歌川広重

保土ケ谷宿本陣 苅部家

 生麦事件があった日(文久2年8月21日(1862年9月14日))の夜、薩摩藩の島津久光は当初神奈川宿で一泊する予定だったが、横浜居留地に近い場所であったため、復讐を企てる外国人の襲撃を警戒して急遽保土ヶ谷宿の本陣・名主・問屋を務めた苅部家に泊まっている。

保土ヶ谷宿本陣跡
保土ヶ谷宿旅籠屋跡

保土ヶ谷の一里塚

 江戸より8里目の一里塚跡で、塚が小規模に復元されている。

保土ヶ谷の一里塚

権太坂・焼餅坂・品濃坂

 この辺りは3kmほどに渡っていくつかのかなり急な坂が続く。「権太坂」の名前の由来は諸説あるが、坂の名を聞かれた老人が自分の名を聞かれたと勘違いして「権太」と答えたからと言われる。江戸時代は今よりもっと急な坂道で行き倒れる人もいたという。「行き倒れる人がでる坂道」とはどのような坂だったのだろう。
 坂の上の方には小学校や高校があるが、通学する子どもたちをみて「毎日これじゃ足腰が鍛えられるな」と感心してしまうくらいの急坂だった。

権太坂

 「急な坂」を写真で表現するのは難しいのだが、下の写真はなんとなくその角度が解っていただけるのではないか。自転車で登っていくのは不可能な斜度である。

権太坂

投込塚

 権太坂を登りつめたところにある投込塚。行き倒れになった人馬を葬った場所である。
 権太坂周辺には昔は住む人は殆どいなかったが、現在のように住宅地として開発された際には多数の人馬の遺骨が発見されている。それらの遺骨は平塚の東福寺に葬られた。
現在は三界萬霊馬頭観音、青面金剛像がある。

権太坂投げ込み塚

品濃の一里塚

 当時は切通の急坂であった焼餅坂の急坂の上に巨大な一里塚が両塚残っている。江戸より9里目。

品濃の一里塚

品濃坂から

 品濃坂の頂上で環状2号線をまたぐが、その手前でこの旅で初めての富士山が見えた。ここから坂は思わず走り出してしまうほどの激下り坂になる。僕もランナーなのでわかるが、このあたりはいいランニングコースになるだろう。

焼き餅坂(品濃坂上)

戸塚宿

吉田の一里塚(戸塚の一里塚)

 吉田の一里塚跡の標識がある。江戸から10里目の一里塚跡。
 見渡しても昔の名残は全く感じられない。

吉田の一里塚

戸塚宿

 吉田大橋を渡って戸塚宿に入る。「戸塚」の名は源頼義・義家親子が建立した富塚八幡に由来すると言われる。

吉田大橋

 上の写真のあたりが歌川広重の描いた戸塚宿と思われる。ここから鎌倉への道が別れており、絵の中にも「左りかまくら道」と描かれている。

東海道五捨三次之内 「戸塚 元町別道」歌川広重

東海道五捨三次之内 「戸塚 元町別道」歌川広重
東海道五捨三次之内 「戸塚 元町別道」歌川広重

 ここは東海道と柏尾川沿いに大船を経て鎌倉へ抜ける鎌倉道との分岐点で、この浮世絵に見られる道標と伝えられているものが現在も近くの妙秀寺に保存されているそうだ。

戸塚宿澤邊本陣跡

 戸塚宿には本陣が2つ備えられていた。澤邊本陣は戸塚宿の開設に尽力した澤邊宗三によるものである。

戸塚宿本陣と明治天皇行在所

大坂

 今日はたくさんの坂を登ってきたが、最後に待ち構える長坂が「大坂」である。写真からその標高差が想像できるだろうか。
 昭和7年(1932)に坂の改修工事が始まり、坂の上を削って下に盛り土し、坂をなだらかに改良した。とは言ってもけっこうな坂道である。

大坂頂上から

お軽・勘平 戸塚山中道行の場

 歌舞伎の「仮名手本かなでほん忠臣蔵」で演じられ大人気だったのが戸塚山中道行の場。原作の浄瑠璃にはこの場面は無く、あくまで架空の話なのだがあまりの人気に碑が造られた。
 勘平とお軽の逃避行の場面で「鎌倉を出てやうやうと、ここは戸塚の山中。石高道で脚は痛みはせぬか」と、勘平がお軽の脚を気遣う場面だ。
 お軽でなくとも僕だって脚は痛い。誰も気遣ってくれないが。
 石高道いしだかみちとは整備されていない凸凹道のことで、この当時戸塚は山中の僻村だったことがわかる。

お軽・勘平戸塚山中の場

原宿の一里塚

 江戸より11里目の一里塚。ここも特に何の痕跡もない。

原宿の一里塚

藤沢宿

 藤沢宿は遊行寺ゆぎょうじの門前町として栄え、江の島や鎌倉への参詣人や行楽客で賑わった。

藤沢の一里塚

 遊行寺坂の途中にあり、「遊行寺の一里塚」ともいう。江戸より12里目の一里塚。
 遊行寺坂は当時の坂を掘削してなだらかにしたもので、一里塚はこの掘割の上にあったそうだが現在は住宅地として開発されており、何の痕跡も残さない。

遊行寺の一里塚

遊行寺(ゆぎょうじ)

 清浄光寺が本当の寺名である。時宗の総本山で開祖は一遍上人。境内の樹齢700年を超える銀杏の大木が見事だった。

遊行寺

東海道五捨三次之内 「藤沢 遊行寺」歌川広重

 歌川広重の絵で正面の丘の上に描かれているのが遊行寺。鳥居はここから南にある江の島弁天の鳥居で、その鳥居を裏から見ている構図になっている。今はこの鳥居は無いので、どこからどう見た構図か悩むが、おそらく江の島弁財天道標のあたりだろう。

東海道五捨三次之内 「藤沢 遊行寺」歌川広重
東海道五捨三次之内 「藤沢 遊行寺」歌川広重

源義経首洗い井戸

 マンション敷地の一角に、源義経首洗い井戸がある。
 自刃した義経の首は酒で漬けられて早馬で鎌倉に向かった。しかし頼朝は鎌倉入りを許さず、現在の藤沢市片瀬の龍口刑場跡で首実検が行われた後、片瀬川(境川の下流)に捨てられた。そこに金の亀が現れて首を甲羅に乗せて河を遡って藤沢の白旗にたどり着いた。村人が恐る恐るその首を見ると、首の目がぱっと見開いて、「我は義経なり」と言ったため、村人は驚いてその首をこの場所で洗い清め、近くに塚を築いて祀ったという。

源義経首洗い井戸
源義経首洗い井戸

大山道道標

 「是より大山みち」と記された延宝4年(1676)建立の道標。左手が東海道、右手は神奈川県伊勢原市の大山(標高1,252m)に鎮座する大山阿夫利神社への道である。

大山道道標

阿夫利神社 一の鳥居

 大山道道標のすぐ右を見ると、阿夫利神社の一の鳥居がある。阿夫利神社は古くから雨乞いの神として信仰され、昔は大山詣が盛んだったらしい。

大山道道標と阿夫利神社一の鳥居

四ツ谷の一里塚跡

 大山道道標を過ぎるとすぐに四ツ谷の一里塚跡の標識がある。辻堂の一里塚とも呼ばれる。江戸より13里目の一里塚。
 ここも何の形跡も残っていない。

四ツ谷の一里塚

松並木

 推定樹齢400年と言われる黒松の古樹がいくつか残る。

松並木

茅ヶ崎の一里塚

 江戸より14里目の一里塚で、南側の塚が現存している。
 ここまで、辻堂や茅ヶ崎などサザンオールスターズ的な地名が続いている。桑田佳祐氏のモノマネでサザンの歌を口ずさみながら歩くが、もともとサザンの曲をそれほど知らないのでレパートリーはすぐに枯渇した。
 ちなみに、サザンオールスターズはよいがここまでまだ一度も海は見えていない。

茅ヶ崎の一里塚

南湖の左富士碑

 東海道を京都に向かうと右手に富士山が見えるのが普通である。ここ南湖は道がグッと北に曲がるため、左手に富士山が見えるそうだが、当日は曇り空で富士山は見えなかった。

南湖の左富士

旧・相模川橋の橋脚

 小出川の手前に「旧相模川橋脚」とされる木の柱がある。しかし大きな河川である相模川はここよりまだ2km以上先のはずである。
 昔はこのあたりに相模川が流れていたそうで、関東大震災で水田が隆起した際、7本の橋脚が地上に現れたということだ。

相模川橋の旧橋脚

馬入の一里塚跡

 馬入ばにゅうの一里塚。相模川は別名「馬入川」とも呼ばれるが、鎌倉時代、相模川を渡る東海道に初めて相模川橋と呼ばれる橋が架けられたときに、落成供養に臨んだ源頼朝が乗った馬が暴れて落ちたという伝説にちなんでいる。

馬入の一里塚

 平塚宿に近づいたところにドラッグストアがあったため、そこで塗るタイプのバンテリンと栄養ドリンク3本セットを買い求めた。
 長時間背負う重いザックが肩に食い込んで、これが非常に辛く、脚は付け根部分が張って軋んでいるようだ。20kmを過ぎたあたりから股関節が痛み始め、ストレッチをして歩き始める。ただ、股関節の骨ではなく大きな筋肉の痛みなので、長年のランニングの経験から「これは大丈夫な痛みだ」とわかっている。
 ザックはその後数日かけてストラップやハーネスの位置を調整して、旅の中程の頃にはずいぶん楽な位置を発見した。練習の長距離歩行1日だけでは判明しなかった不都合も、2日、3日と経つに連れて表面化してくるということなのだろう。

 本日のお宿はホテルリブマックスBUDGET平塚駅前。シングル5,500円。ホテルに着いたら外出したくなくなると思い、近くのサイゼリヤで軽く食事をとる。結構飲み食いしたのに安くてびっくり。
 宿では小さなユニットバスに湯を張って浸かり、その後公式テニスボールで尻周りの筋膜リリースを行った。
 寝る前に栄養ドリンクを飲んだが、翌朝には冷蔵庫に残りの2本を忘れて旅立ってしまった。

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